第九話 ―フィルと初めての焼き菓子―
朝のパンを焼き終えた厨房には、香ばしい匂いがまだ隅々まで残っていた。
真っ赤に熾っていた石窯の火は、時間とともに少しずつ落ち着いてきている。このままでは熱が強すぎて、繊細な焼き菓子など一瞬で焦げてしまう。窯が冷めるのを待つあいだにすること――それが、今日のアーシェたちの大切な仕事、クッキーの生地作りだった。
「今日はね、フィルと一緒に、とびきり美味しいクッキーを作るのよ」
踏み台の上に立ったアーシェは、袖をくるりとまくって胸を張った。調理台に並んでいるのは、少し色づいた小麦粉、羊の乳から作った白バター、産みたての卵、先日できあがったばかりの淡い琥珀色の琥珀糖晶、それにひとつまみの海塩。見渡す瞳は、いつもよりずっと弾んでいる。
――シンプルな配合ほど、素材の良さがそのまま出るのよね。少し色づいたこの粉も、かえって素朴な味になるはずだわ。
前世の記憶が、頭の奥でそっと頷いた。飾らない焼き菓子だからこそ、ひとつひとつの工程がそのまま味になる。
「姉さま、ぼくもやる! ぼくもお手伝いする!」
自分用の小さな木の椅子に、うんしょ、とよじ登りながら、フィルが声を弾ませた。灰緑の巻き毛には金と銀の細い筋が混じり、窓から差す春の光を受けて、きらりと揺れる。
「もちろん、フィルも一緒よ。ただね、火を使うところだけは危ないから、ガストンにお願いしましょうね」
「……ああ」
厨房の奥で腕を組んでいたガストンが、短く応えて頷いた。石窯の前にどっしりと構え、ときおり大きな手を窯口にかざしては、余熱の下がり具合を確かめている。
「まずは、バターをなめらかにするところからね」
大きな木鉢には、指がすっと沈むほど柔らかくなった白バターが入っていた。ガストンが朝のうちに、火から少し離れた温かい場所へ置いておいてくれたおかげで、これ以上ない具合に仕上がっている。
「ここに琥珀糖晶を加えて、すり混ぜるの」
淡い琥珀色の粒が、さらさらと木鉢へ落ちていく。
「最初は、私がお手本ね」
木べらを引き寄せ、バターと琥珀糖晶をすり合わせるように練り始める。とん、とん、と木べらが木鉢の底に当たる音が、静かな厨房に転がった。粒の角がバターに擦れて、ざりり、と小さく鳴る。
「次はフィルの番よ。力を入れすぎないで、くるくるって混ぜてみてね」
「ぼくの、ばん!」
両手で木べらを受け取ったフィルは、アーシェの真似をして混ぜ始めた。まだ力の加減が分からず、木べらを動かすたびに木鉢がことこと揺れる。
「上手よ。そのまま、ゆっくり。だんだんなめらかになってくるから」
二人で交代しながら練るうち、羊バターのこっくりとした香りと、琥珀糖晶の澄んだ甘い匂いが混じり合っていった。ざりざりしていた手応えは、いつのまにか軽くなり、木べらの跡にきめ細かなクリーム色がふっくらと盛り上がる。
「あ、姉さま、だんだん白くなってきたよ!」
「バターが空気を含んで、ふわふわになってきたのね。そうなると、色が白っぽくなるのよ」
木鉢を覗き込んだフィルが、うっとりと目を細めた。
「ふわふわの、ねんねする前のお布団みたいだねぇ」
「次は、大切な卵を割る番ね。できるかしら」
卵をひとつ手のひらに乗せてもらうと、フィルの小さな指がきゅっと強張った。
「たまご、つるつるしてて、割れないよ」
「ゆっくりでいいの。卵を横にして、木鉢の縁に、こつん、とね」
こつん。
思ったより大きな、ぱき、という音がした。驚いたフィルが勢い余って殻を割ってしまい、白いクリームの上に、殻の小さなかけらがひらりと落ちる。
「あ……」
フィルの顔が、失敗した、という形のまま固まった。
「大丈夫。割れた殻の端を使えば、ほら、すくえるの」
アーシェが殻の縁でかけらをそっとすくい上げるあいだ、フィルは、ほっとしたような、少し悔しいような顔で、その手つきをじっと見つめていた。
「たまご、殻はこんなに強いのに、中はとっても弱くって、不思議だね」
しみじみとした呟きに、アーシェはふふ、と笑みをこぼした。
小麦粉を加える段になると、木鉢へ身を乗り出したフィルの鼻先で、白い粉がふわっと舞い上がる。
「ふぇっ、ふぇっ、くしょん!」
「ふふ、フィル、お顔が真っ白よ。粉の妖精さんみたい」
「あはは、姉さまもお顔、白いよ!」
見れば、アーシェの頬にもぽつんと粉がついていた。互いのおどけた顔を見合わせて、二人で声を揃えてくすくすと笑う。
「さあ、ここからは猫さんの手を使うのよ」
「ねこさんの、手?」
「指をまあるく曲げて、ほら、こう」
見本に倣って、フィルも小さな指をふっくらと丸めた。二つの手が、粉とバターの塊を撫でるようにすり合わせていく。さらさら、さらさら。やがて生地は、ほろほろとした細かな粒に変わっていった。
「粒になったら、最後に手でぎゅっとまとめて、少しだけ休ませてあげるの」
ひとかたまりになった淡い琥珀色の生地を、フィルが宝物のようにそっと撫でる。
「ねんね、してね」
アーシェが清潔な布をふわりとかけて、生地を寝かせた。
そこへ、家令のセバルトが、二人の休憩にと冷やした月柑の果実水を運んできた。
「わあ!」
木杯へ伸ばしたフィルの肘が、こつん、と別の杯に当たった。傾いた杯から果実水がこぼれ、卓の上に細い川を描いて広がっていく。
「あ、あわわ……ごめんなさい、セバルト」
「フィル、大丈夫? お洋服は濡れていないかしら」
「問題ありません」
短く答えて台拭きを取りに向かうセバルトの眉間には、いつもより深い皺が刻まれていた。けれど卓を拭き終えるころには、その皺はいつのまにか、ほどけている。
並んで椅子に腰かけた二人は、冷えた果実水をこくこくと飲み干した。甘酸っぱい香りが、鼻へ抜けていく。
「おいしいクッキー、できるかなぁ」
「できるわ、きっと。フィルがこんなに一生懸命、手伝ってくれたもの」
「ぼく、ちゃんとできたよ!」
得意げに胸を張ってから、フィルは足をぶらぶらさせて続けた。
「焼けたらね、母さまと父さまにも食べてもらうの。父さま、お仕事いそがしいから、食べたら元気になるかな。フィルの、いちばんかわいくておいしいのをあげるんだ」
「父さまに一番のをあげるのね。きっと大喜びで、大切に食べてくださるわ」
* * *
やがて石窯の熱は、焼き菓子を入れるのにちょうどいいところまで落ち着いた。ガストンが窯口へ手をかざし、無言のまま小さく頷く。
アーシェは打ち粉をさらりと振った木の台に、休ませておいた生地を取り出した。
「生地をなめらかにするところも、フィルに手伝ってもらうわね。手のひらで、うんしょ、うんしょ、って押すの」
「こねこね、うんしょ、うんしょ!」
フィルは真剣な顔で生地と向き合い、小さな体に体重をかけて、手のひらで押し広げていく。数分も経つと、その腕がぷるぷると震え始めた。
「フィル、疲れたら代わってもいいのよ」
「……うん、ちょっとだけ、おててが、ぷるぷるするかも」
「よし、そこまでだ。あとは俺がやる」
ガストンが横から大きな手を伸ばし、生地を引き継いだ。分厚い指先で硬さを確かめ、ぐっと押し込む。子どもたちが苦戦していた生地が、あっというまに、つやのあるなめらかな塊へ変わっていった。
「すごーい! ガストン、とっても上手!」
フィルの憧れの眼差しに、ガストンは何も言わない。ただ、強面の口の端が、ほんの少しだけ持ち上がった。
生地を丸めるのは、また子どもたちの仕事だ。小さくちぎって、手のひらの上でころころと転がし、愛らしい球にしていく。
「まんまる、お団子みたいだね」
「そうよ。きれいな丸ができたら、この木のスプーンの背で、上から、ぽん、と押すの」
くぼ、と生地の中央が丸く沈んだ。押しすぎて割れないよう、そっと、慎重に。
「この間ね、ベルトの離れの近くで、陽実という木の実を見つけたの。それをガストンに、香ばしく炒ってもらったのよ」
「きのみを、お菓子にのせるの?」
フィルが目を丸くする。
「そうよ。今日はこれを、スプーンで作ったくぼみに乗せて焼くの」
炒った陽実は、ナッツに似た甘く香ばしい匂いを厨房いっぱいに広げていた。フィルは真剣な顔で一粒ずつつまみ、くぼみの真ん中へ、そっと置いていく。
「まんなか、まんなか、おいしくなぁれ……」
少し傾いたもの、中心からずれたもの。それはそれで、なんとも言えない愛嬌があった。
* * *
正午を告げる鐘の音が、遠くハイセルの空に響く頃。天板に行儀よく並んだ生地は、ガストンの手で、落ち着いた熱をたたえる石窯の中へ収められた。
甘い匂いが厨房に満ちるまで、そう時間はかからなかった。バターのこっくりとした香りに、小麦の焼ける匂いが重なり、陽実の香ばしさがその上でぱちりと弾ける。窯口から覗くクッキーは、じっくりと余熱に包まれて少しふくらみ、縁からおいしそうなきつね色に染まっていった。
焼き上がったクッキーは、ほろりと崩れそうな薄琥珀色をしている。光にかざすと、表面の琥珀糖晶がほんのり溶けて、星屑のようにきらりと光った。
木板に並べて冷ましているあいだ、フィルは一枚ずつ、顔を寄せて覗き込んでいく。
「この子が、いちばん、かわいい!」
小さな人差し指が指したのは、少しいびつに丸まって、陽実が端に寄ってしまった一枚だった。
「あら、それはフィルが食べるの?」
「ううん、ちがうよ」
フィルはにこにこと首を横に振る。
「かわいいのはね、お仕事から帰ってきた、父さまのぶん!」
それから、次々と指を移していった。
「これと、これは、お顔が丸くって、とっても優しそうだから、母さまと、姉さまのぶん!」
にこにこ、にこにこ。実が端に寄っていたり、縁がちょっぴり焦げていたりする不揃いなクッキーに、フィルは大好きな家族の行き先をひとつずつ決めていく。
――フィルのほうが、よっぽどかわいいのに。
口には出さず、アーシェは弟の灰緑の巻き毛を、くしゃりと撫でた。
「じゃあ、まずは出来たての味見をしましょうか」
「たべる、たべる!」
自分たちの分に取り分けた一枚ずつを手に、二人は顔を見合わせる。
「せーの」
こくん、と同時にかじりついた。
さくり。
前歯が触れたとたん、クッキーは淡雪のようにほろりとほどけた。羊バターのまろやかなコクと、琥珀糖晶の澄んだ甘みが舌の上に広がり、噛みしめると、中央の陽実がかり、と小気味よく割れて、香ばしい香りが鼻先を抜けていく。
「おいしい……! 姉さま、とっても、おいしいよ!」
「ふふ、フィルのほっぺ、りすさんみたいに膨らんでいるわよ」
小さな頬をいっぱいに膨らませたまま、フィルがうんうんと頷く。ごくんと飲み込んでから、何かを考えるような顔になって、ぽつりと言った。
「ねえ、姉さま。おいしい、ってね――みんなのすきが、ひとつになった味がするんだねぇ」
クッキーを持つアーシェの手が、止まった。
「……」
窯の薪が、ぱち、と爆ぜる。
「フィルは、小さな詩人ね」
「しじん?」
「ううん、なんでもないの。とっても素敵なことを言うのね、と思って」
味見の順番が回ってきたガストンは、無骨な大きな手で小さなクッキーをつまみ、一口で放り込んだ。
さくり、と乾いた音がして、その動きが止まる。
「……ガストン?」
アーシェが恐る恐る見上げても、返事はない。ガストンは黙ったままもう一枚を取り、今度は時間をかけて噛みしめた。
「お口に、合わなかったかしら」
「……いや」
三枚目に手を伸ばしかけて、アーシェと目が合う。咳払いをひとつ、手を引っ込めかけて――結局そのまま、口へ運んだ。
「……うまい」
それだけ言うと、ガストンはくるりと背を向け、窯口の前へ戻っていく。余熱を確かめる手つきが、さっきよりずっと丁寧になっていた。背中越しにも、肩の力がふっと抜けているのが分かる。
素朴な、ほろりとほどけるだけのクッキー。それが、頑なな料理長の口をほころばせたのだと思うと、アーシェは嬉しくて、にんまりと笑みを浮かべた。
◇ ◇ ◇
春の陽が西へ傾き始めるころ、エルミラの部屋には、焼き菓子の甘い匂いがまだほのかに残っていた。
一日の大仕事を終えたフィルは、とうとう眠ってしまい、エルミラの膝の上で規則正しい寝息を立てている。その頭を、エルミラの指がゆっくりと撫でていた。
「本当に、楽しかったのね。お部屋に戻ってきたとき、お顔を真っ白にして、クッキーの袋をぎゅっと抱きしめながら話してくれたのよ。ありがとう、アーシェ」
「フィルが楽しんでくれて、よかったわ。少しはしゃぎすぎてしまったかしら」
「いいえ、疲れて眠っているだけ。この子は魔力が強くて、お体がまだ追いつかないから、すぐに眠くなってしまうの」
そこへ、木の扉が音を立てないよう、ゆっくりと開いた。
「ただいま。……おや、部屋中がいい匂いだ」
領主の執務を終えたヴェルナルドだった。淡い銀に緑の筋が混じる髪が夕暮れの光に溶け、部屋の光景を目にした彼の表情が、ふっとほどける。
「お帰りなさいませ、お父様」「お帰りなさい、あなた」
ヴェルナルドは足音を忍ばせて歩み寄ると、膝の上のフィルの寝顔を、大きな手でそっと撫でた。
「お父様、これを見て。フィルがね、お仕事から帰ってきたお父様のぶんに、これがいちばんかわいくて美味しいからって、選んでくれたのよ」
アーシェが卓の皿を示す。少しいびつで、陽実が端に寄ってしまった一枚が、そこにちょこんと載っていた。
「私のため、か。……そうか、フィルが、私のために」
ヴェルナルドは宝玉でも眺めるように、その不揃いなクッキーを見つめ、目元を和らげた。
「私にもね、お顔が丸くて優しそうだからって、これを選んでくれたのよ。優しいお兄ちゃんに育ってくれて」
エルミラがくすりと喉を鳴らし、二人の視線が温かく重なる。
ヴェルナルドは小さなクッキーを一枚つまみ、口へ運んだ。さくり、と静かな音がして、ほろほろとほどける。
「……澄んだ甘さだな。おいしいよ。フィルとアーシェの気持ちが、この一枚にぎゅっと詰まっている」
そう言って、傍らのアーシェの肩を、包み込むように引き寄せた。
「アーシェ。お前がまた元気になって、フィルのために、家族のために、こんなに素晴らしいものを作ってくれた。父は、何よりも嬉しいよ」
「あなたが笑っていてくれるだけで、私たちは十分なのよ」
エルミラの空いた手が伸びて、アーシェの深緑の巻き毛を撫でる。両親の腕と掌のぬくもりに挟まれて、アーシェの背中はぽかぽかと温まっていった。
――お菓子を焼くのって、やっぱり、いいものね。
目の奥がつんとして、アーシェはふふ、とおどけて笑い、ごまかした。
「そういえばね、お父様、お母様。味見のときに、フィルがとっても素敵なことを言ったのよ」
「おや、どんなことだい」
「おいしいって、みんなの好きが、ひとつになった味がするんだねぇ、って」
ヴェルナルドとエルミラは、はっとしたように顔を見合わせた。それから、同時に、ふふ、と声を抑えて笑う。
「本当に……小さな詩人ね」
「ああ」
ヴェルナルドは、それ以上の言葉を探すのをやめたように、眠る息子の頬へ指を添えた。
膝の上で、フィルが小さく身じろぎする。
「……いちばん、かわいいの……ぼくの……」
寝言とも寝息ともつかない声に、三人の笑みが重なる。眠るフィルの口元にも、同じ笑みがふわりとほどけていた。
窓の外では、傾いた春の陽が、空を橙に染めている。卓の上の、いびつなクッキーの皿の端で、寄り添った陽実がひとつ、小さな金色の光を灯していた。




