第三話 ―手のひらと、穏やかな変化―
窓の外は、まだ薄水色にけぶっていた。山脈の縁からお日様がわずかに顔を覗かせたばかりの朝で、庭の木々が落とす細長い影が、石畳の小道に長く伸びている。
アーシェは小さな寝台から身を起こすと、シーツにくるまりたい誘惑を振り切り、メイドにいつもより少しだけ急いで身支度を整えてもらった。
――そろそろ、いい頃合いのはずだわ。
昨日の夕方、高地の牧舎から届いた雪乳獣の搾りたての乳を、自分の手で月冷庫へ納めておいたのだ。月冷庫は、冷気を放ち続ける月冷石を敷き詰めた木箱に、分厚い蓋をかぶせた素朴な保冷箱だった。氷のように溶けて水になることもなく、箱の中の空気をただ冷やし続けてくれる。振動の届かない厨房奥の貯蔵庫の隅でひと晩置けば、雪乳獣の乳は、こっくりと濃いアイボリー色の層と、その下のさらりとした乳とに分かれる。少しでも揺らせば、繊細な境目は元の乳に溶けて消えてしまう。触れるときは、息を詰めるくらいでちょうどいい。
足取りは、逸る気持ちの分だけ軽かった。重い木扉をくぐると、料理長のガストンの大柄な背中が、もうそこにある。
「ガストン、おはよう。今日もよろしくね」
「おはようございます、お嬢様」
大鍋を磨いていた手を止めて、ガストンが振り返った。調理台の上には、貯蔵庫から運び出された月冷庫がすでに据えられている。中の乳が揺れぬよう、運ぶ足取りにまで気を配ってくれたのだろう。
無骨な手が、分厚い蓋を持ち上げた。平たい器の表面に、濃厚なアイボリー色の層が浮かんでいる。窓の薄水色の朝光を、とろりと照り返していた。
――できてる……!
アーシェは踏み台に乗り、器の中を覗き込んだ。声音は、一流の職人を前にしたようにどこまでも大真面目だ。
「ガストン、これが、クリームなのね」
「そうです」
「ふふ、分かっていても、言いたくなってしまうの」
ガストンの口の端が、日差しに氷が融けるように、ほんの少し緩んだ。使用人たちでもめったに目にしない、彼なりの小さな笑みだった。浅く平たい木匙を取り、アイボリー色の層を水面を滑らせるようにすくっていく。迷いのない手つきで、すくうたび、艶やかな音を立てて濃厚なクリームが飴色の木鉢へ落ちた。
「少し、できたての味見をしたいのだけど、いいかしら」
「匙でどうぞ」
陶器の小皿に、ほんの少しだけ載せてもらう。小さな匙で口へ運ぶと、クリームは舌の上でこっくりとほどけた。
――甘い。月密根をたくさん食べるようになってから、雪乳獣のミルクは、前よりずっと上品に甘くなったのね。
「んん……」
頬に手を添え、アーシェは目を閉じた。口の中に残る豊かな甘みを、しばらく逃がしたくなかった。
「とても美味しいわ、ガストン。極上のクリームね」
「それは何よりです」
* * *
しばらくして、厨房の入り口からメイドの声がした。
「アーシェお嬢様、エルトさんをお連れいたしました」
メイドに伴われて現れたのは、透き通る赤髪に銀の筋を宿した少年、エルトだった。領主館の厨房は初めてで、物珍しそうに、けれど警戒を解かないまま、あたりへ視線を巡らせている。昨日の夕方、アーシェはセバルトを通じて使いを立てていた。明日、搾りたての乳からクリームが取れるはずなので、それでバターを作る。気が向いたなら、手伝いに来てほしい、と。
「来てくれたのね、エルト」
「……暇だったから」
素っ気ない返事に、アーシェは満足そうにこくりと頷いた。
作業台の上には、いつもパン生地をこねるのに使い込んでいる、飴色に艶めく大きな木鉢がどっしりと置かれている。その中へ、すくい集めたクリームの半分ほどが注がれた。残りの半分は、液のまま月冷庫へ戻される。
ガストンが、オリーブの枝を数本束ねた素朴な混ぜ棒を取り出した。
「これで、混ぜていくのね」
――前世のわたしが使っていた、あの滑らかな機械の唸りや金属の泡立て器とは、まるで違う。けれど、根気よく混ぜ続ければ水分と脂肪が分かれて、淡い黄色の塊になるはず。理屈は分かっているけれど、手作業となると、とんでもない時間と力が要りそうね。
厨房の若い料理人たちも、交代を引き受けようと、エルトの後ろで無言のまま腕をまくっていた。
ガストンが片手で木鉢を押さえ、もう片方の手で混ぜ棒を差し出す。
「ただ混ぜるだけだ。……思ったより、長くなるぞ」
「……分かった」
エルトは受け取った混ぜ棒を、不慣れな手つきで木鉢の底へ沿わせた。円を描くように、ぎこちなく、けれど真剣に手首を動かしていく。
* * *
やがて、最初の変化が訪れた。さらさらと流れていたクリームが空気を抱き込み、白く、もったりとした泡を立て始める。
「わあ……白くて、もこもこしてきたわ!」
「……さっきより、重い」
「しっかり空気が入って、膨らんできた証拠よ。さあ、交代ね!」
ガストン、エルト、若い料理人、そしてアーシェ。順番に呼吸を合わせて、混ぜ棒を渡していく。自分の番が来ると、アーシェは袖をきゅっとまくり、両手で棒を握って、体ごと腕を回した。
――思っていたより、ずっしり腕に響くのね。
見ているのと自分の小さな手でやるのとでは、手応えがまるで違う。体温がじんわり上がり、腕がぷるぷると震え始めた。次の交代が待ち遠しくなった頃、棒を握り直したエルトの手が、ふいに止まった。
「……これ」
エルトが首を傾げる。
「……手応えが、急に軽くなった」
アーシェとガストンが同時に木鉢を覗き込む。なめらかに立っていた泡が崩れ、水気が分かれ始めていた。細かな黄金色の粒が、あちこちでぷつぷつと浮き上がる。
「そこよ、エルト! もう少しで水分が分かれるわ。手を止めないで、そのまま続けて!」
窓から斜めに差す光は、いつの間にか高さを増している。誰も手を休めず、木鉢と向き合う濃い時間が流れていった。エルトも、何度目かの自分の番には、言葉を忘れたように木鉢の底だけを見つめて、手を動かし続けた。腕をさすりながら、アーシェは小さく熱い息を漏らす。
「……思っていたよりも、ずうっと大変な作業なのね」
「言ったはずです」
「ふふ、そうだったかしら」
そんなやり取りをした、その直後だった。エルトが棒を回した瞬間、木鉢の中が一変した。ぼろぼろとしていた粒がひと息にくっつき合い、ふたつに分かれたのだ。愛らしい黄金色の塊と、その周りに漂うさらりとした淡い白濁の液。塊は、陽だまりを閉じ込めたような、やわらかな黄みを帯びていた。
「……できた、のか?」
エルトが手を止め、まじまじと覗き込む。
「バターだわ……! 本当に、出来たての本物のバターだわ!」
嬉しさのあまり踏み台の上で身を乗り出したアーシェの肩を、横から大きな手が支えた。
「危のうございます、お嬢様」
「ごめんなさい。だって、できたのよ、本物のバターが!」
ガストンは頷くと、木鉢から黄金色の塊をすべてすくい上げ、月冷石で冷やした水へ潜らせた。余分な濁りが水の中でほどけ、さらさらと流れ落ちていく。洗われて残った塊だけが、艶やかな黄金色を纏った。
「触ってもいいかしら、ガストン」
「軽くでしたら、どうぞ」
小さな木匙で取り分けられた一片が、陶器の小皿に載って差し出される。アーシェは指先でそっと触れてみた。ひんやりと冷たいのに、指の熱を受けて、脂がじわりと柔らかくなっていく。
「エルトも、触ってみない?」
エルトは一瞬ためらい、促されるままに手を伸ばした。わずかに震える指先で、小皿の塊をつんとつつく。
「……思ったより、柔らかいんだな」
「さっきまで流れるクリームだったなんて、不思議よね」
二人が小皿を覗き込んでいる間に、ガストンは残りの塊を大きな手で押しては返し、冷水で引き締めながら、四角くまとめていった。羊の乳でも幾度となく作ってきた手つきは流れるようで、無駄がない。気づいた二人は顔を寄せ、その手仕事にしばらく見入った。木鉢に残った白い液を小匙ですくって味を見ると、ガストンは短く言った。
「……悪くありません。パン生地に回せます」
「バターミルクね。生地を柔らかくしてくれるの。焼き菓子にも使えるわ」
仕上がったバターを木箱に収め終える頃には、窓の光はすっかり明るくなり、うららかな午前が始まろうとしていた。
アーシェは、震える両腕を軽くさすった。困ったような、それでいて満ち足りた顔だった。
エルトは黙って、赤くなった自分の手のひらを見下ろしている。指の付け根に、小さなマメができかけていた。魔力を吸い上げられるだけの、道具だった手。その手が棒を回し続けて、今、じんじんと熱を持っている。顔つきは、今朝この厨房へ入ってきたときよりも、いくらか角が取れていた。
「……また、手伝う」
ぽつりと落ちた言葉に、アーシェは目を丸くした。
「本当に? また一緒に作ってくれるの、エルト」
「……気が向いたら、な」
ぷいと視線を右へ逸らした耳の先が、わずかに赤い。アーシェは何も言わず、ただ口元をふにゃりと緩めた。
じんじんと熱を持つ腕をさすりながら、思う。
――泡立て器があれば、もっと早く、みんなで楽しくお菓子が作れるのに。
窓から差す光の中で、木鉢に残ったオリーブの混ぜ棒が、まだ濡れて光っていた。




