第一話 ―白い布と、閉ざされた瞳―
朝の庭には、夜の名残のようなひんやりとした空気が、まだ薄く漂っていた。
薬草を並べた台の上を、そよ風がそっと撫でていく。乾いた葉の懐かしい香りに、冷たい朝露の匂いが混じっていた。
アーシェは並んだ薬草を、一枚ずつ指先で裏返していた。ベルトが数日ほど本土へ出かける前に、頼んでいった仕事だった。「乾き具合を、時々見ておいてほしい」――そう言われて、素直に引き受けたのだ。単純な手仕事だけれど、嫌いではない。乾いた葉のパリッとした素朴な感触が、指の腹に心地よかった。
その静けさを破ったのは、遠くから響く蹄の音だった。
最初は朝風に紛れるほどかすかだったのに、音はみるみる大きくなり、こちらへ近づいてくる。一頭の馬にしては速すぎる。急を告げるような駆け方だった。
アーシェは指を止め、顔を上げた。
蹄が屋敷の前の地面を打ち鳴らし、荒いいななきと息遣いが庭の静けさを引き裂く。そして、ガツンと石板を削る重い音を立て、馬は門の前で唐突に止まった。
門をくぐってきたのは、ヴェルナルドの馬だった。供の姿はない。辺境伯ともあろう人が護衛も連れず、自ら手綱を握りしめ、必死の形相で戻ってきたのだ。
いつもの穏やかな笑顔は、かけらもなかった。眉を強く寄せ、唇は白くなるほど固く結ばれている。その険しさに、アーシェの心臓がどくりと跳ねた。
ヴェルナルドの片腕には、厚手の白い布でぐるぐると巻かれた、小さな細い影が抱えられていた。
――子ども……?
異変を察したのか、玄関の重い木扉が開き、家令のセバルトが素早く外へ出てくる。驚きを隠しきれない様子だった。
「旦那様……!」
「セバルト、すぐに湯を用意しろ。それから、ガストンには温かいスープを頼む」
馬を降りるなり、ヴェルナルドは短く指示を飛ばした。反論を許さない、領主としての響きがあった。
アーシェは、考えるより先に駆け出していた。
父のそばへ寄り、白い布の隙間をのぞいた瞬間、思わず息を呑む。
力なく垂れた腕は、痛々しいほどに痩せていた。骨の形が浮くほど細いその腕に、鞭の痕のような黒ずんだ痣と、縄の鬱血が残り、それらを覆うように、白い古傷が幾重にも重なっている。乱れた髪からは、土埃の匂いと、かすかな鉄の匂いがした。
前髪の隙間からのぞくのは、透きとおるような鮮烈な赤に、銀の筋が混じった髪色。
何より、瞳だった。銀に赤い星屑を散らしたような、息を呑むほど不思議な色。けれどうつろに開いたままのその瞳は、どこも見ておらず、覗き込むアーシェの姿さえ映していなかった。底の知れない冷たいガラス玉のように、ただ静かすぎる虚無がそこにある。
「お父様、この子は……」
「アーシェ」
ヴェルナルドの声は、いつもより低く静かだった。アーシェの視線をそっと遮るように、腕の中の少年を抱き直す。
「今は、何も聞かないでおくれ」
少年は、抵抗ひとつしなかった。身をよじることも、助けを求めて叫ぶこともなく、冷たい人形のように、父の腕の中で無言のまま揺られている。すべてを諦めきったようなその静けさが、かえってアーシェの胸をきゅっと締めつけた。
――どうして、そんなに静かでいられるの。
屋敷の中は、にわかに慌ただしくなった。廊下を行き交う小走りの足音、押し殺した囁き、開け閉めされる扉の音。いつもの穏やかな屋敷とは違う、張り詰めた速さで、すべてが動いていく。
アーシェは、朝露の残る庭の片隅に、ぽつんと立ち尽くしていた。白い布に包まれたまま屋敷の奥へ運ばれていく小さな影が、角を曲がって見えなくなるまで、ずっと見送っていた。
* * *
それから数日、アーシェはあの少年の姿を、屋敷のどこでも見かけなかった。
少年は、本館の隣にある客舎の一室にいるらしい。庭を見回っていたセバルトから、アーシェはそれとなく話を聞かされた。治療を受けていること。ほとんど口を利かないこと。用意された食事にも、わずかしか手をつけないこと。
「エルミラ様が、直々に治療を申し出られました」
セバルトは見回り用の書類を整えながら、独り言のように言った。
「ですが、あの子は頑なに拒まれるのです」
「どうして? お母様は、あんなに優しい治療師なのに」
「……今のあの子には、他人の手も、温かい治療の光さえも、ただの恐怖でしかないのでしょう」
セバルトの眉間の皺は、いつもより深く、痛ましそうに刻まれていた。
アーシェはそれ以上、尋ねなかった。言葉を失い、ただ、あの底の見えない瞳を思い出す。
「お嬢様。あの部屋には、近づかれませんよう」
珍しく、はっきりとした声だった。釘を刺す響きの奥に、家令としての深い案じが滲んでいる。
アーシェは黙って頷いた。頷きながらも、名も知らない少年のことを、考えずにはいられなかった。
夕暮れ。アーシェは風の通るテラスに立ち、静まり返った客舎の方角を、ひとりで見つめていた。
並ぶ窓のひとつに、橙色の明かりが灯っている。人影は見えない。揺れる小さな光だけが、うら寂しい夕闇の中に、ぽつりとあった。
潮の匂いを含んだ冷たい風が、アーシェの深緑の髪をふわりと揺らして過ぎていく。
会ったことも、声を聞いたこともない。それでも目を閉じれば、銀に赤い星の散ったあの瞳が、昨日のことのように鮮やかによみがえる。
――放っておけないわ。
暗くなっていく窓の灯りを見つめるアーシェの胸の奥に、小さな火が灯った。橙色の光は、暮れ残る空の下で、静かに瞬いている。




