位相4 酒と睡眠と幽霊と
人は幼いの頃の記憶を何処まで覚えているものだろう。
一般によく言われていることには、かなり個人差があるとのことだ。
一歳ぐらいの時の記憶があるという人もいる。
事細かに、様々なことを覚えているという人もいる。
逆に殆ど覚えていない。全く記憶がないという人もいるだろう。
徳田君はといえば、印象深い思い出だけを鮮明に覚えている。
保育園に通っていたとき、若い保母さんに「おっぱいタッチ」と称してジャンピング両手鷲掴みアタックをかましていた記憶。
一つ年長の女の子とお医者さんごっこやお風呂ごっこをしていた記憶。
割とそういうおませな思い出を多く、そして生々しく覚えている徳田君だが、もちろん年相応にお気に入りだった超合金のおもちゃで遊んだり、特撮ヒーローの主題歌が好きだったりといった記憶もある。
だが、「いやな思い出」となると一つしかない。
あれはお昼寝タイムの時だった。
徳田君は眠れなかった。
寝よう寝ようと思っても寝られなかったのだ。
まわりの子は全部、スースー寝息をたてているのに一人だけ悶々とした記憶がある。
目を閉じても眠気はやってこず、何度も寝返りをうった。
寝返りを打つたび、なにやら自分が悪いことをしているような気になり、タオルケットを頭まで被って、ひたすら寝たふりをしていたのだが――。
昼寝時間が終了したとき、タオルケットを乱暴に取り剥がされたことを覚えている。
タオルケットを取り払ったのは年輩の保母だった。
ソイツは徳田君の寝たふりを見とがめ、「なぜ寝ないのか」「いけない子だ」とすさまじい剣幕で怒った。
しばらくの間、昼寝部屋に一人残されてしまい、火がついたようにわんわん泣いた事を、徳田君は今でも昨日のことのようにはっきりと思い出せる。
怖かった。そして、幼いながらも「あまりにも理不尽だ」と思った。なぜここまで怒られなければならないのか、眠れないんだ、しょうがないじゃないかという悔しい気持ちでいっぱいになった。
徳田君は寝つきも寝起きも悪い体質だった。
小学校に上がっても、中学校に上がってもそれはかわらず、少し家から遠い高校に通っていたころは、午前中はしばしば頭がかすんだようになってボーっとしていた。
思えば自分が入眠下手になったのは、あの年輩の保母のせいではないか。
徳田君はそう思っている。
できることなら、あのお昼寝タイムの時までタイムスリップして、あの年輩の保母をとことんやりこめてやりたい。そこら中を引きずり回しながら、思いっきり罵倒してやりたい。
「そういやあのババアには『おっぱいタッチ』をかましたことなかったな」
幼い頃の徳田君にとって、件の保母は「おっぱいターゲット対象外」になっていたことを今さらのように徳田君は思いだした。
ぶっちゃけると、好みではなかったのである。
割とその辺は幼児といえど、シビアだ。そして残酷である。
だからその腹いせにあのお昼寝タイムの時、あの保母は理不尽なキレ方をした……と、いうわけではないのかもしれないが、時々、徳田君は思い出してはムカムカするのである。
* * *
お祖母ちゃんと電話越しに対話した日から、徳田君は酒を飲むのを止めた。
徳田君にとっては一大決心だ。やりたいことをやれない。あれこれと指図を受けたり、干渉されることもすることも、徳田君にとっては不愉快極まりないことだったが、それはお祖母ちゃんにとっても同じだったに違いない。
わざわざ「あっち」にいるというのに、お祖母ちゃんが干渉してきたということは。
説教をせずにはいられなかったということは。
自分は想像以上にのっぴきならない、まずい状況に陥っているのではないかと、徳田君は考えたのである。
とはいうものの徳田君は大学生の頃からずっと酒を飲んでいる。
酒をやり出したきっかけは、古本屋でバイトしていた頃、仕事上がりに酔っぱらった悪友にばったり出会い、勧められて、二人で安いウイスキーのボトルを一晩で開けたのがきっかけである。
徳田君は酒にのめり込んだ。
美味いと思ったことはあまりない。
小田和正の歌ではないが、「酔うだけのためにグラスを重ねる」というやつである。
酩酊状態なることによって思考も身体も弛緩し、頭がぐるぐる回り始めた頃、いい気分で布団に入る。
寝つきの悪い徳田君にとって、寝酒は切っても切り離せないものになっていた。
起床後、二日酔いに苦しむたびに、「もう飲まない」「酒はやめる」と思ったりもするが、辞める気なんてさらさらないのである。酩酊しているとき、二日酔いに苦しんでいるときでさえ、少なくとも辛いことや難事から目をそむけることが出来るからだ。
普通の人間には見えないものが“視えて”しまう。
その感覚も酔っているときや二日酔いの時は大幅に鈍って、煩わしい思いをすることが激減するというのも、徳田君が酒に溺れている理由の一つであった。
「過敏な神経を鈍らせるために酒や麻薬が必要だなんてのは片腹痛い自己弁護だ」なんて外国の有名な作家がエッセイか何かで書いていたが、そんなもんは大きなお世話だと常々思ってる徳田君である。
仰る通りだが、自分が断酒に成功したからって、そう言うこというの辞めてもらえませんかねぇ……。
そんな風に考えている徳田君が、実家に電話したその日から……酒を断った。
胃がいつも以上にムカムカし、なにもする気がなくなって、頭痛もした。
今までに感じたことのない頭痛だ。後頭部がきりきり痛む。
徳田は西陽台を離脱した。
漫画喫茶やファミレス、マック、友人の家などを渡り歩いて生活するようになった。
どうにも、自分の状態が悪いことに感づいているからだ。
体調は悪く、なおかつ酒が抜けている覚醒状態。
今の状態で西陽台にいれば、かなりキツイ、というかヤバイ霊障にかかることがわかりきっていたからである。
そんな生活を初めて十日間過ぎた頃。
その日も友人の家に勢いで転がり込もうとした徳田君だが、断られてしまった。
もう、あてがなかった。
手持ちの金も心もとない。
自棄になった徳田君は、日も暮れた刻限、あてどなくふらふらと、仕方なく西陽台の自宅に帰ろうとしていた。
その道すがら、自分が園児だったころの記憶を掘り起こしていたというわけである。
徳田君は一つ大きなため息をついた。観念したような表情で、携帯を取り出す。
今まで連絡を取ろうとしなかった知り合いが一人いる。
同業者として、ちょっぴりジェラシーを感じる存在であり、出来ることならあまり「こういったこと」で関わりを持ちたくない存在。
しかし、彼女は以前こう言っていた。
――まあ、なにかこの手のことで話のネタがあったら、私に連絡ください。
――やばいことになったら、力になれるし……
徳田君が電話をかけた相手は、原田敦子さんだった。