水底の村 「沈んだ祭り」
一
九頭竜ダムの湖面は、その日、鏡のように静まっていた。
山田貴明はレンタカーを湖畔の駐車場に停め、ボイスレコーダーを胸ポケットに入れた。
福井県の山中、大野市から車で一時間半。四十六歳のフリージャーナリストが単身でここまで足を運んだのは、たった一件の投稿がきっかけだった。
――九頭竜と徳山、二つのダムの底に沈んだ村で、同じ日に同じ祭りの太鼓が聞こえる。
匿名の投稿は、それだけでは記事にもならない怪談だった。
だが山田が調べたところ、九頭竜ダム(福井)と揖斐川上流の徳山ダム(岐阜)は、直線距離にして七十キロ以上離れているにもかかわらず、共に一九七〇年代の大規模ダム建設で、複数の集落がまるごと湖底に沈んだという共通点があった。
そして両方の湖畔で、この半年のうちに合わせて四人の行方不明者が出ていた。
県警は「登山中の遭難」として処理していたが、山田の元に届いた投稿者は、そのうち一人の失踪直前の携帯電話に、聞き取れないほど微かな太鼓の音声が録音されていたと主張していた。
湖を見渡す小さな展望台に、先客がいた。
「取材の方ですか」
声をかけてきたのは、三十代半ばに見える男だった。名刺を渡してくる。
――小説家 佐藤直樹
「もしかして、あの投稿を見て来られました?」と佐藤は言った。
「僕もです。次の作品の取材で」
山田は苦笑した。似た者同士だったらしい。
「小説の題材にするには、少し生々しすぎませんか。行方不明者が出ている」
「だからこそ、です」佐藤は湖面を見たまま答えた。
「本当にあった話には、作り話にはない重さがある」
二
二人が展望台で言葉を交わしていると、湖畔の道を一台のパトカーが上がってきた。
可児署のプレートを付けた車から降りてきたのは、二十代後半の女性巡査長だった。
腰に小型のドローンケースを提げている。
「山本です。可児署地域課」
背後にもう一人、二十四歳ほどの若い巡査長――平圭が続いた。
二人は不明者の捜索範囲を確認するために来たという。
「今日はドローンで、湖の南側斜面を見てみます」山本が言った。
「先月、この辺りで妙な音が録れているので」
「妙な音、というのは」
「太鼓みたいな音です。でも、この辺りに祭りをやっている集落はもうありません。全部、ダムの下です」
山田と佐藤は、思わず顔を見合わせた。
その時、展望台に上がってくる足音がもう一つあった。
着古した登山用のジャケットを着た、六十代の男。手には古びたノートと数珠を持っている。
「横溝です。物好きにも、また性懲りもなくこの手の場所に来てしまう」
推理小説と実話怪談の両方を長く手がけてきた老作家、横溝周平だった。
彼の後ろには、もう一人、五十代の作家、金田一崇の姿もあった。
二人は旧知の仲らしく、軽く言葉を交わしている。
「あなたたちも、あの投稿がきっかけですか」と山田が尋ねると、横溝は静かにうなずいた。
「わしはもう三十年、この手の水底の村の話を集めておる。九頭竜と徳山が同じ音で繋がっているなど、初めて聞いた話だ。もし本当なら――」
横溝は言葉を切り、湖面を見た。
「二つの村は、沈む前から、何か繋がりがあったのかもしれん」
三
その夜、山田は麓の民宿で、集まった面々と情報を交換することになった。
佐藤、横溝、金田一に加え、海外から来たという若い作家、ショー・ラッシングも同席していた。
三十歳、日本の水没村伝説を集めて本にするために来日したという。
「アメリカでは、ダムに沈んだ町の話はよくあるテーマです」ショーは流暢な日本語で言った。
「でも、二つの離れたダムが同じ現象で繋がっているというのは、聞いたことがない」
さらに、心霊専門の物書き、堤直樹と、"心霊蒐集"を自称する田中軍蔵も加わった。
田中は水没村から引き上げられたという古い木像を持ち込んでおり、その木像を見た瞬間、部屋の空気が変わったように、山田には感じられた。
「これは、九頭竜の方の村社から出たものです」田中が言った。
「本当は、引き上げてはいけないものだったのかもしれません」
その夜半、山田の携帯に着信があった。発信元は表示されない。
通話に出ると、雑音の向こうから、遠く低く、太鼓の音が響いてきた。
トン、トン、トン――。
三つ数えたところで、通話は切れた。
窓の外、九頭竜の湖面には、月の光の下で、何かがゆっくりと輪を描いているのが見えた。




