23.
今日は昨日よりずいぶんと天気がいいようだ。
太陽は痛いほどの日差しを照りつけ、それを遮る雲は一つもない。
青空はアクリル絵の具で描いたみたいな綺麗で不純物が一つも混ざっていないスカイブルーだ。
グラデーションはあるが、下が白くなることはなく、上を見ても下を見ても全部鮮やかな青色だった。
私は美咲さんに言われてつけてきた、日焼け止めの塗った腕をちらりと見た。日差しによるせいか日焼け止めのせいなのか、いつもより肌が白く見えて艶があるように見える。
骨と皮ぐらいしかない細い腕はお母さんと似ているけれど、美咲さんくらい健康的で程よく筋肉のついた腕になりたい。
草木が照りつける日差しをその体で跳ね返し、自らの輝きへと変えている。
細い道路から、大きい道路へと出る。
道の太さが違うだけでも、景色はずいぶんと変わるものだ。
私は今日も黙々と行きたくもない学校へと真面目に足を進める。また体の真ん中あたりが苦しくなった。
お腹を手で擦ってみると制服の硬い生地が指を摩擦した。
「あれ、もしかして光虹ちゃん?」
急に後ろから、鈴を転がしたような、可愛らしいけれども芯の通った声が聞こえる。
体が震えた。
気のせいかと一度思ったが振り返ると、カバンに沢山のキーホルダーをつけた香織が立っていた。
香織は私と同じ制服で身を包んでいて、前に見た私服姿とはまた違った印象を受ける。
私は驚いて一瞬だけ目の前の景色が眠気のせいで引き起こされたものだと思った。
どうしてここに香織が?
「やっぱり光虹ちゃんだ!よかった、間違えてなくて。」
香織は少し硬直させた頬をゆるゆると緩めた。
すっと状況が飲み込めず、しばらく目を開閉させた。
「もしかして、香織も林陽高校なの?」
データが重くなったパソコンみたいに、ゆっくり状況を飲み込んで私がそう聞くと、香織はただでさえ丸い瞳を見開き、皿みたいにまん丸にさせた。
「え!光虹ちゃんも?」
ここらへんは似ている制服が多いから、図書館にあったときは気づかなかったのだろう。香織は嬉しそうにカバンを揺らし、それに続いてキーホルダーがジャラジャラとこすれ合いながら音を転がした。
「え、光虹ちゃん何年生?」
香織は桃色の唇から笑みをこぼし、それを拾うことなく私に問いかけた。
ここで立ちっぱなしもあれだと思い、香織を伺いながらゆっくり進み始めた。香織は笑みを浮かべたまま私に合わせて歩いてくれている。
「二年生だけど、香織は?」
「ん!私も二年生!おんなじだ。」
にんまりと目尻と口端を同時に引き伸ばし、犬は頭を撫でられたときみたいな、嬉しそうに顔を緩ませた。
私は少し、今自分がどんな表情をしているのだろうと思い、口を少しだけ開いたが、大した顔はしてなくて、代わりに笑みを作ろうとしてみるが意識しすぎたせいもあってかうまく出来なかった。
「光虹ちゃんはいつもここ通ってる?」
すぐとなりを軽自動車が通った。目に焼き付く赤色だった。
私が「うん」と小さくつぶやいて返事をすると、香織はふっと顔を背けながら体を左右に揺らしていった。
「もしよかったらだけど、明日から一緒に学校に行ってもいい?」
香織は足元にあった小さな石ころをカツンと蹴り飛ばした。それが私の方に飛んできて、靴に軽くぶつかった。
反射的に、「うん」と首を縦に振りそうになったが、香織の言った内容を理解して、思わず「え?」と声を出してしまった。
香織の口元がピクリと動いた気がして、私は慌てて付け加えた。
「もちろんいいけど、いいの?」
我ながらぐちゃぐちゃな問いかけだと思った。「いいけど、いいの」ってなんだ。
でも、私とは裏腹に香織は「いいの?」と言葉と一緒に体まで弾ませた。
そう言ったあとに、香織も私も、「いいの」とばかり言っていることに気づき、どうしてかそれが面白く感じて笑ってしまった。
「こっちの方向一緒の人いなかったから毎日一人で寂しかったんだー。」
香織はグ―ッと腕を絡ませて前に伸ばした。腕の裏に小さなほくろのついた香織の腕は白いが、でも程々に健康的に焼けていて、手入れがされているのがわかる潤った肌だった。
まさか一度会って連絡先を交換しただけで、ここまで距離が縮むとは思っていなくてふわふわした不思議な気分になる。
視線を感じて横を見ると、香織が私を真剣そうに眺めていて、どうしたのだろうと見つめ返すと我に返ったように照れたような笑みを浮かべた。
香織の近くから、モノクロの世界に優しく色をつけていった。枯れていた心に水をかけられるような、息を吹き返すように心臓がとくとくとなり始めた。
一期一会。お父さんがよく言っていた言葉。
「出会った奇跡に感謝して過ごしなさい。」その時は「出会った奇跡」というものが具体的に何を指すのかよくわからなかったが、今ならなんとなくわかる気がする。
「そういえば、あの本、やっぱり読んでみたよ。」
ちょっと柵を越えるような緊張をカバンに詰めてカオリに向けて言ってみた。
本はあれから七割くらいまで読み進んでいて、このまま読んでいけば返却日までにはずいぶんと余裕を持って読み終わりそうだった。
「本当!?」
香織はぴょんとうさぎみたいにこちらに体を向けて飛び跳ねた。
その自分の声の大きさに香織自身も驚いたのか、はにかみながら顔と視線を横にスライドさせながらも遠慮がちに「どこまで?」と聞いてきた。
そこまで恥じらいながらもやはりその本が好きなのか、香織のコロコロ変わる顔を見ているとなんだかおかしく思えてきた。
水をかけられ息を吹き返した心臓に温かい紅葉みたいな黄色が滲む。
「んーと、三分の二くらいかな。まだ図書館で言ってた”満たされているのは〜”ってところまではいってない。」
「じゃあ、あそこは?あの、主人公のおじいさんが”人が嬉しがることをしなさい”って言うところ。」
さっきよりも数段声のトーンの上がったカオリの言葉を聞いて、ああ、と頷く。
確か、”人が嬉しがることをしなさい。そして、誰かを喜ばせることに幸せを感じられるような人になりなさい。”だった気がする。
「うん、読んだよ。」
「私あそこ大好きなんだ―。もう座右の銘にもしてるくらい。」
学校に近づき始めてきて、学校の制服を身にまとった生徒たちがチラホラと現れ始めた。
皆相変わらず眠そうに緩んだ顔を浮かばせていたが、香織と一緒だからかいつもと朝の景色がずいぶん違って見えた。自然にいつもより視線が上向いた。
「そうなの?」
「うん、だから、周りの人が喜んでもらえることを意識してやってる。そうしたらもっと楽しく過ごせる気がして。」
一瞬、香織の姿が白と重なった。香織の顔に太陽の光が強く当たっていて、香織は眩しそうに目を細めた。鼻を境に顔の半分に影が落ちる。
白と香織が似ていると思うことがあったのは、こういうところなのかもしれない、と思った。二人とも真っ白なんだ。何にも染まっていない、純粋な白。
「それは、嫌いな人でも?」
思わず、そう聞いてしまった。
一瞬だけ亜美たちの顔が浮かんだ。
失礼だったかもしれない、そう思ってなにか言葉をつなごうと思ったが、香織は少し驚いたような顔をしただけですぐに答えた。
「嫌いな人。そうだね、嫌いな人でもおんなじかな。意外と自分が知らなかったことがあって、嫌いじゃなくなることもあるから。」
「まあ、嫌いな人を好きになるのは難しいけどね〜」と香織は付け加える。言ったあとに、少し恥ずかしそうにぺろりと唇を舐めた。
「すごいね」
純粋にそう思って、私は香織にそう伝えた。
朝の少しばかり澄んだ空気にその言葉はゆっくりともたれかかって、香織の耳まで風に運ばれていった。
「誰にでも優しく」小さい頃から何度も大人に聞かされた言葉。けれど、言うのは簡単でもそれはそう簡単にできるものじゃない。
簡単にできるならもっと世の中は優しい人で溢れてるはずだ。
香織はキョトンと丸い目を丸め、そんな事言われると思っていなかったとでも言わんばかりにほんのり色づいた頬を脱力させて小首をかしげた。
「光虹ちゃんの言葉って裏がなくてそのまんまって感じがするね。」
今度は私が驚く番だった。「どういうこと?」と香織に問い直す。
風がふわりと揺れた。もう風は冷たくなくて生ぬるかった。もうしばらく日が経てばきっともっと気温も高くなっていって夏がやってくるだろう。
足を包んだタイツの繊維を越えて風が肌に直接当たる。少しだけくすぐったかった。
「や、変な意味はないんだけど、皮肉とか裏のある感じが全然しなくて、きれいな言葉だなって。」
香織の言っている意図は半分理解できた気がしたが半分理解できなかった。
単純に香織のことを褒めただけで、こっちが褒め返されるとは考えられなかったからだ。
きれいな言葉。きれいな言葉って何を指すんだろうか。汚い言葉なら、目を閉じて耳を塞げば毎日のように亜美たちに浴びせられている言葉が蘇る。
「ありがとう。」
ひとまずそう答えて置くことにした。褒められたのが予想外だっただけで嫌な気分ではなかったから、柔らかい言い方を心がけて言った。
まともに同年代の人と会話をしていなかったせいで、基礎的なコミュニケーションの取り方が頭から欠損してしまったかもしれない。
香織が話すたびに何が一番良い返しなのか頭で一考してしまう。
それからは、香織が好きな本だったり運動会の話だったりと、沢山話題を振ってくれて私もそれに答える形で会話が続いた。
リハビリみたいに昔どんなふうに友達と話していたか体が思い出してきた。
一回だけ、自分から会話を振ってみた。香織がペットを飼っていると言ったので、それについて聞いてみた。
主観的に見てぎこちなかったその質問に、香織は嬉しそうにぽんぽんとその飼っている犬について答えてくれた。見た目の知らない犬だったが、聞いているうちにずいぶんと詳しくなってしまったくらいだ。
白と似ているけれど少し違う、同年代の子と話している感覚だった。
「また明日〜」と手を振る香織に玄関前で手を振り返した。胸がきゅうっと苦しくなったが、いつもの苦しさとは違って満たされた感覚だった。
明日が楽しみだ。そう久しぶりにそう思えた。




