第32話:ルキウスの母
「どうした、アーロン」
「えっ」
「浮かない顔だな」
「いや、別に。いいところだよな」
そびえたつ王立図書館を眺めながら、アーロンはなんとか笑顔を浮かべた。
午前中に聞いたカーティスの報告がまだ頭から離れない。
ルキウスは穏やかな表情でベンチにもたれている。
時折吹く風が、ルキウスの白銀の髪を揺らせていた。
その飄々とした姿からは虐待を受けていたとは微塵も感じさせない。
(そうだよな。俺だってわざわざ人に言ったりしない……)
でも、それでいいのだろうか。
アーロンは居心地悪い思いでもぞもぞと体を動かした。
(俺は王妃だ。ルキウスの配偶者で一番の味方だ)
(なんにもできないけど、話を聞くことくらい……)
こんな大きな隠し事があったとは思わなかったアーロンは明らかに動揺していた。
ルキウスは出会ったその日から気さくに話してくれた。笑ったり、怒ったりする姿だって見せてくれた。
心を開いてくれていると信じて疑わなかった。
だが、抱えているものをすべて見せてくれたわけではなかった。
これから夫婦としてやっていくなら、つらい思いも話してほしい。
そう思ったものの、切り出し方がわからない。
アーロンは無意識に体を前後に揺らしていた。
「どうした。空腹か?」
「いや、そうじゃなくて」
アーロンはハッとした。
人に心を開いてもらうには、まず自分から行動に移すべきではないだろうか。
「その……俺の子どもの頃の話を聞いてくれるか?」
「ああ」
ルキウスは驚いたようだが、すぐに体をアーロンの方に向けた。
「もう調べているかもしれないけど、俺は地方の小さな村で生まれ育った。両親はどっちも飲んだくれのクズだった。母親は俺が四歳の時に出ていったきりだ」
幼かったときの無力さが蘇ってくる。
「父は残された俺を育ててくれた……って言いたいけど、ただ放置されただけだ。飯だって出てこなかった。それどころか憂さ晴らしでよく殴られたよ」
あのときは小山のように大きく見えた父を思い出す。
思い出の中の父はいつも酒臭くて、いつも暴言や暴力を振るっていた。
「ほんとみっともなくてさ。『俺は古の戦闘民族の血を引いている』ってのが口癖。本当ならもっと崇められるんだ、とか強いんだ、とかばっかり」
「十三歳で家を出たんだったな」
「そう。俺も体が大きくなってきてさ。親父はやり返されるのが怖かったのか、めちゃめちゃ暴力がひどくなって。もう殺されるか、俺が殺すかになるんだろうな、って」
アーロンははあっと息を吐いた。
「な、俺の生まれ育ちは最悪だろ? 王妃様て柄じゃないって思うのも無理ないだろ」
「よく一人でここまで立派になったな」
「あんな風になりたくなかったからな。口でだけ威張る男になりたくなかった」
ルキウスに話すと少しすっきりした気分になった。
気にしていないつもりだったが、どこかで自分の境遇を後ろめたく思っていたのかもしれない。
「困ります!! 今、陛下は休息中で――」
「うるさい! 私を誰だと思っているの!」
背後で揉めている声がし、アーロンは驚いて振り返った。
傍らではルキウスが立ち上がっている。
「母上……」
「えっ」
近衛兵と小競り合いをしている女性が目に入る。
豊かな茶色の髪を振り乱している女性は、目鼻立ちのはっきりした美人だった。
年齢はエレノアと同じくらいだろう。
(あれがルキウスの……)
「構わぬ、通せ」
ルキウスが近衛兵に指示を出すと、派手なドレス姿の女性が肩をいからせて歩いてきた。
(似てないな……)
平民の身で側室に選ばれただけあり、イリーナは華やかな美貌を誇っていた。子どもを産み、年を重ねた今でも充分美しい。
だが、好感を持つには至らなかった。
とげとげしい雰囲気に、下品な所作が悪目立ちしている。
ルキウスの清廉さ、静けさとは醸し出す雰囲気がまるで違う。
「ルキウス!」
イリーナが大きく叫ぶと、ルキウスにつかみかかってきた。
あまりの剣幕にアーロンは思わず前に出た。
大男に視界を塞がれ、イリーナは怯えるどころか激高した。
目をつり上げ、真っ赤に塗られた口を大きく開く。
「何なの、おまえ! どきなさい!!」
「大丈夫だ、アーロン」
静かに肩に手を置かれ、アーロンはしぶしぶ下がった。
「どういうこと? 結婚したのに挨拶に来ないばかりか、お披露目のパーティーに招待すらしないなんて!」
イリーナがずかずかとルキウスに詰め寄る。アーロンはぎゅっと拳を握ってなんとか堪えた。
(男ならぶっ飛ばしているところだ……)
対してルキウスは微塵も動揺せず、平然としている。
「失礼しました。てっきりご興味ないかと」
気温が十度ほど下がったのではないかと思うほど、冷ややかな声だった。
イリーナがぐっと詰まる。
「そんなわけないでしょう!? 私はおまえの母なのよ!」
ルキウスが目を細める。
「甲高い声で喚かないでください。耳障りだ」
「な……っ」
あまりの屈辱にイリーナの顔が真っ赤に染まる。
「ご気分が優れないようですね。離宮に戻られてはいかがですか」
「私を遠ざけようというの?」
「とんでもない。ですが、王宮でやることも別にないでしょう?」
素っ気ないルキウスの言葉にも、ひるんだ様子はなかった。
(さすが、王の側室まで上り詰めた人だな)
アーロンは妙に感心してしまった。
「あるわよ! あなた、ノクスを国王補佐に任命しなさい!」
ルキウスの眉が寄せられる。
「弟なんだから重要な役職に就くのは当たり前でしょう!?」
「必要ないです」
ルキウスがきっぱりと言い切る。
「私の周りには優秀な人材が揃っている。それに今後補佐が必要になったとしても、ノクスは選ばない」
「なっ……!」
反駁しかけたイリーナを制するようにルキウスが間髪いれず続ける。
「あなたのようなオマケが付いてくる国王補佐はいらない、と言っているのですよ」
ルキウスがふう、とわざとらしいため息をついた。
「そもそもノクスは望んでいるのですか? 本気なら直接私に言いに来いと伝えてください」
ルキウスが軽く手を振ると、事態を見守っていた侍従と近衛兵がイリーナを取り囲んだ。
「貴重な休養を邪魔しないでください。母上がお帰りだ。きちんと離宮まで送り届けてくれ」
しっかりと念を押された近衛兵がうなずく。
「無礼者! 私に触れるな! 元王妃と知っての狼藉か!」
ぎゃあぎゃあとカラスのように喚くイリーナが近衛兵たちに引きずられていく。
「悪かったな、せっかくの休養が台無しだ」
どこか疲れたようにルキウスが微笑む。
「王宮に戻るか」
まるでイリーナのことを話したくないかのように、ルキウスが立ち上がった。
その目がアーロンに向けられることはなかった。




