閑話 ―答えのない問い・ガストン―
蜂蜜の揚げ菓子を、揚げたてのまま食堂へ運んだのは、ガストン自身だった。
艶やかに揚がった一枚一枚を大皿に並べ、給仕のメイドへ手渡す前に、もう一度だけ色合いを確かめる。狐色にからりと揚がった生地に、絡めた貴重な蜂蜜が夕陽を受けて、とろりと光っていた。三十年の経験が、これでいいと静かに告げている。あとは、お嬢様が召し上がるのを待つばかりだ。それを見届けるような柄でもない。大皿を渡すと、ガストンはすぐに厨房へ戻った。もとより、長居は性に合わなかった。
厨房には、揚げ終えたばかりの油の匂いが、まだほのかに残っている。片付けのために洗い物へ取りかかった、まさにその時だった。
食堂の方から、鋭い悲鳴が届いたのは。
つい先ほどまで、廊下を伝って家族の笑い声が続いていた。皿の触れ合う涼やかな音と、忙しなく行き交う使用人たちの足音。屋敷のいつも通りの穏やかな夕べが、あの悲鳴を境に、ふつりと途切れた。
布巾を握りしめたまま、ガストンは駆け出していた。
――自分の菓子が、まさか。
最後まで考えられないまま、食堂の様子を一目見ることもなく、気づけば厨房へ戻っていた。料理人風情が立ち入れる場所ではないと、身体のどこかが冷えた頭で理解していたのかもしれない。
誰もいなくなった厨房の隅で、ガストンはしばらく動けずにいた。換気窓から吹き込む風が、鍋の並んだ棚をかたかたと小さく鳴らしている。笑い声が悲鳴に変わった、あの一瞬の音を、一生忘れられないだろうと思った。
蜂蜜の揚げ菓子。持てる腕のすべてを注いだ。お嬢様の八歳の誕生日のために、旦那様が特別に手配してくださった極上の蜂蜜を使い、これ以上ないほど丁寧に揚げたのだ。
それが、なぜ。
――なぜ、こうなる。
屋敷に医師が呼ばれた。誰もが首をひねるばかりで、お嬢様が眠り続ける理由の答えを持ち帰る者は、一人もいなかった。廊下を行き来する大人たちの足音だけが、やけに重く、冷たく響く。
分量を間違えたか。油の温度がおかしかったか。料理一筋、三十年。これほど己の腕を疑ったことはなかった。
何度も、お嬢様の眠る寝室の前まで行こうとした。そのたびに、一介の料理人が顔を出せる場所ではないと、自分に言い聞かせて足を止めた。せめて何か役に立ちたい。だが、この無骨な手にできることは、もう何も残っていなかった。
厨房の棚には、磨く必要のない大鍋がいくつも並んでいる。ガストンはそれを手に取り、黙々と磨いた。磨いたところでお嬢様が目を覚ますわけではないと、痛いほどわかっていた。それでも手を動かしていなければ、己の無力さに押し潰されてしまいそうだったのだ。
「……頼む。お目を……覚ましてくれ」
誰に言うともなく、冷えた竈の暗がりへ向けて、掠れた声が落ちた。窓の外はいつの間にか陽が落ち、磨き抜いた大鍋の縁だけが、月明かりを映して白く光っている。
* * *
それから六日の後。
「お嬢様が、お目を覚まされた」
厨房の扉を開けて入ってきたセバルトの声が、いつもとは明らかに違い、わずかに上ずっていた。眉間の皺が、見たこともないほど緩んでいる。
ガストンは、握っていた木べらを床に取り落としそうになった。その動揺を、家令に見られずに済んだのは幸いだった。
「……そうか」
それだけを返した。いつも通りの低い声を装うのが、その時の精一杯だった。それ以上の言葉は、喉の奥に仕舞い込まれて出てこない。
胸の奥で冷たく強張っていたものが、ゆっくりとほどけていく。ガストンは深く一つ息を吐き、抜けそうになる膝の力を殺すように、傍らの調理台へ分厚い手を押し当てた。
その日の夕食は、いつもより少しだけ、味付けが優しく、角の取れたものになった。お嬢様の腹に優しい味を。誰もその違いには気づかなかったが、ガストンは確かに、静かな祈りを込めて仕立てたつもりだった。
* * *
だが、熱が引いて三日と経たぬうちに、お嬢様は朝の庭に出て、がむしゃらに草をかじり始められた。
セバルトが猛烈な勢いで厨房へ飛び込んできたのは、その日の午後だった。いつもきっちり整えている髪をわずかに乱し、息を切らしている。
「ガストン。お嬢様が庭で草をかじっておられた」
玉ねぎを刻んでいた包丁が、ぴたりと止まる。
「……雑草を、ですか」
「雑草です」
言葉のあとに、重い沈黙が落ちた。竈の奥で、薪がぱちりと小さく爆ぜる。それだけが、二人の間を埋めていた。
「……………」
「……………」
「やはり……熱のせいでしょうか」
「医師は完治と申しておりましたが」
またしても、誰にも答えの出ない問答だった。ガストンの脳裏には、石畳の上に積まれた、かじりかけの草の山が浮かんでいた。国一番の目利きのような大真面目な顔で、雑草を一本ずつ吟味しては口に運ぶ、お嬢様の奇妙な姿。
――熱で、お頭のどこかが、おかしくなられてしまったのでは。
口には出さなかった。出せるはずもない。それでもその懸念は、二人の胸の内で、静かに深く根を張っていった。
セバルトの眉間の皺が、この日を境に、いつもの三倍は深く刻まれるようになった。ガストンもまた、自分の口がいつにも増して固く結ばれているのを、密かに自覚していた。
* * *
翌朝、お嬢様が朝露をまとった木苺を籠いっぱいに抱えて厨房へ現れた時、ガストンは正直なところ、身構えた。朝の光を浴びた赤い実から、甘酸っぱい香りが、熱のこもる厨房の空気へふわりと広がっていく。
「これを煮詰めてみたいのだけど、火の扱いを手伝っていただけるかしら」
「……何を作るおつもりですか」
「砂糖を作ってみようと思って」
「……木苺から、ですか」
草をかじった次は、木苺を煮て砂糖を作るという。頭の熱を疑う考えが、ガストンの中でむくむくと根を伸ばした。それでも、幼いお嬢様に火を扱わせるわけにはいかない。危なっかしくて見ていられないのは、いつものことだった。料理長としての矜持はひとまず脇に置き、小さな竈に火を熾し、年季の入った木の踏み台を据えて、見守れるようにした。
案の定、お嬢様の言う通りに煮詰め、石板に薄く広げてみても、白い結晶にはならなかった。冷めても崩れるほど柔らかい、赤く艶やかな、とろりとした塊ができただけだ。
「……砂糖にはならなかったけど……果実のお蜜、みたいね」
踏み台から降り、調理台の縁に小さな手をかけて背伸びをしながら、お嬢様がぽつりと呟いた。そのままの名だったが、なんとも愛らしい響きだった。果実蜜。
「パンに塗れば、美味しゅうございます」
あらかじめ切り分けておいたパンを手渡すと、お嬢様は赤い蜜をたっぷりと塗り、小さな口を大きく開けてかぶりついた。琥珀の瞳の奥に、若葉の色がぱっと灯る。
「美味しいわ。ガストン、ありがとう」
味見をと言われて、残った蜜を小匙ですくい、口に含んだ。その瞬間、ガストンは無言のまま、心底驚いていた。
甘い。ただ甘いだけではない。木苺の鮮烈な酸味と凝縮された甘みが絡み合い、料理人でもうならざるを得ない、奥行きのある味わいだった。砂糖にはならなかった。だがこれは、これで抜群に美味い。
三十年あまり、厨房では頑なに無表情を貫いてきた男だった。それでも、お嬢様に背を向けて片付けに取りかかった時、口元がほんのわずか動くのを、自分でも止められなかった。
――お頭がどうかなされたなどと、とんでもない。砂糖にはならなかったが、悪くない出来どころではない。
失敗するだろうと踏んでいた、料理人としての浅い経験則が、小気味よく裏切られた瞬間だった。
* * *
それからというもの、お嬢様は次々と庭の根や実を持ち込んでは、ガストンに火を任せて煮詰め、そのたびに首をかしげる日々が続いた。
フィーゼの根を煮詰めた時は、甘みこそ出たものの、あの独特の青臭さまで何倍にも濃くなって、お嬢様と二人、これはとても美味いとは言えないと肩を落とした。
そして、ある夕暮れ時のこと。
高地の牧舎から、雪乳獣の好む白銀色の月密根を持ち帰り、筋から甘い汁だけを搾り取って、石板の上で冷ました。
――しゃり。
静まり返った厨房に、小さな、しかし驚くほど乾いた音が響いた。お嬢様の小さな爪先が、石板の端の結晶を引っかいた音。それが、確かな産声だった。
割った琥珀色の断面は、窓からの光と竈の炎を受けて、宝石のようにきらめいた。その一片を口に運んだお嬢様は、声も上げず、ぽろぽろと涙をこぼしていた。傍らでは、あの偏屈な学者のベルトが、何も言わず、その一瞬を逃すまいと手帳に羽根筆を走らせている。筆先のかさかさという音が、しばらく厨房を満たしていた。
お嬢様に促されるまま、ガストンは大きな手で水を数滴落とし、押しては返し、木べらでほぐした。しゃり、しゃり、しゃりと音を立てて、塊がさらさらとした琥珀色の砂に姿を変えていく。琥珀糖晶。その時の指先の感触を、ガストンは今も鮮明に覚えている。
「これでも、まだはじまりなのよ。いつかこの琥珀糖晶が、もっと白くて雑味のない、真っ白なお砂糖になる日が、きっと来るわ」
まっすぐな眼差しで告げられた、未知の白い結晶への決意。これほど極上の甘みを持つ琥珀の砂を、さらに超える、一切の濁りのない甘みが存在するというのか。お嬢様の眼差しが見据える先は、一体どれほど高い場所にあるのだろう。料理人としての誇りと、言い知れぬ期待が、ガストンの大きな手の中で、静かに熱を持って脈打っていた。
* * *
家令のセバルトが用件をまとめて厨房を訪れると、石板の上に、見慣れない薄琥珀色の砂と、きらめく欠片が並んでいた。
「……これは、何です」
「琥珀糖晶、と。お嬢様が、月密根から作られました」
ガストンが、いつもの無表情で、けれどどこか誇らしげに答える。
セバルトは眉間の皺を刻んだまま、砂をほんの少しつまみ、口へ運んだ。その瞬間、薄紫の瞳が、これまでにないほど大きく見開かれる。眉間の皺がぐっと動いた。口いっぱいに広がるのは、一切の濁りがない、澄み切った、気高いまでの甘さだった。
「……ガストン」
「なんだ」
「私が、間違っておりました」
「何がだ」
「お嬢様が草をかじっておられたのは……この甘みのため、でしたか」
セバルトの眉間から、皺がすっかり消えた。石板に向かって、深く一礼する。
棚の大鍋を磨いていたガストンの手が止まり、広い肩が、小さく揺れた。強面の口元がゆるみ、やがて喉の奥から、低い笑い声がこぼれる。声を立てて笑うガストンなど、いつ以来のことだろう。
正直なところ、あの草かじりの日から、胸の隅に引っかかっていた疑問はあった。八歳になったばかりの子どもが、なぜあれほど迷いなく、甘みの在り処を探り当てられるのか。筋を搾って濾せばいいなどという、文献のどこにもない発想に、なぜためらいなくたどり着けるのか。
答えは出なかった。これから先も、おそらく出ることはないのだろう。
――まあ、いい。
ガストンは、そう結論づけた。奇跡のようなひらめきの理由など、料理人には関わりのないことだ。お嬢様が、本当に美味いものを作り出してしまう。その揺るぎない事実だけが、この厨房の真実なのだから。ならば、自分のすべきことは一つしかない。火を任され、鍋を任され、その思いつきを完璧な形にして皿へ載せる。それで、料理人としては十二分に幸せだった。
* * *
そして今日も、ガストンは石窯の前にどっしりと構え、時おり大きな手のひらを窯口へかざしては、余熱の下がり具合を確かめていた。石の壁から、じんわりと柔らかな熱が頬へ伝わってくる。
調理台の上では、踏み台に乗ったお嬢様と、自分用の小さな椅子によじ登ったフィル様が、粉まみれになって賑やかにやっていた。
「たまご、つるつるしてて、割れないよ」
「ゆっくりでいいの。卵を横にして、木鉢の縁に、こつん、とね」
こつん。
危なっかしい手つきで卵を割り、殻を紛れ込ませ、アーシェお嬢様に拾ってもらい、小麦粉をかぶって盛大にくしゃみをする。どこからどう見ても、年相応の、微笑ましい子どもたちの姿だった。
けれど、である。
生地の様子を見極めるお嬢様の目。手のひらでぐっと生地を押し込む時の力加減。仕上がりを確かめる指先の運び。それらは、八歳の子どものものとは思えなかった。危なっかしいのに芯が通っていて、決して失敗しない。不思議で、この上なく頼もしい姿だった。
「よし、そこまでだ。あとは俺がやる」
ガストンが大きな手を伸ばし、子どもたちが押し広げていた生地を引き取った。分厚い指先で硬さを確かめ、ぐっと押し込む。生地はあっという間に、なめらかにまとまっていった。
「すごーい!ガストン、とっても上手!」
フィル様が素直な憧れの眼差しで声を上げる。ガストンは何も言わず、ただ強面の奥で、口の端をほんの少し持ち上げた。
お嬢様が匙の背でつけた小さなくぼみに、フィル様が香ばしい陽実を、ちょんと乗せていく。ガストンが天板を窯口へ差し入れると、やがて香ばしい匂いが、厨房の隅々へ広がった。
世界で最初の、みんなの「すき」がひとつになった温かいクッキー。焼き上がったそれは、ほろりと崩れそうな薄琥珀色で、散りばめた琥珀糖晶が窓の光を受け、小さくきらりと瞬いている。
「見て、姉さま。お星さまが、クッキーの上でねんねしてる」
フィル様の声に、お嬢様が嬉しそうにうなずいた。
* * *
夕方、二人が奥様の部屋へ戻られたあと、ガストンは一人、静まり返った厨房を片付けていた。
使い終えた木鉢を洗って棚へ戻し、床を掃き、石窯の火の始末を終える。いつもと変わらない時間のはずが、今日はどこか甘い香りが優しく残っていた。窓の外では、傾いた陽の風が、おだやかに通り過ぎていく。
ふと、調理台の隅の白い陶皿に目が留まった。クッキーが、ぽつんと一枚だけ残されている。少し形がいびつで、陽実が端に寄ってしまった一枚。一日火の番をしたガストンのために、フィル様とお嬢様が、こっそり残していったのだろう。
しばらく見つめてから、無骨な手で、壊れ物を扱うようにそっとつまみ上げ、口へ運んだ。
さくり。
ほろほろと、口の中でほどける。バターの豊かなコクと、濁りのない琥珀糖晶の上品な甘さ。噛みしめるたび、陽実がかりりと弾けて、香ばしさが鼻先をくすぐった。
ただそれだけの菓子が、なぜこうも、いつまでも口の中に温もりを残すのか。
その答えも、やはり出なかった。ふ、と短く息が漏れる。出なくてもいい。そう思えた。
皿に落ちた小さな屑を指先で拾い、ガストンは窓へ目をやった。傾いた光が、誰もいない調理台の粉を、淡く照らしている。
水、土で投稿していましたが、ストックが安定してきたので金、土、日。しばらく週三で投稿します。
宜しくお願い致します。




