第三話 たった一匹の理解者
処置を終え、病院への支払いを済ませたその夜。
自室のベッドで塞ぎ込んでいた時だった。
頬に、ざらりとした感触。
こねこだった。
その晩、私は夢を見た。
よく覚えていないが、目覚めるた時「ベイビー」と名付けていた。
それから
仕事が終わりクスオに呼ばれても断るようになった。
家のドアを開けると、必ずベイビーがお出迎えをしてくれる。
餌をあげると、美味しそうに食べる。余程気に入ったのだろうか。涙を零しながら食べる事もあった。
ねこじゃらしのおもちゃに夢中になる。毎日毎日、私もベイビーも飽きることなく遊んだ。
遊び疲れて一緒に寝る。
クスオは面白くなかったらしい。ある夜家に上がり込んできた。
「そんな猫捨てろよ」
私は即答した。
「ベイビー捨てるくらいなら、あんたを捨てる。あと、お金頂戴」
クスオの顔が引き吊った。
◇
「……それでも」
医者の声で、私は病室に戻った。
「その彼氏とは、別れなかったんですか?」
「はい」
「何故ですか?」
何故。またそれ。何度聞かれても、答えは変らない。
「今まで貢いだお金が無駄になるのが嫌だったので」
医者は昨夜の警官と同じ顔をした。おでこは叩かなかったけど。
「話したくなければいいのですが……一体、その彼氏さんと何があったのです?」
これも昨日警官に話した通りだ。「タイミングですよ」と言うと、医者が「詳しく出来れば最初からお願いします」と言ってきたので「生まれた時からですか?」と、返すと「ええ、是非お願いします」と笑顔を向けられた。
その後、私は延々と話し続け、終わった頃には日が傾いていた。
一つの病名がついた。
双極性障害Ⅰ型。
ちなみに、だが。医者だと思っていた男は、カウンセラーだったらしい。どうでもいいけど。
改めて、医者に色々と説明を受けた。
私は「へえ」くらいに聞いていた。
それより、早くベイビーに逢いたかった。
けれど帰してくれなかった。
私が人生で唯一落ち込んだとするならばこの時だ。
鍵の掛けられた病室で、進まない時計を見るたび、今頃どうしてるかな。寂しくないかな。餌はちゃんと貰えてるかな。お水は毎日3回は変えてくれてるかな。ベランダで日向ぼっこさせて貰えてるかな。爪は。トイレは。一人で眠れてるかな。ごめんね。私なんかが飼って、ごめんね。
そればかりだった。
次の日
「いつ、出られますか?」カウンセラーに尋ねると「それはわかりません」と頭を振った。
落ち込む私に「言いにくいのですが」と彼は続けた。
話しはこうだった。
泥酔ではなかったとはいえ、飲酒運転は重罪。
多額の罰金、そして執行猶予無しの実刑が普通。
世界が遠くなった。
「ですが、このまま入院していれば――」
何かを言っていたような気もするが、耳には入らなくなった。
実刑。それはすなわち、ベイビーに逢えなくなるということ。
あの子が私が帰りを待ち、玄関の前で待ち続ける。
独りぼっちで。
いつまでも。
それから退院するまでの約一週間。碌に食事も取れず、眠れず、体重は5キロ以上も落ちていた。
◇
スマホの電源を入れると、未読件数は100を超えていた。ほとんどはクスオだ。
『俺が悪かった。もう一度だけ、やり直したい』
『今夜どうしても逢いたい』
『お金が無くて困ってるんだ、頼む、助けてくれ』
躊躇うことなくブロックし、家路を急いだ。
玄関の鍵を開ける。
いつもなら、鍵の音だけで鳴きながら走ってくる。
「……ベイビー?」
靴も脱がずに、部屋に上がった。
いない。
心臓が嫌な音を立てた。
まさか、私が帰ってこない間に。
私が、あんな馬鹿なことをしている間に――
その時だった。
小さな鳴き声。
部屋の奥から、ベイビーが飛び出してきた。
「ベイビー!」
しゃがんで両手を広げる。
真っ直ぐ、胸に飛び込んできた。
「ごめん……ごめんね、ベイビー……」
抱き締める。
滑らかな毛並み。
小さな身体の温もり。
いつもの匂い。
「良かったぁ……」
顔を毛に埋めた。
「ほんとに……良かった……」
「もう、お姉ちゃん。だからあんな男とはさっさと別れろって言ったのに」
顔を上げると、妹のモカが居た。元々私と違って可愛らしいのだが、控えめに言っても天使にしか見えなかった。
「ごめんね、そんなことより、モカがこの子の面倒みてくれてたんだよね?ありがとう。本当に、ありがとう」
ベイビーと抱き合いながら言う私に、モカは苦笑いを浮かべていた。
けれどすぐ、現実に引き戻された。
この子と離れたくない。逃げる?だめだ、きっとすぐ捕まる。海外なら?だめだ、お金がない。稼ぐ?それもいい。ベイビーが来てからは、仕事もそこまで苦ではなくなっていた。「今日はどうしたんです?」と、素直に聞けるようになった。そのお陰で、男だってヤリたいだけではないとも知った。もし話題が無くなれば、ベイビーの話をすればいい。それに今なら、稼いだお金は全て自分のもの。そうだ。
私はその夜、目に付いた店に電話をした。
◇
それからの3ヵ月は、気が気ではなかった。
ある朝、仕事から戻ると、ドアのポストに一通の封書が届いていた。
差出人は、検察庁。
「ベイビー、どうしよう?」
もうこねことは呼べないベイビーは胸の中で、にゃう~?と首を傾け、金色の瞳で私を見る。
あれから弁護士にも相談したが、やはり実刑の可能性は極めて高いとの事。
これまで稼いだお金は、約300万。決して多いとは言えないが、しばらくは何とかなる。
逃亡先も決めたし、そこでの仕事も決めてある。蛇の道は蛇。という奴だ。給料は激減するようだが。
大丈夫。大丈夫。絶対、大丈夫。
深く、息を吐いた。
「じゃ、開けるね」
封を切る手が震えた。
そこある文字を見て
頭が白くなった。
――不起訴処分
そう、書かれていた。
最初から読んだ。
――以上のことから、モネを不起訴処分とする。
間違いじゃ、ない?
ずっと張り詰めていた何かが音を立てて切れ、膝が崩れた。
気が付けば、喉の鳴る音。
「……べいびー」
目の前には金色の瞳。
両手で抱き締めると、頬にざらりとした感触。
私は泣き
そして
笑った。




