水底の村 「足跡」
一
徳山ダムの湖底、水深十八メートル。上田唯は潜水灯を足跡に近づけた。
人の足の形をしているが、指の数が合わない。
五本ではなく、六本。そして、足跡は湖底の泥の上に、明らかに「歩いて」できたものだった。
水の抵抗がある湖底で、泥に沈まず、まっすぐ一列に続いている。
「大島、この先を追う」
「一尉、深度と残気量が――」
「五分だけだ」
足跡は、崩れた社の跡から、湖底の斜面を上るように続いていた。
上田が潜水灯でその先を照らすと、斜面の途中で、足跡はぷつりと消えていた。
消えた場所の真上、水面の方向を見上げると、月明かりのようなうっすらとした光が、はるか上から差し込んでいるのが見えた。
地上に上がっていった、ということか。
上田は無線で報告を入れた。
「本部、こちら上田。湖底の足跡は、水面方向へ向かって消失。地上への浮上、あるいは――」
言葉を選んで、続けた。
「――水面を、歩いて渡った可能性がある」
無線の向こうで、荒牧大輔が短く息を吸う音が聞こえた。
二
その同じ夜、九頭竜ダムの湖畔、民宿の外に、何かが立っていた。
最初に気づいたのは、見張りに立っていた平圭だった。
湖に面した道の先、街灯の明かりが届かない場所に、人影のようなものが動かずに立っている。
「雨月警部補、あれ――」
雨月雅之が駆け寄ってきた時には、人影は既に消えていた。
ただ、その場所の地面に、湖から続く水の跡が、一本の線のように残っていた。
「濡れている」雨月が地面に触れて言う。「湖から、ここまで、歩いてきた跡だ」
線をたどると、民宿の前でぴたりと止まっていた。
室内では、田中軍蔵が木像を抱えたまま、動けなくなっていた。木像は、もう対岸ではなく、真下――つまり、民宿の外を指すように向きを変えていた。
「軍蔵さん」根古親司が、福井入りしたその晩に、ちょうど間に合ったように部屋に入ってきた。
「大丈夫ですか」
「根古さん……これは」
「五十年、宛先を探し続けていたものが、初めて"近く"まで来たんだと思います」根古は木像に手を伸ばした。「今夜、送りましょう」
「送るって、どうやって」佐藤直樹が聞く。
「この木像自体が、"送り主"の片割れです。もう片方は、徳山側の湖底にある太鼓の破片――さっき、上田一尉たちが見つけたものが、それに当たるはずです」
「片方は湖底、片方はここにある。物理的に、どうやって"送る"んですか」
根古は静かに答えた。
「神事のやり方は、単純です。太鼓を、正しい方角に向けて鳴らす。それだけです。ただし――正しい方角と、正しい相手が揃わなければ、意味がない」
根古は懐から、古い和紙に包まれた小さな撥を取り出した。父の遺品だという。
「今夜、九頭竜と徳山、両方で同時に太鼓を鳴らします。可児署の雨月さんたちに、湖底の太鼓の破片を、水面まで上げてもらう必要がある」
三
深夜、湖畔に人々が集まった。
福井側には、山田貴明、佐藤直樹、横溝周平、金田一崇、ショー・ラッシング、堤直樹、田中軍蔵、そして木像を抱えた根古親司。雨月雅之と山本彩織、平圭も、可児署から急遽駆けつけていた。
岐阜側の徳山ダムでは、安田達郎、小倉裕司、荒牧大輔の指示のもと、上田唯と大島拓が、太鼓の破片を丁寧に水面まで引き上げていた。
合流した警視庁特殊班の斎藤士郎が、無線機を握って両岸を繋いでいる。
「福井側、準備できました」雨月の声が無線に響く。
「徳山側、こちらも太鼓の破片、水面に上げました」上田の声が応える。
根古は、木像を湖に向けて置き、撥を構えた。
「かつて、この二つの村は、峠を歩いて三日で行き来した。今は、この無線が、その峠の代わりです」
根古は木像の背にそっと触れ、目を閉じた。
「父さん。あなたが間違えたものを、今、正しい場所に送ります」
撥を、静かに振り下ろした。
トン。
湖の対岸、七十キロ離れた徳山側で、水面に上げられた太鼓の破片が、誰も触れていないにもかかわらず、同じ瞬間に、微かに震えた。




