第10話:狂信の進軍 ――若き王エルバート三世の悦楽
――転移3年・冬/ラドミール公国北原野
軍勢は、霧の中にあった。
朝靄は白く、だが冷たく。
それはまるで大地そのものが、これから流される血を拒むかのように、兵の足元にまとわりついていた。
重装騎士、従士、歩兵、従軍司祭。
そして、数に含めることすら躊躇われる者たち。
鎖で繋がれた徴発農夫。
牙を剥き出しにしたオーク族の傭兵。
顔を布で覆い、眼だけが暗く光る魔術師集団。
総数、凡そ六千。
呻き声と、祈りと、笑い声が混じる。
秩序はあるが、統一された意志はない。
ただ一つ、破壊を許された空気だけが、濃く漂っていた。
その先頭に立つのは、セルディア王国国王、エルバート三世。
二十七歳。
黄金の装飾を施した甲冑に身を包み、聖印を刻んだ剣を腰に提げている。
彼の胸は、高鳴っていた。
(これだ……)
胸の奥で、鼓動が早まる。
(これが、王としての戦だ)
これまで彼は、祈りの席で称えられ、言葉で裁き、命令で人を動かしてきた。
だが今――六千の命が、自分の一言で動く。
それが、彼を酔わせていた。
「――進撃を開始する」
号令は短く、鋭かった。
だが、その声には、抑えきれない昂揚が滲んでいた。
「県境農業地帯自治区」
名を口にするだけで、胸が熱くなる。
「異教徒が土地を歪め、奇蹟を拒む地だ」
“拒む”――その言葉が、彼の中で甘く響く。
奇蹟を否定する者。神を必要としないと言い放つ者。
(ならば、叩き潰すしかない)
(俺が、正しさを示す)
「浄化せよ」
声が弾む。
「奪え」
唇が歪む。
「正しき秩序を取り戻せ」
その瞬間、彼はもはや守護者ではなかった。
――征服者だった。
王の背後で、ヴァルノック侯国の将が、その横顔を見つめていた。
(……危うい)
最初は、信仰の熱だと思っていた。
若さゆえの使命感だと、そう自分に言い聞かせてきた。
だが、違う。
あの目だ。
(あれは……戦を愉しむ目だ)
王の言葉が進むにつれ、彼の声は次第に高揚し、兵の歓声に応えるように強くなっていく。
それは、理性が消え、陶酔が前に出ていく過程そのものだった。
将の視線は、王から軍勢へと移る。
徴発された農夫たちは、槍を持つ手を震わせ、逃げ場を探すように周囲を見回している。
その隣で、オーク族は牙を剥き、よだれを垂らしながら、「燃やせ」「裂け」と低く笑っている。
魔術師たちは、互いに視線を交わさず、ただ指先で不気味な符をなぞり、詠唱前の静寂に身を浸していた。
(……混ざってはならぬものが、混ざっている)
信仰。略奪。復讐。狂気。
それらを、若き王は「正義」という言葉で一つに束ねている。
ヴァルノック侯国の将は、無意識のうちに拳を握り締めていた。
(この軍は……制御を失えば、必ず災厄になる)
だが、今さら引き返すことはできない。
号令が下った。
兵は歓声を上げ、進軍を始めた。
霧の向こうへ。まだ知らぬ地獄へ。
その足音は、やがて――第一次西糸島事変の幕開けを、確かに告げていた。
* * *
――県境農業地帯自治区・北部集落
それは、もはや戦争ですらなかった。
処理だった。
逃げ惑う人々は、「住民」でも「非戦闘員」でも「保護対象」でもなかった。
――浄化対象。
霧の中を、裸足の農夫が走る。
幼子を抱いた女が転ぶ。
「待て!」
叫びは、命乞いではない。ただの音だった。
聖戦司祭の一人が、ためらいなく聖刻を踏み鳴らす。
「聖域の浄化」
光が弧を描く。
次の瞬間、女の腕の中にあったものが――軽くなる。
泣き声は途切れ、残ったのは、崩れ落ちる体と、土を濡らす温度だけだった。
「逃げた異教徒だ!」
「穢れを残すな!」
重装騎士が、倒れた老人を踏みつける。
剣は振るわれない。必要がないからだ。
「――焼け」
聖刻陣が起動し、老人の影だけが、地面に焼き付いた。
オーク族の兵が笑う。低く、濁った声で。
彼らは家屋に踏み込み、使える物と壊すべき物を無言で分けていく。
抵抗した若者は、その場で膝を折らされ、祈りの言葉を強要される。
言えなかった者は、祈る必要すらなかった。
倉は破られ、蓄えは運び出される。
「これは神への供物だ」
「これは兵の報奨だ」
区別は曖昧だった。
泣き叫ぶ声が、どこかで途切れる。
見ようとした者は、すぐに目を逸らした。
――見てしまえば、正気を保てない。
丘の上から、エルバート三世はその光景を眺めていた。
剣を地面に突き立て、深く息を吸う。
「……美しい」
炎、悲鳴、崩れる家屋。
それらが混ざり合い、ひとつの「秩序」になる。
「神は沈黙なされた」
「それは、我らに委ねられた証だ」
王の瞳は、もはや人を見ていなかった。
本日も『福岡異世界転移史』をお読みいただき、ありがとうございます!
第一次西糸島事変――福岡の存亡を懸けた戦いは、小説家になろうに初転載になります。ファンタジーの不条理バグに対し、最後まで見届けていただければ嬉しいです。
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