「二つの顔を持つ神」
諏訪から戻って一週間ほど経った頃、佐藤直樹が珍しく、興奮した様子もなく、静かな口調で電話をかけてきた。
「山田さん、今度は飛騨なんですが……今回は、ユダヤとは関係ない話です」
「珍しいですね、佐藤さんがその手の話じゃないなんて」
「ええ。でも、これはこれで、俺にはずっと引っかかってた話でしてね。両面宿儺って、ご存知ですか」
「名前だけは。最近、漫画か何かで有名になった鬼神ですよね」
「そうです。でも元は、日本書紀にちゃんと記述がある存在なんですよ。仁徳天皇の時代、飛騨に現れたっていう。一つの胴体に、前後二つの顔を持っていて、手足がそれぞれ四本ずつある、っていう異形の姿で」
「なんというか、かなり強烈なビジュアルですね」
「でしょう。しかもこいつ、日本書紀の記述だと、朝廷に従わず、人民を苦しめていた凶賊として、討伐されたことになってるんです。ところが」
佐藤は、いつになく真剣な声で続けた。
「飛騨や美濃の地元に伝わる話だと、まるで正反対なんですよ。悪龍を退治した英雄だとか、農耕を教えた指導者だとか、寺を開いた聖人だとか。今でも『宿儺様』って呼ばれて、篤く信仰されてるんです」
「中央の記録と、地元の記憶が、正反対……」
山田の中で、何かが引っかかった。
「それに、山田さん。もう一つ、気になることがあるんです。飛騨一宮水無神社――可児の一件の時に行った、位山の神社ですよね。あそこの伝承では、位山の『主』は、両面宿儺だっていう説もあるんです」
「え? でも、あの時根古さんが言ってたのは、位山は天照大神の胞衣を切った刃物の山だっていう話でしたよね」
「そうなんです。同じ山に、全く違う二つの『主』の伝承が、重なって存在してる。俺、これがずっと気になってて」
山田は、しばらく黙り込んだ。可児での記憶が、鮮やかに蘇ってくる。恵那山、位山、そして根古の言葉――伝承とは、事実の証明ではなく、人がその土地とどう向き合ってきたかの記憶の形だ、という。
「分かりました。行きましょう、飛騨へ」
高山市丹生川町にある千光寺は、標高九百メートルの山腹にひっそりと佇む古刹だった。
「ここが、両面宿儺が開いたとされるお寺なんですね」
「ええ。伝承では、岩窟から現れた宿儺が、自ら『我は救世観音の化身なり、驚くことなかれ』と村人に告げて、この寺を開いたとされています」
境内を案内してくれた僧侶が、静かに説明してくれた。
「日本書紀では、悪者として書かれているんですよね」
「その通りです。ですが、私どもとしては、正直、どちらが『正しい』とも言い切れません。中央の記録者から見れば、従わない者は皆、討伐すべき賊です。しかし、この土地に生きてきた人々にとっては、自分たちを守り、導いてくれた存在だった。それだけのことかもしれません」
僧侶はそう言うと、境内に安置された、両面宿儺の像へと二人を案内した。前後に二つの顔を持つその像は、一方は穏やかな微笑みを、もう一方は憤怒の形相を浮かべていた。
「二つの顔、というのは……もしかして」
佐藤が呟くと、僧侶は静かに頷いた。
「一つの存在の中に、慈悲と怒り、守る者と滅ぼす者、両方の側面がある。そう捉える方もいらっしゃいますね」
山田はその像を見つめながら、可児での事件を思い出していた。証拠を求める者と、信仰を求める者。科学と伝承。あの時と同じ構造が、また別の形で、目の前に立ち現れているような気がした。




