第八話 ―セリアとのお茶会―
庭の隅々で色とりどりの花がほころび始めた頃、ようやく、待ち望んでいたお茶会が開かれた。
アーシェが八歳の誕生日の後に倒れてから、丸ひと月。物心つく前から毎月欠かさず開いてきた小さなお茶会が流れたのは、この芽月の一の月が初めてのことだった。庭に面した石張りのテラスには、蜜のように甘い花の香りがそよ風に乗って届き、白いクロスを掛けた卓の上では、淹れたての紅茶が細い湯気をくゆらせている。
「アーシェ、本当に大丈夫なの。お顔の色は……少しは良くなったかしら」
向かいの木の椅子に腰を下ろしたセリアが、水色の瞳を心配そうに揺らして、小さな眉をきゅっと寄せた。
セリア・ランフォード。アーシェと同い年の男爵令嬢だ。こぼれ落ちそうなほど大きな瞳に、淡いミルクティー色の柔らかな髪。光を受けた髪は絹のように艶めいて、若草色のドレスの肩口で小さく跳ねている。背筋だけは、いつものようにまっすぐ伸びていた。
アーシェは、正面に置かれていた自分の椅子を、セリアの斜め隣へと引き寄せた。いつからか、二人の間ではそれが当たり前になっている。耳の聞こえが少しだけ悪いセリアが、相手の唇の動きを見て、言葉を読み取りやすいように。
「もうすっかり元気よ。心配させてしまってごめんなさい、セリア。お手紙、とても嬉しかったわ」
セリアの目をまっすぐに見て、ゆっくりと、はっきりと唇を動かす。
それを見て、セリアはようやく、はぁと肩の力を抜いた。花の香りをまとった風が、二人の小さな肩のあいだを抜けていく。
「本当に良かった……。お屋敷からお手紙をいただいたとき、私、びっくりして。アーシェが突然倒れて、ずっと目を覚まさないって聞いて、胸の奥が冷たくなるくらい怖かったのよ」
「驚かせてしまって、ごめんなさいね。……今日はお詫びとお礼を兼ねて、お庭の木苺をたくさん摘んでおいたの。それと、少し変わったおもてなしも用意したのだけれど」
アーシェが傍らに控えるメイドへそっと目配せすると、メイドは心得たように一礼し、白い陶器の平皿を運んできた。朝摘みの瑞々しい木苺と、艶やかな赤い蜜をたっぷり添えた、焼きたてのパン。木苺の甘酸っぱい香りが、ふわりと卓の上をくすぐる。
「まあ……なんて綺麗な色かしら。アーシェ、これは?」
「果実を煮込んだ蜜よ。ガストンに手伝ってもらって、木苺をお鍋でことこと煮詰めてみたの」
セリアは目を丸くして、パンの上に小さなスプーンで赤い蜜をのせ、そっと口へ運んだ。水色の瞳がほんの少し細くなる。舌の上に広がる味を、しばらく確かめてから、ゆっくりと言葉を継いだ。
「……甘い。でも、ただ甘いだけではないのね。お口の中で、木苺の味がちゃんと生きているわ」
「でしょう?気に入ってくれて嬉しいわ。何度も煮詰め直して、一番おいしいとろみにしてもらったのよ」
誇らしげに頬をゆるめるアーシェに、セリアも目元をほころばせる。皿の上のパンが一切れ、また一切れと減っていくあいだ、話はあちらこちらへ転がっていった。庭のアーモンドが薄紅に咲いたこと、陽月に向けて仕立ててもらう服の色のこと、お屋敷の裏で暮らす人懐っこい猫が、子猫を産んだこと。他愛のない言葉が、うらうらとした光の中で、ゆるやかにほどけていく。
お茶が冷めかけた頃、アーシェはふと思い出したように切り出した。
「ねえ、セリア。少し聞いてくれるかしら。熱が引いてからずっと、お砂糖を自分で作れないか試しているの。最初はね、お庭の草を引き抜いて、そのままかじってみたのよ」
セリアの大きな瞳が、ぱちりと瞬いた。
「……お庭の、草を?」
「これはどうかしら、次はこれ、と大真面目に選んでは、お口に入れて。けれど、どれも苦かったり、渋かったり、青臭かったり」
アーシェは心底おかしそうに顔をほころばせる。
「それでも諦めずに、次の草、また次の草、と。三日間も続けてしまったの」
セリアはしばらく、ぽかんと口を開けたまま固まっていた。カップの縁を指先でなぞり、それから、おそるおそるアーシェの顔を覗き込む。
「その……草から、お砂糖ができるの?」
「ううん」
アーシェは楽しそうに首を振った。
「できないのだけれど、甘い汁を蓄えた草が、この島のどこかにないかしらと思って」
「三日間も……」
セリアの瞳がかすかに揺れる。庭のオリーブの枝が、さらり、さらと風に鳴って、二人のあいだの短い沈黙を埋めていった。
「結果は、見事に全滅だったわ。セバルトなんて、お庭でのわたしの様子を報告されたとき、眉間の皺がいつもの三倍は深くなっていたそうなの」
くすりと笑うアーシェを、セリアはもう少しのあいだ見つめていた。それから、いたわるような声で口を開く。
「アーシェ……お身体は、本当に、もう痛むところはないの?」
「どこも痛くないわ。すっかり元気よ。それでね、次は草の代わりに木苺を煮詰めてみたのだけれど――そうしたら、さっきのお蜜になってしまったの。本当は、もっとこう……ジャ――」
言いかけて、アーシェははっと息を止め、慌てて両手で口を塞いだ。
――危ない。また、この世界にない言葉を口にするところだった。
「な、なんでもないの。とにかく、甘くておいしいお蜜にはなったけれど、目指すお砂糖の結晶には、どうしても届かなかったのよ」
セリアはカップを皿へ戻して、アーシェの顔をまじまじと見た。幼い友を気遣う心配と、どう言葉を選べばいいのかわからない困惑が、そのまま目に浮かんでいる。
「アーシェは、本当に……少し変わっているわね」
「そうかしら」
「……でも」
セリアは、陽だまりのようにふわりと笑った。
「とても楽しそうにお話しするから、良かったわ。あなたのそんなお顔が見られて、私、本当に嬉しい」
曇りのないその笑顔に、アーシェはつい、紅茶のポットへ手を伸ばした。
「セリア、次はわたしが注ぐわね」
カップの中で、紅茶がゆっくり渦を巻く。
「ありがとう、アーシェ」
セリアが頷き、両手で温かいカップを持ち上げようとした、まさにその瞬間だった。
――あ。
アーシェの動きが、ぴたりと止まった。
ほんの一瞬。セリアの右手が、寒さに耐えるように小さく震えたのだ。表情は穏やかなまま、けれど彼女はすぐに左手を添え、包み込むようにカップを支え直した。
見逃してしまいそうなほど自然なその仕草が、アーシェの胸に、小さな棘のように引っかかった。
「セリア」
「なあに?」
アーシェの視線に気づいたのか、セリアの指先が、ほんの少し強張る。
「右腕、どうかしたの?」
「……ううん、何でもないわ。少し、手が滑りそうになっただけよ」
「そう……」
アーシェはそれ以上は尋ねず、ほほえんで別の話へ戻した。引きつりかけていたセリアの頬が、かすかにほぐれていく。
けれど。
お茶会が終わり、夕暮れが近づいて、帰り支度を整えたセリアを見送るため、アーシェは彼女の傍らへ歩み寄った。「また来月ね」と言いながら、若草色の袖口へそっと手を添えた、その瞬間。
「っ……!」
セリアの喉から、小さな悲鳴が漏れかけた。全身をこわばらせ、痛みに耐えるように眉を寄せる。それでもすぐに、いつもの笑顔を作ってみせた。
アーシェは、触れた手を静かに離した。
「ごめんなさい」
「……ううん、本当に何でもないの。少し、服が擦れただけよ」
セリアの声は、いつもよりほんの少し早口だった。何かを覆い隠そうとするときのセリアの癖だと、アーシェは長い付き合いの中で知っている。
しばらく、二人とも黙って立っていた。卓の上では、手つかずのまま冷めきった紅茶の面が、夕風にかすかな波を立てている。
「セリア」
アーシェは一歩踏み出し、セリアの正面に立った。唇の動きも、瞳の揺れも、ひとつも見落とさせないように。ゆっくりと、はっきりと。
「お母様を呼んでもいいかしら。右腕を、診てもらいたいの」
「エルミラ様に……?」
「お母様は、この国でも指折りの治療師よ。痛むところがあるなら、きっと楽にしてくださるわ」
セリアは力なく視線を落とした。若草色の裳裾を、小さな指先が、白くなるほど強く握りしめる。
「……大丈夫よ、本当に。なんでもないの」
声は、小さく、けれど確かに震えていた。カーテンを揺らして、庭の花の匂いを運ぶそよ風。その匂いを一度だけ吸い込んで、アーシェはセリアの心に寄り添うための間を置いた。
「セリア」
一歩も引かずに、静かに続ける。
「痛いなら、絶対に診てもらったほうがいいわ」
セリアは唇を結び、俯いたまま、スカートを握る手にさらに力を込めた。言おうか、言うまいか。幼い胸の内の迷いと怖さが、そのまま指先の震えになって表れている。
アーシェは急かさなかった。小さく震える手の隣に立って、セリアが自分から顔を上げるのを、ただ待った。
長い沈黙だった。けれどアーシェには、少しも長く感じられなかった。庭の向こうから、小鳥のさえずりが途切れ途切れに届く。大好きなセリアが心を決めるのに要る時間なら、どれだけでも待てる気がした。
やがて、セリアがはぁと小さく息を吐いた。
「……アーシェは、いつもそうなのね」
「なにがかしら」
「どうして痛むのか、何があったのか、って……絶対に、私に無理に聞こうとしないの」
「聞いてほしいの?」
セリアは首を横に振った。それから、泣き出しそうな、けれど嬉しそうな、困ったような顔でかすかに笑う。
「ううん。もし何があったのって聞かれたら、私、きっと何も言えずに逃げてしまったわ。……アーシェが、何も聞かずにいてくれるから。だから、お話しできる気がするの」
アーシェは、その震える手を、両手でそっと包んで取った。目を離さず、唇をはっきりと動かす。
「わたしは、セリアのことが大好きなの。だから、大切なあなたを、何があっても守りたいわ」
セリアが、はっと息を呑む。水色の瞳の奥にあった孤独の影が、まっすぐな眼差しにふれて、静かにほどけていった。
「……お願いしても、いいかしら」
消えてしまいそうなほど細い声だった。けれどアーシェの耳には、何よりも強くはっきりと届いた。
「もちろんよ」
テラスの隅に控えていたセバルトへ視線を送る。家令は、すべてを察した様子で音もなく一礼し、エルミラを呼びに足早に部屋を出ていった。
* * *
ほどなくして、エルミラが部屋を訪れた。
「セリア、右腕を見せてもらえるかしら」
声はいつもと変わらず、のんびりと柔らかい。セリアがこくりと頷くと、控えていたメイドが息を殺し、痛む腕に触れぬよう慎重な手つきでドレスの右袖を解いた。
エルミラが、小さな白い右腕へ両手をかざす。指先から、淡い銀と緑の治療の光が、肌の上へ静かに灯った。
「……っ……そんな……」
常に穏やかなエルミラの声が、一瞬、驚きと動揺を含んで揺れた。
アーシェは、それ以上を見ようとしなかった。母の手が、いつもよりほんの少し長く、右腕の上で止まったこと。のんびりとした母の目が、怒りと悲しみに細められたこと。見透かされたセリアの肩が、かすかに強張ったこと。子供の悪ふざけや転び傷などではない。母の手の硬直と、その瞳に走った鋭い揺らぎだけで、言葉以上のものが痛いほど伝わってきた。
エルミラは、何があったのか、誰がしたのかを、セリアに問い詰めなかった。深い怒りと悲しみを瞳の奥にしまい込んだまま、痛みを融かすような温かな光を、ただ静かにかざし続ける。部屋には、絹がすれ合うような治療の光の音だけが満ちていた。
セリアは治療のあいだじゅう、アーシェの小さな手を握りしめていた。その温もりだけが自分を繋ぎ止めているかのように、片時も離さなかった。
「終わったわ。もう大丈夫よ、本当によく頑張ったわね」
エルミラの手が、セリアのミルクティー色の頭を撫でる。アーシェは何も聞かず、何も言わず、セリアの手を握り返した。強く、温かく。わたしはここにいるわ、と、胸の内で何度も語りかけながら。
* * *
夕暮れの空が、ハイセルの島をやわらかな橙色に染めていく。馬車へ乗り込む前に、セリアはふと振り返ってアーシェを見た。
「アーシェ、今日は……本当に、ありがとう」
「どういたしまして。また来月も、一緒にお茶をしましょうね」
「ええ。……アーシェが私のそばにいてくれて、本当に良かったわ」
アーシェはただ、ほほえんで頷いた。それ以上の言葉は、いらなかった。
馬車が白い石畳の道を遠ざかっていくのを、アーシェは陽が沈みかけるまで見送っていた。花の甘酸っぱく、どこか切ない香りをのせた潮風が、馬車の小さなカーテンをふわりと持ち上げる。その隙間から見えたセリアの白い頬で、小さな一すじの雫が、夕暮れの光を受けてかすかに光った。
――今度は、わたしが。
握っていた手のひらには、セリアの指の冷たさが、まだ残っている。暮れていく空の端に、一番星がちいさく灯った。
琥珀糖晶が完成する前のお話です。時系列が前後していますが、草をかじり砂糖と呼べる琥珀糖晶第一段階完成までの流れを止めることなく、この位置にもってきました。
セリアの難聴について。感音性難聴で、音の聞こえはいいとはいえませんが若干聞こえています。ただし、この難聴は言葉を認識する力が弱く、大げさに言えば「あいうえお」が「かきくけこ」に聞こえます。雨と言っても聞こえるのは風などです。そして話すことは普通にでき、大きな音にはうるさく感じることもあります。
私自身が感音性難聴ですので、セリアというキャラクターを生み出しました。周りにも障害がありながら強く前を向いている人がいます。そんな登場人物もこれから出てきますが、ご理解いただけますようお願い申し上げます。




