第二話 誰にも理解されない女 後編
翌日
私は病院にいた。
どういう話があったのかは知らない。
とにかく、そのまま家には帰れなかった。
白い天井に白い壁。
鉄格子の窓からは、辛うじて青い空が見える。
目の前には白衣を着た男。
「これまでで、一番辛かったことは何ですか?」
「辛かったこと?」
何だろう。
考えてみる。
父親が死んだこと?
母親に裏切られたこと?
最愛の恋人と別れたこと?
色々あった。
でも「特にないですね」そう言うと、医者のペンが止まった。
「……そうですか」
何かを書いた。
「ですが、あなたは三か月ほど前にも、大きな出来事を起こしていますね」
三か月前? 大事件?
「ああ」
多分、あれだ。
「それは、どうしてだったんですか?」
どうして。
またそれだ。
みんな理由を知りたがる。
あの時は確か――
――三ヵ月前。いや、あれは四ヵ月程前か
クスオが突然言った。
「フィリピンにでも行くか」
「いいね!」
それだけで決まった。
交通費・宿泊費・観光費
なんだかんだで、100万円は使ったと思う。
全部私が出した。
でも、その時は別に気にしていなかった。
いや、今でも気にしていないか。
一週間。遊んで飲んで笑って。まあ、他にも色々とあったが
問題は帰ったその後だった。
生理が来なくなった。
一週間、二週間、一か月。
さすがにおかしい。
病院へ行き、妊娠が発覚した。
「客の子だろ?」クスオは言った。
「……は?」
「俺の子じゃねえよ」
確かに。
絶対に違う、と証明出来るわけではない。
でも、フィリピンへ行った時、私はピルを忘れていた。その事を話すと
「じゃあ降ろせばよくね?」それだけだった。
その夜
自殺の方法を、ネットで調べていた。
首つりが楽そうだったけど、あいにく吊るす場所がなく
薬局で大量の薬を買い込み、飲み干した。
朦朧とした頭の中『命のダイヤル』が目に留まり、電話をかけてみた。
何を言われたかはよく覚えていないが口論となり
「来いよ!来れるもんなら来てみろよ!」とか言った。たぶん。
しばらくして、玄関が叩かれた。
あれ?本当に来た?どうして?私は男とヤルくらいしか価値なんてないのに。
また叩かれた。
もう放って置いて欲しい。それとも、そんなに私とヤリたいのだろうか?
みんなそうだ。男はみんな私とヤリたがる。
ドアがうるさい。怒鳴り声?兎に角うるさい。
そういえば、私が呼んだのか。ならまあ最期にさせてあげてもいいか。
起き上がろうとした。けれど、身体は動かない。
ああ。このまま死ぬのか。まあ、別にいいか。疲れたし。
目を閉じた。
何も聞こえなくなった。
さよなら。ママ、モカ、そしてマリオ。
パパ。もうすぐ逢えるね。褒めてくれるかな?
いや、流石に怒るか。泣くかもしれない。
でも、きっと最後は抱き締めてくれるよね。
あの時、みたいに。
窓の割れる音がした気がする。
抱き抱えられながら「良く来てくれましたね~♪」そんな事を私は言っていたらしい。
それからの事もよく覚えてはいないが
人生初の胃洗浄。
その苦しさだけは「もう二度とやらない」と心に誓う程に憶えている。
「それは、お辛かったでしょう」
目の前の医者が言った。
深刻な顔をしていた。
私は首を傾げた。
「別に」
「……別に?」
「辛くなかったですよ?」
むしろ、その後が重要なのだ。
「だって、あの子に巡り合えたんです!」
「あの子?」
「はい♪」
――フィリピンから帰国後
私のキャッシュカードは、クスオが持つようになっていた。
旅行先で私は財布とパスポートを失くしてしまい、少しだけ大変だったのだ。
まあでもいつものことだ。私が物を落とすのは。
ちなみに、免許の紛失回数は7である。
「これからは俺が管理してやるよ」とクスオに言われ「頼んだ」と、預けていた。
しかしそれからだった。
仕事が終わってクスオと会うと「ほらよ」と千円だけ渡されるようになった。
「これだけ?」と、睨むとクスオは「これで、もうすぐ結婚出来るね」と満面の笑みで返した。
私はその笑顔に弱かった。
そしてそれでも、千円があり、叩かれることもない。幼い頃よりはマシだったのだ。
でも妊娠をどうにかするには、そんな額では足りない。
事後、クスオに話すと「わりぃ、今金無いわ」と、電話を切られた。
知っていた。こいつがクズな事くらい。
困った私は、祖母の家へ行った。
祖母。正確にはひいおばあちゃんだが、霊媒師をしており、彼女はとても厳格な人で、私にとっては駆け込み寺だ。
とはいえ今回は理由と額の大きさで多少の心苦しさはあった。あくまで多少だ。
寧ろ別の目的に胸が鳴っていた。
影ぼうしが長くなるのを待ち、古い家の玄関の引き戸を引くと、祖母が出迎えてくれた。
「おばあちゃん、久し振り。元気そうだね」
居間に上がると、私は笑顔のまま続けた。
「お金なくて困ってるの。二十万ちょうだい♪」
怒られた。
何に使う。
何で金がない。
あんたは昔から。
延々と説教されたが私は「うんうん」と聞いていた。
やがて祖母も言うことがなくなったのか、呆れた顔で部屋を出ていった。
最後には必ずお金をくれる。
私はそれをよく理解していた。
彼女の足音が遠ざかるのを待ち、私はそっと腰を上げ、部屋の中を見回した。
もう一つの目的を果たすのだ。
古いたんす、仏壇、棚の上。
どうしよう。
目移りしていると、たんすの前で三毛猫が大きなあくびをした。
赤く開いた口から、小さな前歯が覗いている。
可愛い。可愛すぎる。
そう。祖母の家は、ねこが沢山居た。
別に飼っているわけではないらしいが、夕方になると祖母が餌をあげ、自然とねこ屋敷になったらしい。
今はねこ達にとって食後の、のんびりタイムなのだ。
あくび
あの凶悪な牙と牙の間にある、ちょこちょことした赤ちゃんのような前歯は反則級であり、私の理性は一発レッドカードで退場させられた。
もふりたい。嗅ぎたい。抱っこしたい。
近付き、手を伸ばすと、三毛猫はチラリと私を見た。
指先が触れる直前――逃げてしまった。
「そんなぁ……」
畳に膝と両手を付いた。
少し、がっつき過ぎたかもしれない。次はそっと行こう。
気を取り直し、棚の上で丸まっているドラねこに目を向ける。
よく寝ている。大丈夫。今度こそ。
柔らかな毛に触れた瞬間――威嚇され、逃げられた。
私は再び、膝と両手を付いていた。
優しく触ったつもりだったが、驚かせてしまったらしい。悪いことをした。
反省しながら膝を抱え、ねこ達を眺めた。
寄り沿い合い、寝ている子達。
グルーミングをし合う子達。
母らしきねこに甘えているこねこ。
いいのだ。見ているだけで、癒される。可愛い。ずっと見ていたい。
気付けば――頬に熱い雫が伝っていた。
「え?」
顔を膝に埋めた。
どうして泣いているのか、自分でもよくわからない。
幸せになりたいだけなのに。
どうしていつも、こうなるんだろう。
誰が悪い?日本が敗戦国だから?それとも母親のせい?いや、クスオだって悪い。でも、そんな男に金を渡す自分が悪い。でも――
しばらくの間、うじうじと塞ぎ込んでいると
ふと、スカートの隙間。太ももの間に、何かが触れた。
「……?」
顔を上げると、宝石のような青い瞳と目が合った。
小さな、手のひらに乗りそうなほど小さなキジトラ。
喉を鳴らしながら、膝の上に乗ってきた。
頭を擦り付けると、そのまま丸くなった。
「何で……?」
小さな背中を、そっと撫でた。
気持ちよさそうに、身体をくねらせた。
しばらくして祖母が戻ってきた。
「おばあちゃん」
「何ね」
「この子、貰っていい?」
祖母が、持っていた封筒を落とした。




