水底の村 「浮かび上がるもの」
一
九頭竜側の湖面が、大きく波立った。
風はほとんどないのに、岸から数十メートル先の水面が、円を描くように渦を巻き始める。
山田貴明はその場に立ち尽くしたまま、レンズを構えることも忘れて見入っていた。
「みんな、下がって」雨月雅之が声を上げる。
渦の中心が、ゆっくりと水面に膨れ上がった。
最初は水の塊にしか見えなかったが、月光を受けて、次第に輪郭が見えてくる。
人の形――というより、人の形をしていた「何か」の、輪郭に近いものだった。
手足があり、頭部にあたる部分もあるが、表面は水そのもののように、絶えず崩れながら形を保っていた。
「――あれが、五十年間、宛先を探していたもの、ですか」堤直樹が、声を震わせながら根古親司に聞く。
「たぶん」根古は撥を握ったまま、目を離さなかった。「今、届けようとしています」
同じ時刻、七十キロ離れた徳山側でも、同じ現象が起きていた。
湖面が渦を巻き、水の塊が浮かび上がる。上田唯と大島拓は、無線で福井側と状況を共有しながら、その様子を見つめていた。
「一尉、あれは……対になっているように見えます」大島が言う。
「対、というのは」
「福井側で浮かび上がっているものと、こちら側で浮かび上がっているもの――まるで、鏡合わせのようです」
斎藤士郎が持っていた無線機から、雨月の声が響いた。
「福井側、水の塊がゆっくりと岸に向かって動いています。危害の兆候はありませんが、念のため距離を取ってください」
「了解。こちらも同様の動きあり」
二
九頭竜側の水の人影は、岸まで数メートルの距離で止まった。
根古が一歩前に出る。田中軍蔵が慌てて止めようとしたが、根古は手で制した。
「父さん、あなたが四十年前にできなかったことを、今、私が代わりにやります」
根古は木像を両手で持ち上げ、水の人影に向けて掲げた。
「これは、あなたのもう半分です。もう片方は、今、徳山に届いています」
水の人影が、わずかに姿勢を変えた。頭部にあたる部分が、木像の方に向く。
その瞬間、遠く無線の向こうから、徳山側の上田の声が響いた。
「福井側、聞こえますか。こちら側の人影も、同じ動きをしました。まるで、同じ意識で動いているようです」
「同じ意識、ではなく」横溝周平が、静かに口を挟んだ。
「もともと一つのものが、二つに分かれて、それぞれの湖に沈んでいた、ということかもしれん。今、それが五十年ぶりに、互いの存在を確認しておるんじゃないか」
根古はもう一度、撥を構え、木像を一度だけ、静かに打った。
トン。
その音に応えるように、九頭竜側の水の人影が、ゆっくりと崩れ始めた。
恐怖を感じさせるものではなく、むしろ、長い緊張が解けていくような、静かな崩れ方だった。
水は音もなく湖面に溶けていき、そこにはもう何もなくなった。
同じ瞬間、徳山側でも同じことが起きていたと、後で上田から報告があった。
三
夜が明けた頃、湖面はいつも通りの静けさを取り戻していた。
安田達郎と小倉裕司、荒牧大輔が湖畔の指揮所で顔を合わせている。
「事案としては、どう処理する」小倉が聞く。
「表向きは、"自然現象による集団幻覚、および行方不明者の遭難事案"だ」安田は疲れた声で言った。「実際に何が起きたかを、報告書に書くわけにはいかん」
「行方不明になった四人は」
「見つからないままだ。それは、変えられない」
荒牧が、湖面を見ながら言った。
「一つだけ気になることがある。今回、統合されていた"送り物"が、無事に元の二つに分かれて、それぞれの村に還った、と考えていいんだろうか」
「還った、というのは」
「二つに分かれて還ったのなら、それでいい。だが――もし、分かれる過程で、何かが"漏れた"としたら」
荒牧の言葉に、安田も小倉も、しばらく答えられなかった。
その頃、湖畔の民宿では、根古親司が、疲れ切った様子でようやく畳に座り込んでいた。田中軍蔵が持ってきた木像は、今はもう、ただの古い木の像に戻っていた。
「終わった、ということでしょうか」山田貴明が聞く。
「終わった、と思います」根古はそう答えたが、その声には、わずかな迷いが残っていた。
窓の外、湖面に、まだ夜明け前の薄い霧がかかっていた。
その霧の中、ほんの一瞬、遠くの水面に、小さな水音が立ったような気がした。
誰も、それには気づいていなかった。
「漏れた」ものの正体を追って、万城目伸が根古定一のもう一つの記録を発見する。同時に、九頭竜と徳山、双方の湖畔で、新たな異変の報告が入り始める。




