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アーシェリルリア ― 月がはぐくむ 蜜の夢 ―  作者: noyu
第二章 ―芽吹く絆―

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第四話 ―月明かりのスコーン―

 領主館の厨房の大きな作業台の上には、いつもより少しだけ多くの材料が並べられていた。


 さらさらとした小麦粉に、琥珀糖晶。そして、先日みんなで一所懸命に作った、雪乳獣の芳醇なバターと、ほんのり酸味を帯びた白いバターミルク。どれもが、この島の大地脈と生き物たちが育んでくれた、特別な恵みの結晶たちだった。


 細かな網目のざるを使い、小麦粉とほんのひと摘みの塩を丁寧にふるいにかけるのは、料理長であるガストンの役目だった。大柄で強面の彼が静かに腕を動かすたび、さらさらとした粉が、大きな木鉢の底へと舞い落ちていく。


「わあ……雪みたい。きれいだねえ」


 踏み台の上にちょこんと乗ったフィルが、その光景を丸い目で見つめながら、うっとりとした声を漏らした。


 続いて、冷たくて固いバターを木鉢の粉の上で細かく刻む作業も、ガストンの大きな手が担った。彼の分厚い指先は太く節くれ立っているというのに、生地を扱うときだけは、まるで壊れやすい宝物を撫でるかのように、驚くほど優しく、滑らかに木べらを動かしていく。


「ガストンの手、とっても大きいのに、いつも美味しいものを作っちゃう、不思議な手だね!」


 フィルの素直で純粋な憧れの言葉に、ガストンは何も答えなかった。けれど、その強面の口の端が、ほんの少しだけ嬉しそうに、照れたようにピクリと動いたのを、アーシェは見逃さなかった。


「フィル、ここからは私たちの番よ。冷たいバターの粒を、手のひらの熱で溶かさないように、指先で粉とそっと擦り合わせるの。細かくなるまでね」


「これくらい、かなあ?」


 フィルは真剣な顔つきになり、小さな指先を一生懸命に動かして、小麦粉の中のバターの小さな粒を優しく潰していった。ぽろぽろと、粉の中にバターの粒が溶け込んでいく。


「ええ、とっても上手よ、フィル」


「あのね、姉さま。バターがお粉のなかに、かくれんぼさんしてるの」


 白い粉の中に散らばる、バターの小さな黄色い粒。フィルの愛らしい表現の通り、まるで小さな黄金の妖精たちが粉の中に身を隠しているかのようだった。フィルはそれがすっかり気に入ったようで、自分の手元をじっと眺めながら、嬉しそうに目をきらきらと輝かせていた。


 ◇ ◇ ◇


 ガストンがそこへ冷たいバターミルクをそっと注ぎ入れると、木べらを手にして生地をさっくりと切るようにして手際よく混ぜ合わせていく。粉っぽさが消え、生地がひとつにまとまり始めると、待っていましたと言わんばかりに、フィルが小さな両手をいっぱいに伸ばした。


「ぼくも、まぜまぜしたい!」


「こねすぎてしまうと、焼き上がりが硬くなってしまうの。だから、優しく、包み込むようにね」


 アーシェの言葉に何度も深く頷きながら、フィルは小さな木べらをぎゅっと握り、いっしょに優しくまぜまぜした。そうしてまぜ終わってまとまった生地に、そっと触れる。


「ふわふわ……ううん、もちもち、かなあ?」


「ふふ、きっとその両方ね」


 ◇ ◇ ◇


 そのとき、厨房の入り口近くの影に、静かに佇む人影があった。


 ――昨日、よければ見学にいらっしゃいって、声をかけておいたのよね。


 前日の夕方、客舎のテラスにいた彼に、アーシェがそっと声をかけていたのだ。まだお屋敷の生活に慣れていない少年、エルト。彼はスコーン作りの輪には加わろうとせず、少し離れた柱の陰に立ったまま、気配を消すようにして、じっと視線だけを動かしていた。けれど、その視線の先にあるのは、作業台の上の白い粉や生地ではなく、厨房の奥で赤々と熱を蓄えている、あのずっしりとしたパン窯だった。


 ガストンは、その少年の視線に静かに気づいていたが、作業中は何も言わずにただ手を動かし続けていた。


「エルト」


 ようやくガストンが低い声で呼びかけたのは、生地を成形するために、作業台の上へ移し終えたときだった。


「……見てみるか」


 無骨で、短い一言だった。エルトは驚いたように少し身を強張らせたが、何も言わずに、ゆっくりとパン窯のそばへと近づいてきた。ガストンは、パン窯のずっしりとした側面に自らの分厚い手のひらをかざして見せる。


「じかに触るなよ。まだ火の中にいるようなものだからな」


 エルトは黙って頷くと、パン窯の熱い壁から少し距離を置いた場所に、そっと自分の細い両手をかざした。パン窯の分厚い壁からじんわりと放たれる、柔らかくも力強い余熱が、彼の白く傷だらけの掌へと伝わっていく。エルトは何も言わず、ただその心地よい火の温もりを、世界の確かさを確かめるように、じっと手を動かさずに佇んでいた。


 ◇ ◇ ◇


「仕上げは、上から一回だけ、優しく押すのよ」


 アーシェは踏み台の上から手を伸ばし、自分の手で生地の上面を軽くぽんと押して、平らに整えた。


「横の、ボソボソとしたところは、絶対に触っちゃだめよ」


「さわっちゃだめ……?姉さま、どうしてなの?」


 フィルが不思議そうに小首を傾げた。


「そこが、後で窯の中で大きく膨らんだときにね、オオカミさんがぱっくりとお口を開けて、美味しく焼けたよって笑ってくれる場所になるからよ」


「おおかみさんが、わらう……!」


 フィルの若葉色の瞳が、まるで星が灯ったかのようにきらきらと輝き出した。


「おおかみさんの笑うお口、はやく見たいなあ!」


 オオカミが笑うというおまじないのような言葉に、フィルは素直に頷き、期待に胸を膨らませていた。切り分けられ、天板の上に並べられたスコーンに向かって、フィルは小さな手を合わせ、祈るようにして優しく囁いた。


「おいしくなぁれ。おおかみさん、いってらっしゃーい!」


 * * *


 ガストンが大きな木べらを使い、天板をパン窯の奥へと素早く滑り込ませた。それからしばらくして、パン窯の窯口から、厨房全体へと何とも言えず香ばしい匂いがふわりと広がり始めた。小麦と、バターと、バターミルクが熱で甘く焦げる、たまらなく美味しそうな匂い。


 ガストンが、焼き上がった天板を慎重に取り出した。焼き上がった生地は、美しい淡いきつね色の焼き色を纏い、その真ん中には、アーシェの言った通りに大きな横一線の亀裂が深く入っていた。片側がぱっくりと力強く持ち上がり、立ちのぼる白い湯気と一緒に、甘酸っぱいバターミルクの濃厚な香りが厨房の空気を優しく満たしていく。


「ほんとだ!おおかみさんが、美味しいよってぱっくり笑ってる!」


 フィルがぴょんぴょんと飛び跳ねながら、嬉しそうに両手を叩いた。


「ええ、大成功ね、フィル。これがスコーンの、オオカミの口よ」


 焼き上がりの見事な膨らみを見つめながら、アーシェは嬉しそうに微笑んだ。


 ――でも、もしも生地を膨らませる不思議な粉のようなものがあれば、もっと、雲みたいにふわふわに膨らんでくれるのだけれど。


 いつか、もっとたくさんのお菓子を作れるようになる未来に思いを馳せながら、アーシェは天板を覗き込んでいるフィルの頭を、優しく撫でてあげた。


 * * *


 スコーンの粗熱が取れるのを待って、アーシェはそのぱっくりと開いたオオカミの口を半分に優しく割った。そこへ、あらかじめ月冷庫で冷やしておいた、雪乳獣の濃厚なクリームを、たっぷりと惜しみなくひとすくい乗せる。アイボリー色につやめくとろりとしたクリームが、まだほんのりと温かい断面の上で、ゆっくりと崩れ落ちるようにして染み込んでいく。隙間という隙間を埋めていくその様子は、見ているだけで生唾がごくりと湧いてきそうだった。仕上げに、出来たての琥珀糖晶をさらさらと上からひと振りする。淡い琥珀色の結晶が、白いクリームの上できらきらと光を弾き、まるで朝露を纏った花のように美しく輝いた。


「はい、フィル。まだ少し熱いから、気をつけて食べてね」


 フィルは小さな両手でそっとそれを受け取ると、大きな口を開けて、はふはふと頬張った。


「んんん!あまい!中がしっとりしてて、外側はカリカリさんだよ!」


「オオカミさんのお口の中身は、お気に召したかしら?」


「おいしい!ぼく、これ、おかわりいっぱいしたい!」


 あまりの美味しさに、フィルは鼻の頭に少しだけ白いクリームをくっつけたまま、満面の笑みを浮かべた。アーシェも、自分のために切り分けた小さな一片を口へと運んだ。バターミルクのほのかな酸味と、琥珀糖晶の優しい甘さ、そして雪乳獣のクリームの濃厚なコクが、温かい生地の中でひとつに溶け合っていく。


 ――前世で食べてきた、あのきらびやかなお菓子よりも。今、みんなで一所懸命に作った素朴なスコーンの方が、ちょっとだけ、幸せな味がするかもしれないわね。


「ガストン、とっても美味しいわ。素晴らしい焼き加減よ」


「……何よりでございます、お嬢様」


 ガストンは静かに背を向けて片付けを始めたが、その無骨な肩の力が、ほっと抜けるようにして緩んだのをアーシェは見逃さなかった。


 パン窯の側では、エルトがまだ静かに佇んでいた。彼は自分の手のひらを、じっと、不思議そうな目で見つめたままだった。パン窯から伝わってきた、あのじんわりとした温もり。その温もりが、自分の冷え切った掌の奥に、まだ確かに息づいていることが、彼にとっては信じられないかのように。


「エルト。もしよければ、あなたも出来たてを味見してみない?」


 アーシェが優しく声をかけると、エルトはようやく、銀に赤い星を秘めた瞳をゆっくりと上げた。彼の掌には、さっき触れた火の温もりと、そして、自分の手でも温かいものを感じられるのだという、小さくて静かな驚きが残っているようだった。


 差し出されたスコーンを、エルトは少し躊躇いながらも、細い手でゆっくりと受け取った。ひとくち、おそるおそるかじり取る。その瞬間、彼の銀色の瞳がわずかに、驚いたように見開かれた。けれど彼は、それ以上は何も言わず、ただ手元に残ったスコーンを、今度は大切そうに見つめながら、静かに、ゆっくりと噛み締めていた。


 ◇ ◇ ◇


 その日の夜。ハイセル領主館のムーンルームには、優しく、淡い月光が満ち溢れていた。窓辺の白いレースを透かして差し込む月の光が、床の上に柔らかな模様を静かに描き出している。


「こうしてみんなで揃って、のんびりとお茶をするのは、本当に久しぶりだね」


 ヴェルナルドは長椅子に深く腰を下ろしながら、久しぶりの穏やかな集いを楽しんでいるようだった。


「父さま、来てくれたの!ぼく、とってもうれしい!」


 フィルが、ヴェルナルドの服の袖を、小さな手できゅっと嬉しそうに掴んだ。大好きな父親が、今夜だけはこうしてすぐ傍にいてくれることが、彼にとっては最高の贈り物らしかった。丸い木製のテーブルの上には、お昼に焼いた美味しそうなスコーンと、湯気を優しく立てている、香り高い紅茶が並べられている。


「今日は綺麗な満月ですもの。フィルとアーシェが一生懸命に作ったお菓子を、みんなでいただきましょうね」


 エルミラが、ひとつずつ、素焼きの美しい陶器の皿にスコーンを丁寧に取り分けていく。フィルは、ヴェルナルドの皿の隣に置かれた、形が少し歪んでしまった不格好なスコーンを、小さな指先で誇らしげに指し示した。


「父さまのスコーン、かっこいいでしょ?ぼくが形を作ったんだよ!」


「ああ、本当にそうだな。力強くて、とてもかっこいいスコーンだ」


 ヴェルナルドは、たまらなく愛おしそうに目を細めると、息子の頭をそっと撫でながら深く頷いた。


「母さまのは、優しい形でしょ?」


「ええ、本当に優しい形ね。ありがとう、フィル。お母様、とっても嬉しいわ」


 エルミラはふわりと美しい微笑みを浮かべ、フィルをそっと抱き寄せるようにして、その額に優しい口づけを落とした。


 窓の外では、満月の穏やかな光がハイセルの森を優しく照らし出し、心地よい夜風が、オリーブの木の葉をしゃら、しゃららと、子守唄のように優しく揺らし続けていた。

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