「証明されなかった場所で」
その本が書店に並んだのは、御嶽山からの帰路につれてから、およそ一年後のことだった。
山田貴明は、仕事の合間を縫って、近所の書店に立ち寄った。
新刊コーナーの片隅に、見慣れた名前を見つける。
――『証明されなかった場所で』佐藤直樹・著
装丁は、思いのほか落ち着いた作りだった。
派手なオカルト風の意匠ではなく、山並みのシルエットだけをあしらった、静かな表紙。山田は、それを手に取ってレジへ向かった。
「山田さん、読んでくれました?」
電話越しの佐藤の声は、いつになく緊張していた。
「昨日、一晩で読みましたよ」
「ど、どうでした、正直に言ってください」
山田は少し間を置いてから、答えた。
「良かったです。本当に」
「お世辞じゃなくて?」
「お世辞なら、こんな短く言いません」
山田は本を開き、付箋を貼ったページを見つめながら続けた。
「特に、最後の章。可児から始まって、赤穂、戸来村、剣山、諏訪、そして飛騨と御嶽山まで。事実として分かったことと、分からずじまいだったことを、きちんと分けて書いてある。それでいて、分からなかったことの方に、ちゃんと敬意が払われている」
「それ、山田さんに教わったようなものですから」
「いや、これは佐藤さんが、自分の力で辿り着いた書き方ですよ」
本は、当初の予想を超えて、静かに、しかし着実に読者を広げていった。
オカルト好きの読者だけでなく、地方史や民俗学に関心を持つ層、さらには、旅行のガイドブック代わりに手に取る人まで現れた。
ある地方新聞の書評には、こう書かれていた。
『陰謀論めいた題材を扱いながら、著者の視線は終始謙虚である。派手な断定を避け、それぞれの土地に生きる人々の言葉を、丁寧にすくい上げている点に好感が持てる』
佐藤は、この書評を印刷して、額に入れて部屋に飾った。
「山田さん、俺、これまで自分の書くものが、こんな風に評価されたこと、なかったんですよ」
「今までの佐藤さんの本、読んだことなかったので分かりませんが」
「手厳しいですね、相変わらず」
二人は笑い合った。
刊行から数ヶ月後、出版社の計らいで、小さなトークイベントが開かれることになった。
会場には、二人がこれまで旅の中で出会った人々への感謝を込めて、招待状が送られていた。
当日、会場の隅には、思いがけない顔ぶれが並んでいた。
剣山で出会った比較神話学者のダニエル・ローゼンから届いた祝いのメッセージが、壇上で読み上げられた。諏訪の守矢家当主からは、丁寧な礼状とともに、地元の銘菓が届いていた。
そして、会が終わりかけた頃、山田は会場の後方に、見覚えのある人影を見つけた。
「……根古さん?」
根古親司が、飄々とした様子で、会場の隅に座っていた。
足元には、なぜか黒猫のキャリーバッグまで置かれている。
「いや、まさかヤマトまで連れてきたんですか」
「留守番させると、うるさくてかなわんのでな」
根古は笑いながら立ち上がり、佐藤に歩み寄った。
「あんたの本、読ませてもらったよ」
「あ、あの、根古さんまで……」
「わしのことは、名前も出さんかったのに、随分と気を遣った書き方だったな」
「それは、根古さんが望まないだろうと思ったので」
根古は満足げに頷いた。
「これでいい。伝承ってのは、誰かの手柄にするためのものじゃない。あんたが、それをちゃんと分かって書いてくれたなら、わしはそれで十分だ」
イベントが終わり、会場を後にする道すがら、山田と佐藤は、夜の街を並んで歩いていた。
「山田さん、次はどこに行きましょうか」
「もう次を考えてるんですか」
「そりゃそうですよ。まだ日本には、俺たちが知らない『証明されなかった場所』が、いくらでもあるはずですから」
山田は、少し呆れたように、しかしどこか嬉しそうに笑った。
「まあ、次に何か面白い話が舞い込んできたら、また声をかけてください」
「約束ですよ」
夜空には、街灯にかき消されながらも、いくつかの星が瞬いていた。
二人の旅は、まだ、終わってはいないようだった。
その数日後、佐藤のもとに、二通の手紙が届いた。
一通は、神戸に住むという初老の小説家、横溝からのものだった。
長年、本格ミステリーを書き続けてきたという、その筆致は達筆で、丁寧だった。
『拝読いたしました。土地の伝承を、安易な謎解きに落とし込まず、最後まで謎を謎のまま尊重する筆致に、感服いたしました。もしよろしければ、一度お目にかかってお話を伺いたく存じます』
もう一通は、東京の大学で民俗学を教えているという、金田一という教授からだった。
『貴著、大変興味深く拝読しました。特に、飛騨における中央史観と地方伝承の乖離についての考察は、専門的にも示唆に富むものです。学術的な観点から、いくつか意見交換をさせていただけますと幸いです』
佐藤は、その二通の手紙を持って、山田のもとへ駆け込んだ。
「山田さん、見てください、これ! 神戸の横溝先生と、東京の金田一先生から!」
「……横溝さんに、金田一さんですか。ずいぶん、探偵小説的な名前が並びましたね」
「ですよね! 俺も最初、封筒を見た時、悪戯かと思いましたよ」
山田は苦笑しながら、二通の手紙に目を通した。
「お二人とも、ずいぶん熱心なお言葉ですね。……佐藤さん、これ、お会いすることにするんですか」
「もちろんです! 小説家の横溝先生には、物語としての語り口を。民俗学者の金田一先生には、学術的な裏付けを。両方の視点が揃えば、これまで以上に踏み込んだ調査ができるかもしれません」
佐藤の目は、すでに次の冒険を見据えているようだった。
「山田さん、俺たちの旅、まだまだ続きそうですよ」
山田は、その様子を見て、小さくため息をつきながらも、どこか楽しげな笑みを浮かべた。
「……分かりました。お二人にお会いする日程が決まったら、教えてください。僕も同席します」
「もちろんです! これは面白くなってきましたよ、山田さん!」
こうして、山田貴明と佐藤直樹の物語に、新たに二人の協力者が加わることとなった。神戸の小説家、横溝。東京の民俗学者、金田一。四人が揃った時、次にどんな「証明されなかった場所」が姿を現すのか――それは、また別の旅で語られることになる。
(完)




