「鹿の首、七十五」
剣山からの帰り道、佐藤直樹はすでに次の行き先を決めていた。
「山田さん、次は長野です。諏訪大社」
「また急ですね。諏訪って、御柱祭で有名な、あの?」
「そうです。でも今回、俺が気になってるのは御柱祭じゃなくて、その裏にある神社の御神体――守屋山なんです」
「守屋山……お寺の『守屋』とは違う字ですか」
「はい、こっちは『屋』の字です。これがですね」佐藤は得意げに続けた。
「旧約聖書に出てくる『モリヤ山』と、読みが完全に一致するんですよ」
「モリヤ山、というと」
「アブラハムが、息子のイサクを神への生贄として捧げようとした山です。土壇場で天使が現れて、イサクの代わりに羊を捧げるよう命じられる、あの有名な逸話の舞台ですよ」
山田は思わず唸った。
可児での恵那山・位山、剣山でのアーク伝説――これまでの旅で聞いてきた話とは、また違う種類の生々しさを感じたからだ。
「しかも」佐藤は畳み掛けた。「諏訪大社には、毎年四月に『御頭祭』という神事があるんですが、そこでは元々、鹿の首を七十五頭も供えていたそうなんです。しかも、江戸時代の記録には、こんな話まで残っているんですよ」
「どんな話です」
「神事の中で、『御神』と呼ばれる少年が、柱に縛りつけられて、まるで生贄にされそうになる。ですが、そこに神官が現れて、少年を解放し、代わりに鹿の首を捧げる、という筋書きになっているんです」
山田は、しばらく言葉を失った。
「それは……イサクの燔祭と、ほとんど同じ構造じゃないですか」
「でしょう!! これはもう、行くしかないですよ」
諏訪に到着した二人は、まず諏訪大社上社本宮を訪れた。
「本殿がない、という話は本当なんですね」
「ええ。本殿の代わりに、あの守屋山そのものを、御神体として拝む形になっているそうです」
境内で参拝を終えた後、二人は守矢家の史料を管理する資料館へと足を運んだ。
対応してくれたのは、この地域の歴史に詳しい学芸員だった。
「守矢家、というと、地主神である洩矢神の子孫にあたる家系ですね」
「はい。諏訪明神――建御名方神が、この地に来た時、元々この土地を治めていた洩矢神と争って、勝利したという神話が伝わっています。負けた洩矢神は、諏訪明神に忠誠を誓い、以後、代々神官の家系として仕えることになったんです」
「洩矢神、というのは、実在した豪族なんでしょうか」
「その系譜には、興味深い伝承もありましてね。物部守屋の息子が、丁未の乱の後にこの地へ逃れてきて、守矢家の養子になった、という話も伝わっているんです」
「物部守屋……蘇我氏との戦いに敗れた、あの物部氏ですか」
「ええ。真偽のほどは分かりませんが、『モリヤ』という響きが、聖書のモリヤ山と、物部守屋の名前と、両方に繋がっているというのが、この土地の面白いところです」
学芸員はそう言って、少し茶目っ気のある笑みを浮かべた。
「それに、日本に赴任したイスラエルの大使は、必ずこの諏訪大社を訪れる、なんて話もありますよ。
実際、イスラエルの民族帰還運動に関わる方が、ここへお参りに来られたこともあると聞いています」
山田と佐藤は、顔を見合わせた。
可児、赤穂、戸来村、剣山――そして今、諏訪。
日本各地に散らばるこれらの符合が、単なる偶然の集積なのか、それとも何か別の意味を持つのか。
旅は、まだ終わりそうになかった。




