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アーシェリルリア ― 月がはぐくむ 蜜の夢 ―  作者: noyu
第二章 ―芽吹く絆―

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第二話 ―ひとくちの甘さ―

 赤と銀の髪の少年が、嵐のように屋敷へと運び込まれてから、一週間が過ぎた。


 芽月のうららかな午後、アーシェは小さな麻袋を胸に抱え、人目を避けて隣の客舎へと向かった。セバルトには内緒だ。見つかれば、あの生真面目な家令の眉間の皺はいつもの三倍も深くなり、「……近づかぬようにと、申し上げました」と静かに言われるに違いない。


 分かっている。それでも、客舎の窓に灯っていた、あの心細い橙色の明かりを思い出すたび、足は勝手にそちらへ向いてしまうのだった。


 麻袋の中身は、ガストンに窯口から出してもらったばかりのクッキーだ。袋越しに、焼き上がりの名残の温もりが掌へ伝わってくる。


 客舎の重い木扉の前で、周りに誰もいないのを確かめ、音を立てないよう内側へ押し開けた。


 中は白を基調にした、簡素で清潔な部屋だった。飾り気のない石壁に、大きな窓から差す芽月の光が、涼しげな水色に揺れている。部屋の隅には、医師が煎じた薬草の、苦くて懐かしい匂いが沈んでいた。


 少年は、その光のなかにいた。窓の傍らの床で膝を抱えてうずくまる、痛々しいほど痩せた背中。窓掛けの隙間から落ちる陽射しが、寄り添うようにそこを照らしている。


 アーシェは戸口で足を止めた。これ以上近づけば、怯えた野の生き物のように、少年が心の殻へ閉じこもってしまう気がしたのだ。


 麻袋の結び目を解く。ざらりとした布の手触りの向こうから、焼き菓子の香ばしい匂いが立ちのぼった。琥珀糖晶ができたお祝いに、フィルと初めて焼いた、陽実入りのクッキー。あまりに美味しかったから、今日はあの子のために、新しく焼いてもらったのだ。淡いきつね色の生地では、練り込んだ琥珀糖晶が星屑のように光を拾って、きらりと瞬いている。


「これ、よかったら……食べてみる?」


 できるだけ穏やかに声を滑らせると、うつむいていた少年が、ゆっくりと顔を上げた。


 その顔を見るのは、これが初めてだった。痩せて骨ばった頬には、まだ癒えきらない傷跡が残っている。乱れた髪は透きとおるような鮮烈な赤で、銀の筋が幾本も走っていた。こちらを見据える銀の瞳には、赤い星のような光が小さく揺れている。


 ――なんて、綺麗な顔。


 けれど、その瞳の奥の光は鋭く尖っていた。人間に酷い目に遭わされた野の獣が、敵か味方かを必死に見定めるときの色だ。


 少年は何も言わない。値踏みするように、小さな少女をただ見つめている。


「いらないかしら」


 アーシェは困ったように笑い、麻袋を床に広げて、少年から十分に離れた場所へクッキーをそっと置いた。


「無理に食べなくてもいいの。ここに置いておくだけね」


 ドレスの裾を整えてしゃがみ込み、冷たい床の上で膝を抱える。距離は、保ったまま。


 しばらく、二人分の小さな呼吸と、窓の外でオリーブの葉がさわさわと潮風にそよぐ音だけが、客舎を満たしていた。


「……名前は」


 長い沈黙のあと、少年の唇がかすかに動いた。ひどく掠れた、低く静かな声だった。


「名前くらい、聞かないのか」


 アーシェは目を丸くした。それから、肩の力がふっと抜ける。声が出たのだ。この子は、ちゃんと話せる。


「お話ししてくれて、ありがとう。話せないのかと思っていたの。無理に聞き出すつもりはなかったのよ」


 少年はまた黙り、床へ視線を落とした。余計な口を利いた、とでも言いたげな、少し悔しそうな横顔。


「私はアーシェリルリア。アーシェって呼んでね」


 返事はない。葉擦れの音だけが、また二人のあいだを埋めていく。


「あなたの名前は、なんていうのかしら」


 少年は床の一点を見つめていた。答えるか、聞き流すか。迷うように睫毛が揺れ、やがて、ぽつりと声が落ちる。


「……エルト」


「エルト」


 短い響きを、口の中でそっと確かめる。


「とてもいい名前ね」


 エルトは答えなかった。かわりに、自分の指先へ目を落とし、乾いた声でこぼした。


「名前を呼ぶ奴なんて、いなかった」


 少しの間を置いて、続ける。


「魔石に魔力を吸われるだけの、道具だった。道具に、名前は要らないだろう」


 冷たく乾いた言葉が、アーシェの胸をずきりと刺した。そんなことはない、と口にするのは簡単だ。けれど、軽い否定は、この子が一人で耐えてきた日々の重さに、あまりにも不躾だった。


 アーシェは言葉を呑み込み、傷だらけの細い指先を見つめてから、床のクッキーへと視線を移した。


「食べてみる?」


 エルトは答えない。それでも、バターのこっくりとした香りと、炒った陽実の香ばしさには、抗いがたかったのだろう。かすかに震える指が、ゆっくりと伸びた。一枚をつまみ上げ、確かめるように鼻先へ寄せ、端をほんの少しだけかじり取る。


 さくり。


 静かな客舎に、小さな音がひとつ落ちた。


 エルトの身体がびくりと強張る。


口のなかで、生地は淡雪のようにほろりとほどけ、澄んだ甘さが広合っていった。濁りのない、真っ直ぐな甘さ。魔力を無理に回復させるために流し込まれた、どろりと苦い薬とも、命をつなぐためだけに与えられた、粘土のように乾いた灰色の保存食とも、何もかもが違う。噛みしめると、陽実がかりりと弾けて、香ばしさが鼻を抜けていった。まだ温もりの残る、人の手が作った焼き菓子の味。


 飲み込んだ喉の奥が、じんと熱くなる。エルトは、欠けたクッキーを見つめたまま、しばらく動かなかった。やがて、吐息のような声が、唇からこぼれる。


「……おいしい」


「でしょう?」


 嬉しくて、アーシェの顔が自然にほころんだ。


「すごく美味しくできたから、エルトにも食べてほしくて。気に入ってもらえてよかった」


 エルトは、まじまじとアーシェの顔を見返した。厚い警戒の奥で、氷が融けるときのような柔らかな光が、かすかに揺れている。


「また、美味しいものを作って持ってくるわね」


 そう言い置いて、アーシェは立ち上がった。


 エルトは何も答えなかった。けれど、遠ざかる背中を見つめたまま、手の中のクッキーを、さっきより少しだけ大きくかじった。


◇ ◇ ◇


 客舎を出て庭の砂利道を戻る途中、ふと気配を感じて振り返る。わずかに開いた窓の隙間から、銀の瞳がこちらを見ていた。


 夕暮れが、庭の木々を穏やかな橙色に染めている。海から吹く風が、オリーブの葉と潮の匂いを運んできた。

 

 指先に残る陽実とバターの甘い香りを、胸いっぱいに吸い込む。


――あの冷たい瞳に、いつか、琥珀糖晶みたいな温かい光が届きますように。


 落ちてくる静寂のなか、アーシェは小さな決意を胸に、ゆっくりと歩き出した。

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