24.
今日は昼休みに全体として用事が出来てしまい、屋上に行くことが出来なかった。
たったニ日ではあったが、もうずいぶんと白に会えていないような気がする。
その日は香織と話した朝だけに色がついていて、それ以降の授業も休み時間も明度の低いモノクロで、特に記憶には残っていなかった。
気づけばもう運動会練習で、特に記憶にも残らないような退屈な時間に優鬱感だけがのしかかった。
周りの生徒達は私の気力まで吸い取ったんじゃないかと思うほど元気で、皆楽しそうにこれまた白色のハチマキを頭に巻いて外へと向かっていった。
私もハチマキを取りに行った。しかし、そこには私のハチマキがない。
周辺へ視線を左右に動かしてみるがやはり見つからない。
なんとなく察しがついて、一つため息を吐き私はハチマキを探すことなくそのまま外に出た。一人だけハチマキを巻いていない頭だったが、皆と同じハチマキを巻いて同じ団体だと視覚的に認識されるより気分は良いと思った。
外に出ると日差しが私を劈いた。肌がジリジリと日差しを感知して脳に暑さとして認識させる。
日焼け止めを塗ってきてよかった。少し油分の持った膜が肌を覆った腕を反対の手でさすった。
いつもの乾燥した突っかかるような肌じゃなくて少しペタペタしている。あまり触り心地は良くないかもしれない。
実は昨日の夜少しだけ雨が降っていたようで、日差しの当たらない暗い地面には小さく水たまりが残っていた。
目の前に広がる濃淡のまだらなグラウンドに、小さく目を引く白色があった。
「あった。」
予想通りそれは私のハチマキで、土で濁った黒い水たまりで染色するように浸されていた。
「またか」頭の中でぽっとその言葉が浮かんだ。おそらく瑠夏か遥花だろうが、もしかしたらクラスの誰かかもしれない。
よく何度も同じことを飽きずにやり続けることができるな。まるで人の心を持っていない彼らを小さく称賛する。
物を隠されたり盗まれたりするなんて日常茶飯事だ。最初の頃こそ自尊心を針で削られるような悔しさを感じていたが、今になってはもう特に何も感じない。
私は比較的きれいで濡れていない端のほうをつまんで、水たまりから哀れなハチマキを救い出す。
繊維に染み込むことが出来なかった水滴が、ぼたぼたと軽やかな落下音とは程遠い、質量を抱えた音を立てて水を跳ね返す。
水滴が体操服にかかってしまいそうで、私は手だけ水たまりの上で固定したまま体を後ろに引いた。
遠くでは、クラスメイトたちがワイワイと集まっている。
傍観者だとわかる立場で眺めるその光景はなかなかに滑稽だった。
もう、このままここに座って練習に勤しむ彼らを眺めていようか。そう思ったら足が急に力が抜けて麻痺したような感覚に陥る。目視では確実に地に足をつけているのに、目を閉じれば宙に浮いているようだ。
少しの間、ただただ蟻のようにうごめく彼らを眺めていた。
時間だけが過ぎる。
大半の生徒が集まってきて、そろそろ練習が始まる。私の中の何かが、脱力した足を叩いて動かせた。
つまんで大半の水滴が落ちきって土が乾いて黒くなったハチマキをちらりと見る。さすがにこれを頭に結ぶのはためらう。かといって今から校舎に戻って洗うのには時間がかかりすぎてしまう。私は帰りにもう一度取りに行こうと水たまりの横にそっと畳んだハチマキを置く。誰かに見つかってしまうと面倒なので人の目があまり届かない木陰の出来た場所に置いた。
結局、私には一人でサボるほどの強さはなかった。
グラウンドの心做しか湿った土を踏んで、私は同じクラスメイト達が集まる場所へ歩いていった。進むたびに足に重りが追加されるようだった。
私が到着するとすぐに玉入れのときとはまた違ったリーダーと思われる短髪の生徒が集合を呼びかけていた。広い空気の中を揺れ動いて何重かに重なって聞こえる声は聞こえにくかった。
今日は大縄跳びの練習なようだ。
「大縄跳びの縄はこれで、朝に言ったチームごとに…」
リーダーは一つ一つ考えながら、たどたどしく言葉を拾い集めて皆に大縄跳びの説明を続ける。
皆は早く早くとでも言うように、気持ちだけを前かがみにしてリーダーの話半ばに期待を募らせていく。
チーム表は、もう思い出さなくてもわかる。
玉入れと同じで瑠夏と遥花と一緒だ。亜美がいないだけまだマシだとでも思おうか。
縄は一本だけでなくグループ数分用意されていて、それぞれ大縄跳びの用具係がグループの縄を回す役割の人たちに手渡していく。
私のグループは誰がやるのだろう。そう思って用具係が縄を手渡していくその手の動きを目で追い続け、彼らが私のグループの前に立つと、瑠夏が飛び出し、喜々した表情で縄を受け取る。
そうか、縄を回すのは瑠夏と遥花なのか。私は乾いた目を閉じて休ませる。同時に吐息が漏れた。目の前の景色が真っ暗で少しだけ心が落ち着いた。
目を開くと目の表面で張る水分が無くなったように目の奥が熱くなって涙が薄く滲んだ。
グループごとにそれぞれ練習をするそうで、間隔を取って練習を始めた。
私のグループでも瑠夏と遥花が縄の端と端を持って広がっていく。
残りのメンバーは広げられた縄の方へ一列に並んでいった。私はなるべく瑠夏と遥花に近づきたくなくて他の人よりも早めに真ん中の方へと歩く。
しかし、
「光虹はこっち。」
私の肩に手がかかり、細いが力強い力でぐいと後ろに引かれる。
振り返ると遥花と目が合う。思っていたよりも至近距離で驚き、遥花も少し眉を潜めて顔を引かせた。
いつも顔を見合わせてはいるが、しっかりと顔を眺めたことはなくて遥花はこんな顔だっただろうかと一瞬だけ困惑する。
抵抗しようにもすでに他の人達が並び終えていて、みな揃って私が端だと言わんばかりだ。
黒と白の丸い頭の連なった先で瑠夏は大きめの口に意地の悪い笑みを貼り付けていた。
もう抵抗する気すら起きなくて、ただただこの練習が早く終わるようにと念じながら私は最後尾で列に並んだ。
「もう練習始めていいのー?」
右のグループの方からそんな声が聞こえて、リーダーが「いいよー」と応答する。
それを合図に瑠夏が声を張り上げる。
「じゃあ、皆から見て時計回りに回すよ。」
「最初だからゆっくりやってよ―」
遥花も付け加えた。
瑠夏が一つ頷くときれいに巻かれた髪が揺れた。
風で前の皆のハチマキも揺れる。私は物足りない自分の頭から生える髪をサラリとなでた。
「せーのっ」
後ろから遥花の大きな声が聞こえる。大縄跳びは連帯責任だ。飛ばなきゃいけないという緊張が胸を縛った。自然と心拍数が増える。
私は縄をこれでもかと言うほど注視してタイミングを図る。
きっと一度飛べられればタイミングは合わせられるはずだ。しかし最初だからとゆっくり回る縄のタイミングを図るのは存外難しくて指を手のひらに擦り付ける。
きっと飛べなければ瑠夏たちになにかされるのはわかっている。
縄が地面を擦ったとき、私は瞬発的に足に力を込めて飛んだ。
一瞬、心臓が消えたかと思った。
すぐに、縄が止まった。
しかし、私の足に縄は触れなかった。
「ごめーん!」
空気を伸ばしてこねるみたいに強く響く声が私の耳に届いた。
同時に、皆の笑い声が沸き起こる。
「何やってんだよー」「まだ一回目なんだけど」とあちこちで言葉こそ文句ではあるが、誰も咎める気など微塵もない、楽しそうな声が聞こえた。
それを聞いて、私が縄に引っかかったわけではないことにホッとする。
「瑠夏と遥花、もうちょっと速いほうがやりやすいかも。」
縄に引っかかった人ではない、別の生徒が顔を瑠夏に向けて二人にそう言った。
「たしかに」と周りで数人の生徒がその言葉に同意した。
「ほんと?ごめんじゃあもうちょっと速くするねー」
語尾を少しだけ伸ばして瑠夏が軽快に返事をした。
一発目の練習だからというのもあって緊張していた場の雰囲気が、一瞬にして和んだ。
「せーのー」
今度は瑠夏が合図を出し、再び縄が回り始める。
初動の不安定な縄は、やはりタイミングがつかみにくくて自動的にと言っていいほど深く息を吸わされた。
肺いっぱいに満たされた空気の三分の二が吐き出されたとき、縄が地面に擦れた音と景色が飛び込み、私はすぐに足で地面を蹴ってさっきよりも高く上へ飛ぶ。
今回も縄に引っかかることはなく、心のなかで一つ吐息を漏らした。他の人達も今度は引っかからなかったようで、瑠夏と遥花の調子も段々と合わさっていき私達のグループは軌道に乗っていった。
最初の不安定な縄を飛び終わり、タイミングを掴んだことで私の縛られていた胸も緩んだ。私は気を抜くことなく飛んでいく。少し息が苦しくなって口を開いて呼吸をし始めた。
調子良く全員が飛び続けることが出来ているおかげで、前にずらりと並ぶメンバーたちも顔こそ見えないものの楽しそうに気分が高揚しているのが伝わってきた。
タン、とリズムよく縄が叩きつけられる。
それと同時に私は膝を曲げて上に飛んだ。
バンとしびれるような痛みとともに、バランスの崩れた私の体は地面に手をついた。徒競走のときに怪我をした場所に、無慈悲にも砂を擦り付けられ、うすくかさぶたが貼られた手のひらが痛みで鋭く痛くなる。
叩きつけられた足の痛みは一瞬で無くなって、代わりに瑠夏と遥花の笑い声が生まれた。
「ちょっと、玉入れだけじゃなくてここでも足を引っ張るの?」
私が飛ぶ瞬間、私が端に位置しているからと縄をぶつかるよう高くあげた遥花が私に向けて笑いながらそう言った。
私は振り返らない。
その代わり、前のメンバーたちは立ったまま地面に倒れた私を鬱陶しいように視線で刺し、緩んでいたはずの胸が再びぎゅうっと引き絞られた。
私は地面を擦った方ではないもう片方の拳を強く握り、立ち上がろうとする。
さっきの和やかな雰囲気とは打って変わった凍った空気に瑠夏と遥花の笑い声だけが響く。
「邪魔すんなよ」「空気悪くするのもいい加減にしろ」
誰も喋らない静かな空間なはずなのに、他の人達の私に対する文句が聞こえてきそうで耳が痛い。
うるさい、うるさい。
「おーい、こっち持ってきてってばー。」
鈴を転がすような声。
特別大きくもないその声は私の耳に張り付いた。細めていた目がパッと開く。
立ち上がろうと力んだ膝の動きが止まった。それは私のクラスの声ではなく、他のクラスのもののようだった。
一瞬、香織の声かと思ったが、もう一度脳内で今聞いた声を反芻してみると香織とは違った声だった。
「嫌いな人でも同じかな。」
そう言って照れたようにはにかみながら笑う香織の顔が、瞬きのほんの少しの間だけ閉じる瞼の裏に映った。
目を開くと、目の前のほんの少しのところだけが色づいて丸くなる。
もう変な声は聞こえなくなっていた。
私はもう一度きしむ膝に力を込めて立ち上がった。
同時に、
「ごめん、次は気をつけるね。」
そう皆に聞こえるよう、なるべく強く丸くそう言った。
前に並んで私を見下ろしていた人たちや奥にいる瑠夏は、潜めた眉や笑顔によってできた顔の皺を綺麗になくして、あっけにとられたようにこちらを見つめていた。
その顔は存外滑稽で面白い。
「は?何言ってんの?」
口答えしたのは初めてだろうか。体の血行が良くなった気がして頬から耳にかけた部分が少し熱くなる。
せめてもと毒を吐いた遥花の声はさっきとは打って違って小石みたいで、こちらを見ていたメンバーたちも気まずそうにふいと顔をそらした。
じゃあもう一回と掛け声を伝える瑠夏の声もさっきよりも小さくて、その後は普通に練習が続いた。
私のすぐ前の人が縄に引っかかって転んだとき、思い切って「大丈夫?」と聞いてみた。私の声に少しだけ体を震わせ、「大丈夫」とぶっきらぼうにつぶやく様子は失礼だろうが面白かった。




