第2話 魔境の夜
森に入って半日。
分かったことが三つある。
一つ目。魔境の森は、本当に魔境だった。
木が高すぎて、昼でも薄暗い。
足元の苔は、やたらと滑る。
どこからともなく、腹の底に響くような唸り声が聞こえてくる。
二つ目。俺の手元には、ほとんど何もない。
着替えの入った袋と、水筒が一つ。
唯一の武器だった剣は、さっき投げ槍の穂先にして、空の彼方へ飛ばしてしまった。
……冷静に考えると、あれは少しもったいなかった。
三つ目。俺が使える魔法は、生活魔法だけだ。
指先に火種を灯す【着火】。
そよ風を起こす【送風】。
コップ一杯分の水を出す【湧水】。
貴族の子弟なら誰でも子供のうちに覚える、本当に基本的な魔法だ。
剣の名門ストラング家では、それ以上の魔法を習う必要はないとされていた。
魔法を学ぶ暇があったら剣を振れ、というのが父上の方針だったからだ。
(つまり、戦闘に使えそうな魔法はゼロ、と)
前世の言葉で言えば、ほぼ丸腰でジャングルに放り出された状態である。
まあ、嘆いていても仕方ない。
◇◇◇
日が傾く前に、俺は寝床を作ることにした。
倒木を何本か集めて、【繋ぎ合わせる】。
枝と枝を。
蔓と蔓を。
乾いた葉と苔を。
ものの数分で、雨風をしのげる小屋が組み上がった。
継ぎ目は見当たらない。
扉には、蝶番まで付いている。
……我ながら、なかなかの出来だ。
プラモで言えば、ジオラマのベースを作っている感覚に近い。
パーツさえあれば、だいたいのものは組める。
問題は、パーツの少ない魔法のほうだな。
小屋の前で【着火】を使い、拾った枝に火を移す。
小さな焚き火が、ぱちぱちと音を立て始めた。
【湧水】で水筒を満たし、袋の底に残っていた干し肉をかじる。
空を見上げると、木々の隙間から星が見えた。
家にいた頃より、星がずっと多い。
(案外、悪くないかもしれないな)
追放された初日の夜にしては、穏やかな気分だった。
◇◇◇
その気分は、長くは続かなかった。
焚き火の向こう、暗がりの中で、何かが光った。
二つ。
四つ。
十、二十――数えるのをやめた。
低い唸り声が、森のあちこちから重なって聞こえてくる。
炎の明かりの縁に、黒い影が一頭、また一頭と姿を現した。
狼だ。
ただし、普通の狼の倍はある。
魔狼。
群れで狩りをし、一度狙った獲物は決して逃がさないと言われる魔物だ。
見渡す限り、囲まれていた。
……五十頭はいるだろうか。
「……ですよね」
焚き火に寄ってきたのは、どうやら俺だけではなかったらしい。
試しに、一番近くの一頭に向けて【着火】を放つ。
指先から飛んだ小さな火の粉は、魔狼の鼻先でぽすん、と消えた。
魔狼が、心なしか鼻で笑った気がした。
続けて【送風】。
そよ風が、魔狼の毛並みをふわりと撫でる。
気持ちよさそうに、目を細められた。
……うん。
まあ、そうなるよな。
生活魔法は、生活のための魔法だ。
戦うためのものじゃない。
群れのリーダーらしき、一際大きな魔狼がゆっくりと前に出る。
次の瞬間、群れが一斉に身を低くした。
跳びかかってくる。
考える時間は、ほとんどなかった。
◇◇◇
(――待てよ)
火種は弱い。
そよ風も弱い。
でも、別々のパーツなら。
小さな火も、風を送れば勢いを増す。
前世のキャンプで、炭火をうちわであおいだのと同じ理屈だ。
だったら、組み合わせればいい。
俺は右手に【着火】、左手に【送風】を灯した。
両手を、胸の前で合わせる。
「――繋ぎ合わせる」
手のひらの間で、火と風が溶け合った。
ろうそくほどだった火が、ごう、と音を立てて渦を巻く。
小さな炎の竜巻が、俺の手の中に生まれていた。
(……まだ足りないな)
一つで足りないなら、数を増やせばいい。
【着火】と【送風】を、もう一組。
さらに、もう一組。
十組。
二十組。
生まれた炎の渦を、次々と一つに繋ぎ合わせていく。
プラモのパーツを、一つの完成品に組み上げていくように。
手の中の渦が膨れ上がり、熱が顔を焼く。
跳びかかろうとしていた魔狼たちが、一斉に足を止めた。
もう遅い。
「行け」
俺は、炎の竜巻を地面に放った。
◇◇◇
轟音。
夜の森が、昼間のように明るく染まった。
炎の竜巻は焚き火を中心に円を描いて広がり、取り囲んでいた魔狼の群れを丸ごと呑み込んでいく。
悲鳴を上げる暇もなかったと思う。
数秒後。
竜巻が消えたあとには、焼け焦げた地面と、静けさだけが残っていた。
魔狼は、一頭も残っていなかった。
俺の作った小屋だけが、なぜか無傷で建っている。
……ああ、そうか。
繋ぎ合わせた物は、元より丈夫になるんだった。
「…………」
俺は、自分の両手を見下ろした。
「生活魔法も、組み合わせ次第なんだな」
なるほど。
ストラング家の誰も魔法を重視しなかったのは、きっとこういうことなのだろう。
兄上たちにとっては、この程度、わざわざ魔法を使うまでもない芸当なのだ。
俺は一人で納得して、小屋に戻ろうとした。
◇◇◇
そのとき。
じゃらり、と。
森の奥から、鎖の擦れる音が聞こえた。
続いて――女の悲鳴。
「……誰か、いるのか?」
返事の代わりに、いくつもの足音と、男たちの怒声が近づいてくる。
俺は焚き火の消えた暗がりを見つめ、それから、ため息をついた。
追放初日にしては、ずいぶん忙しい夜になりそうだった。




