―父の祈り―ヴェルナルド・ハイセルの六日間―
静月の三の月。一年のうちでも寒さがゆるみはじめるこの頃、領都では、一年の実りに感謝し、芽月を迎える支度をするための市が立つ。
その日、ヴェルナルドは護衛も連れず、御者ひとりを辻に待たせて、領都の街を歩いていた。
辺境伯という立場を思えば、褒められた振る舞いではない。わかっている。それでも今日ばかりは、誰の目も気にせず、一人の父親として歩きたかった。
石畳の入り組んだ細い路地を抜けると、小さな店がひっそりと佇んでいる。間口が狭く、うっかりすれば通り過ぎてしまいそうな構えだ。それでも、軒先に下がる古い木の看板と、そこから流れてくる蜂蜜の濃く重たい香りを、ヴェルナルドは一年前の娘の笑顔とともに覚えていた。
「辺境伯様」
奥から顔を出した老婆が、皺だらけの顔をほころばせる。
「今年も、お越しくださいましたか」
「約束しただろう。娘が八つになる日だからな」
「へえ、へえ。今年の蜂蜜は格別でございますよ。山の奥の、険しい岩場に巣を作る、滅多に採れぬ野生の蜂のものでして――」
老婆の熱のこもった説明を、ヴェルナルドは穏やかな顔で聞いていた。言葉の半分も頭に入っていなかったかもしれない。それでも、自分の足でここへ来て、自分の手で受け取る。それが、一年に一度の、彼なりの甘い儀式だった。
――これを渡したとき、アーシェはどんな顔をするだろう。
包みは、掌にずしりと重かった。
馬車へ戻る道すがら、去年の誕生日の光景がよみがえる。小さな皿を両手で抱え、宝物のように一口ずつ食べていた娘。もったいなくて食べきれないと頬をふくらませながら、結局は皿を空にして、照れたようにくすくす笑っていた。
今年は、どんな顔を見せてくれるのか。
そう思っただけで、領主の顔はどこかへ消え、口元が勝手にゆるんだ。
* * *
誕生日の食卓は、温かく、にぎやかだった。
午後の光が大きな窓から差し込み、卓の上では、淡い黄色と白の小花が揺れていた。骨付き肉の香ばしい匂いに、スープの湯気とパンの温もりが混じり合う。五つのフィルは口の周りにソースをつけて笑いを誘い、エルミラが呆れ顔で布を当ててやった。母の手に顔を拭かれながら、フィルはくすぐったそうに身をよじる。それを見て、アーシェが声を立てて笑った。
ヴェルナルドは、いつもより少し大仰に乾杯の言葉を述べた。家族が照れくさそうに頬を染めるのが、わかっていてもやめられない。
――これでいい。
――この何気ない日々が、私の守るべきすべてだ。
杯の縁が触れ合い、澄んだ音が小さく鳴った。
ヴェルナルドは、厨房の入り口に立つガストンへ目配せを送った。
寡黙な料理長が、自ら皿を手に現れる。狐色に揚がった蜂蜜の揚げ菓子が、窓の光を受けて、艶やかに照り返していた。
アーシェの瞳が、きらりと輝く。
去年と同じ顔だ。八つになっても変わらない。ヴェルナルドは目を細め、菓子を口へ運ぶ娘を、ただ見守っていた。
だから、見逃さなかった。
小さな顔から、すうと色が引いていく。喜びが消えた。驚きでも、困惑でもない。はるか遠い場所を見つめるような目だった。八つの子どもの瞳にあるはずのない深さで、何かが激しく揺れている。
「アーシェ?」
エルミラが気づくより早く、ヴェルナルドは椅子を蹴って立ち上がっていた。
糸の切れた人形のように、小さな身体が傾ぐ。食堂がしんと静まり返り、誰かの息を呑む音がやけに大きく響いた。遅れて、侍女の悲鳴があがる。
西日に染まりはじめた卓の上で、小花だけが、主を失ったまま静かに揺れていた。
* * *
屋敷に呼ばれた医師は、診るたびに首を振った。熱は恐ろしく高い。しかし痙攣はなく、うなされることもなく、ただ静かに眠り続けている。原因が、どうしてもわからないという。
ヴェルナルドは寝台の脇に椅子を引き、娘の熱い手を両手で包んだ。こんなにも小さい手だ。力を込めれば壊れてしまいそうに細い。
部屋には薬草の苦い匂いが満ちている。いつも娘から漂う、花のような甘い匂いではない。それが、胸に鋭く刺さった。
「……毒の可能性は」
地を這うような低い声が出た。あの蜂蜜は、自分が店から直接受け取り、娘の口に入れさせたものだ。もしそこに誰かの悪意が混じっていたなら、この手で毒を盛ったも同然ではないか。胃の底が焼けるようだった。
医師は深く頭を下げた。
「菓子も蜂蜜も、本日の料理のすべても調べました。毒の痕跡は、一切ございません。ただ、お嬢様のこの熱の原因が……」
「わかった。引き続き、頼む」
エルミラは、娘の枕元を離れなかった。いつもの穏やかさを消した真剣な眼差しで、熱い額に両の手をかざす。淡い金に緑の筋が走る髪が、蝋燭の灯りに頼りなく揺れた。
乱れた魔力の流れを整える。素手で行う、彼女ならではの治療だ。
けれど、指先には何も返ってこない。整えるべき流れそのものが、この子の身体には、ひと雫も存在しないのだ。
蝋燭の芯が、小さくぱちりと鳴った。
魔力のない子。幾度となく言われ、自分たちも受け入れてきたはずの事実が、今ほど残酷に思えたことはない。
額にかざした白い手が、細かく震えていた。
「……ごめんなさいね、アーシェ。母親なのに、治療師なのに、何もしてあげられなくて……」
消え入りそうな声だった。ヴェルナルドは何も言わず、妻の背に大きな手を添えた。どんな言葉も、今の自分たちの無力の前では空虚に響く。震えを一緒に受け止めることしか、できなかった。
* * *
熱は、二日、三日と下がらないまま過ぎていった。
フィルは姉の手を握って泣き、泣き疲れて、寝台の端で眠り込んだ。小さな背に毛布を掛けてやったのは、ヴェルナルドの手だった。食事を勧めに来る侍女の盆は、手をつけられないまま下げられていく。
幾晩目の夜だったか。皆が下がり、部屋にひとり残ったヴェルナルドは、娘の額に大きな手を当てた。
熱い。けれど、不思議と荒れてはいない。嵐のようにうなされるでもなく、内側から冷たい氷がゆっくりと溶けていくような、どこか厳かな熱だった。窓の外では夜が深く沈み、雲の切れ間に、小さな星がいくつか冷たく光っている。
――なぜ、よりによって、八つになった日なのか。
仰いだ天井に、当主だけが継ぐ古い言い伝えが、ふとよぎった。
――まさか。
確かめようのないことだ。ヴェルナルドは、それを頭から振り払った。
深い緑の髪に、金や銀の透き通る輝きを持たない娘。それは魔力を持たぬ者の色だと、屋敷の外では幾度も陰口が聞こえた。「ハイセル家の魔力なし」と蔑まれていることも、すべて耳に入っている。
けれど、初めて娘を抱いた日から、変わらない思いがあった。
――あの髪は、美しい。
自分たちの、金や銀に透ける髪とは違う。だが、あの深いオリーブのような緑には、静かな強さがある。嵐の中でも揺らがず、大地に根を張る古い大木のような強さだ。この子の本当の美しさを知る人が、いつかそばにいてくれればいい。
「アーシェ」
熱い額へ、祈るように唇を寄せた。
「お前は、何も背負わなくていい。……ただ、生きていてくれ」
そのとき、静まり返った廊下の向こうから、かすかな音が届いた。
きゅっ、きゅっ。
磨き抜かれた金属を擦る、ひたむきな音。ガストンだろう。あの寡黙な料理長は、誰もいない厨房で、もう磨く必要もない大鍋を磨いているに違いない。言葉にしない男の、祈り方だった。
この屋敷の誰もが、それぞれのやり方で、アーシェの目覚めを願っている。ヴェルナルドはその音に耳を傾けながら、夜が明けるのを待った。
* * *
六日目の朝。
空気が変わった。ヴェルナルドがそれに気づいたのは、六日のあいだ、ほとんど離さずに握っていた小さな手が、応えたからだった。
指先が、握り返してくる。弱いけれど、確かに意志を宿した温もりだった。
窓の外では夜明けの光がゆるやかに広がり、果樹園の木々を渡る風が、しゃらり、と乾いた音を開いた窓から運んでくる。
「……お父様」
細く開いたまぶたの奥、若葉色を秘めた琥珀の瞳に、これまでになく澄んだ光があった。
叫びそうになる声を、喉の奥でこらえる。涙を拭うことも忘れて、娘の顔を見つめた。
「……アーシェ。よかった、本当に……!」
「……ごめんなさい。心配、かけて」
アーシェは、微笑んだ。
間違いなく、愛する娘の笑顔だ。けれど、六日前とは何かが決定的に違っていた。嵐が過ぎたあとの凪の海のようでもあり、途方もなく遠い旅路を一人で終えて、帰ってきた者のようでもある。
枕に広がる深い緑の巻き毛を、朝の光がやわらかく撫でていた。
「お父様。……お願いが、あるの」
「なんでも言いなさい」
アーシェは言葉を探すように天井を見つめ、それから、自分の小さな手に目を落とした。
「お菓子を、作りたいの。……甘い、お菓子」
「甘い、お菓子?」
「うん。ここには、まだ、ないから」
ヴェルナルドは、きょとんと目を瞬かせた。目を覚ますなり、まっすぐにそう告げてくる。熱に浮かされたうわごとではない。
「材料も、道具も……自分で、探すわ。でも、わからないことは、お父様に、助けてほしいの」
娘の瞳の奥に灯る光を、ヴェルナルドはしばらく見つめ、それから、ゆっくりと頷いた。
「――ああ。もちろんだ」
小さな手を、もう一度、しっかりと握る。
廊下の向こうで、誰かがそっと息をついた気配がした。ガストンだったのかもしれない。足音が、厨房のほうへ遠ざかっていく。
開いた窓の外では、朝の光の中を、潮風がオリーブの葉を揺らして渡っていた。やがて厨房の奥から、薪をくべる小さな音が、かすかに聞こえはじめる。




