第35話:銃口なき最前線 ――世論の亀裂と使節団の来訪
停戦交渉が始まった――。
その事実は、思っていたよりも早く、福岡県内に広がった。
公式発表は、あくまで抑制的だった。
県庁広報は「捕虜の人道的取り扱いに関する協議」「戦闘終結後の安全確保に向けた接触」と表現を選び、“停戦”や“和睦”という言葉は意図的に避けられていた。
だが、隠し切れるものではなかった。
「……交渉、だと?」
博多駅構内。
朝の通勤ラッシュの中、掲示モニターに流れた速報テロップを見て、中年の男が足を止めた。
《福岡県、異界勢力との交渉開始を確認》
「交渉って……勝ったんじゃなかったのか」
隣でスマートフォンを操作していた若い女性が、顔を上げる。
「砦、落としたって……ニュースで……」
その言葉は、問いではない。戸惑いだった。
天神・渡辺通り。
再開したオフィスビルの前で、立ち止まる人々。
「捕虜交換? じゃあ、向こうの兵隊は帰るってこと?」
「……うちの兄、まだ見つかってないんですけど」
声が、重なる。
原初大奇蹟魔法陣。
あの言葉を、誰もが正確に理解しているわけではない。
だが――“吸い込まれた人がいる”。
その事実だけは、県民の間に深く沈殿していた。
行方不明者家族の集会が、いつの間にか、県庁前に自然発生的にできていた。
プラカードは揃っていない。スローガンもない。
ただ、写真がある。
失踪した家族の顔。制服姿の子ども。作業着の父親。買い物袋を提げたままの老女。
「……交渉より、先にやることがあるだろ」
誰かが、低く言った。
一方で――別の感情も、ゆっくりと、燻り始めていた。
「……なんで、停戦なんだ?」
居酒屋のテレビ前。仕事帰りの男が、グラスを置く。
「勝ったんだろ? 向こうは壊滅したって、言ってたじゃないか」
別の男が、小さく頷く。
「ここで止めたら、また来るんじゃないのか? 次は、もっとひどい形で」
ネット上では、言葉が少しずつ尖り始める。
――徹底的に叩くべきだった。
――交渉は弱腰だ。
――県民の血が安いのか。
「勝利」の言葉が、人によって、違う意味を持ち始めていた。
* * *
臨時福岡県議会は、いつもの本会議場ではなかった。
傍聴席を最小限に抑え、記者の数も制限された、閉じた空間。
「――本日の議題は一つです。異界勢力との停戦交渉開始について」
委員長席に座る田島 健吾が、低く言った。
最初に口を開いたのは、野党・異界共生連盟の滝川 道子だった。
「停戦自体に、私は反対ではありません。ですが――このタイミングでの停戦は、県民に説明しきれていません」
彼女の静かな声が、議場に響く。
「行方不明者は、いまだ数百名規模です。捕虜交換を先行させることで、彼らの捜索や真相解明が、後回しになる危険はないのですか?」
与党・共再党の村田 健之助が、堪えきれずに言う。
「それは、感情論だろう。戦争は終わった。これ以上の流血を防ぐために、交渉は必要だ」
滝川は、一拍置いてこう言った。
「感情論を、無視して政治が成立するなら――私たちは、もうとっくに異界に飲み込まれていたはずです」
議場がざわめく。
坂口 徹が、低い声で割って入る。
「現場はな、もう限界だ。農地は焼かれ、人は戻らず、仮設住宅が増え続けている。ここで停戦を延ばせば、次に壊れるのは、生活そのものだ」
田島委員長が木槌を打つ。
「整理します。今日ここで決めるのは、賛否ではありません。県として、停戦交渉を“進める”ことを前提に、どう説明し、どう支えるかです」
情報・広報・心理安定委員会の大内 道夫が口を開く。
「正直に言います。このままでは、世論は割れます。勝ったのに、なぜ交渉するのか。なぜ捕虜を返すのか。なぜ相手の顔を立てるのか。説明を誤れば、“裏切り”という言葉が出る」
隣に座る真鍋 武が、静かに補足する。
「不安と怒りは、同時に存在します。行方不明者家族の絶望と、停戦反対論は、心理的には地続きです。“取り戻せるものを取り戻したい”という欲求が、異なる方向に噴き出している」
議場に、答えはなかった。
あるのは、選択肢のどれもが、痛みを伴うという現実だけだ。
夜。知事執務室。
明かりは、デスクライトだけが点いている。
森山 義雄知事は、机の上に積まれた行方不明者リストと、停戦交渉の草案を見つめていた。
「……説明できない勝利は、勝利とは言えない」
守るために始めた。だが、守れなかったものが、確かにある。
終わらせる責任が、今、ここにある。
次に始まるのは、交渉という名の試練。
勝利の影は、静かに、福岡の街に伸びていた。
* * *
――聖都教理枢要会議
それは、公開の公会議ではない。
大法皇の御前で行われる、教理と統治を直接扱う密議。
大理石の円形会議室。
天蓋から落ちる光は抑えられ、香の煙だけが静かに漂っていた。
玉座の中央。大法皇 エル=マルティス。
その左右に、赤衣の枢機卿たち。
そして、一段下がった位置に、法皇国連合軍随行枢機卿アルバン=リヴェールが立っていた。
最初に声を上げたのは、教条主義派の一人だった。
「――異界における敗走は、信仰の試練であり、悔い改めの徴である。今ここで捕虜返還を乞うなど、神罰を否定し、聖戦を自ら穢す行為に他ならぬ」
アルバンは、一礼してから口を開いた。
「――主は、沈黙のうちにこそ、最も深い問いを投げかけられる。だが、我らが今直面しているのは、信仰の純度ではなく、統治の現実です」
教条主義派が、一斉に視線を鋭くする。
「ラドミール公国に集結した連合軍は、壊滅に等しい損耗を被りました。二万七千の魂が、戦場に消えた」
アルバンは続ける。
「糸島にて行われた原初大奇蹟魔法陣。禁書に記された、禁術。それを、誰の判断で行わせたのか。聖ラグニア侯国イワン皇太子に、成就を命じたのは――教条主義派の進言ではなかったか?」
沈黙。
「しかも、その決裁は、大法皇猊下の事後承諾。その行為こそ、教理の逸脱であり、神意の簒奪ではないのですか?」
その時。
赤衣の枢機卿が、静かに前へ出た。
教条主義派主席。マルセル・ド・ヴァリウス。
「――アルバン=リヴェール枢機卿。貴殿は、大法皇エル=マルティス猊下の聖断を、疑われるのか?」
空気が、凍りつく。
アルバンは、即答しなかった。
「――異は、ございません。ただし、真に猊下の御熟慮の上でなされた御決断であるのか。それを、確認しているに過ぎません」
全員の視線が、大法皇マルティスへ向く。
その額に、冷や汗が滲んでいた。
マルセルは、ゆっくりと頷いた。
「……分かりました。捕虜返還交渉使節団の派遣、承知いたしましょう」
ざわめき。
「しかし」
マルセルの声が、鋭くなる。
「派遣使節団の随行宗教顧問、および聖務院行政官のうち一名ずつは、こちらの推薦を受け入れていただく」
アルバンは、一瞬だけ、目を伏せた。
ここで拒めば、すべてが潰える。
「――承知いたしました」
「では」
マルセルは、名を呼ぶ。
「ロレンツォ=ヴァルミーニ枢教補。エティエンヌ=ド・クラール司祭長」
二人が、静かに進み出る。冷たい視線。
その日の夕刻。
捕虜返還交渉使節団は、正式に編成された。
主席:セルジュ=マルティノー枢機卿代行
随行宗教顧問:ロレンツォ=ヴァルミーニ枢教補
行政官:エティエンヌ=ド・クラール、マティアス=ノルデン、ユリアン=フェルゼン
その夜。馬車は、静かに聖都を離れた。
福岡へ向かう、敗者の使節として。
* * *
――境界を見つめる者たち
使節団の到着は、夜明け前だった。
県境農業地帯自治区。そこが、最初の関門だった。
福岡県警と自衛隊による合同検査。
使節団の馬車が停止線で止まる。
停止線の手前に可搬式バリケード。その奥に警察車両。
さらに後方に陸上自衛隊の軽装甲機動車が二両。
拡声器の声が、機械的に告げる。
「車両停止。御者は手を見える位置へ。乗員は順番に降車してください」
魔法触媒、呪具、宗教的媒介物。
すべてが一点一点確認され、封印された。
「――屈辱だな」
そう呟いたのは、ロレンツォ=ヴァルミーニ枢教補だった。
「黙れ、ロレンツォ」
低く制したのは、主席セルジュ=マルティノー枢機卿代行。
「我々は、勝者の前に立つ」
検問は、形式ではない。警戒だ。
物品検査。祈祷具は透明封印袋へ。
呪符は撮影後、焼却処理。
灰が舞う。
エティエンヌ=ド・クラールが眉をひそめる。
「神聖な品だぞ」
応対した警察官は一瞬だけ目を合わせる。
「危険物扱いです」
車両検査。陸自の隊員が車体下部を点検する。
「後部荷台、再確認」
ロレンツォが声を荒げる。
「前回も同じことをしただろう」
返答は、若い陸自三等陸曹だった。
表情は硬い。だが怒りではない。
「前回、二万七千人が消えました」
その言葉は、冷たく投げられたのではない。噛み締めるようだった。
「我々は、同じ失敗をしません」
ロレンツォは、歯噛みする。
「ここまで徹底するか……」
最終確認後、馬車はここで止まる。
代わりに、陸自の装甲輸送車が近づく。
鈍色の車体。窓は小さく、分厚い。
乗り込む瞬間、文明的優位という幻想が、完全に剥落した。
ここは交渉の入口ではない。主権の線引きだ。
* * *
――福岡市内、抗議の壁
装甲輸送車の車列が、福岡市内へ入った瞬間、空気が変わった。
県警機動隊が両側に展開する道路。
その向こうに、黒と白の群れ。
人、人、人。
福岡県庁前広場は、すでに埋め尽くされていた。
掲げられたプラカードが、波のように揺れている。
――停戦反対
――侵略者を裁け
――二万七千を忘れるな
拡声器の音が、金属質に割れて響く。
「停戦するな!」「裁け!」「甘い顔をするな!」
敵意は、翻訳を必要としなかった。
装甲車の窓越しに見えるのは、涙を流しながら叫ぶ女。遺影を掲げる老人。
怒りは、演出ではない。
穏健派のマティアス=ノルデンは、青ざめたまま呟く。
「我々は……これだけのものを背負って、来たのか」
主席セルジュ=マルティノーは、視線を逸らさなかった。
怒号が、車体を震わせる。拳が、装甲板を叩く。金属音。
県警機動隊が楯を構え、整然と列を保つ。
ロレンツォは、初めて理解した。
福岡は、恐れているのではない。怒っているのだ。
そして――怒りを制御している。
それが、最も恐ろしい。
車列は地下駐車場へ滑り込んだ。
外の怒号が、コンクリート壁に反響して、低く響く。
ロレンツォが小さく呟く。
「……裁かれる側とは、こういう気分か」
セルジュだけが、ゆっくりと息を整えた。
「これが現実だ。我々が直面しているのは、福岡県庁ではない。福岡県民だ」
彼らは降り立つ。
異界の使節として。
だが今は、怒りの中を歩く被告のようだった。
交渉の扉が、静かに開かれようとしていた。
いよいよ物語は「交渉」という、銃火器を使わないもう一つの戦場へと移ります。
大規模な戦闘は、何かが壊れてしまう。
その時、人はどうやってけじめをつけるのかを描いています。
賛否あるでしょうが、一旦始まった「戦争」は簡単には終わらないのです。
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本日も『福岡異世界転移史』をお読みいただき、ありがとうございます!
第一次西糸島事変――福岡の存亡を懸けた戦いは、小説家になろうに初転載になります。ファンタジーの不条理バグに対し、最後まで見届けていただければ嬉しいです。
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