第五話 ―ここにいても、いいのか―
本館から少し離れた、静かで日当たりのよい客舎の一室には、まだ苦い薬草の匂いが微かに残っていた。傷も癒え始め痛みが和らいできた頃、アーシェと出会ってから、しばらく経った日のことだった。
暖炉の火が、静かに、パチパチと小さな音を立てて揺れている。
ヴェルナルドが静かに扉を開けて訪れると、エルトは寝台の端に腰掛け、微動だにせず窓の外を見つめていた。透きとおる赤に細い銀の筋が混ざる髪が、暖炉の炎に照らされて淡く寂しげに光っている。
「具合はどうだ」
声をかけると、エルトは僅かに視線だけをこちらへ巡らせた。言葉はない。けれど、それが彼なりの「聞いている」という精一杯の合図なのだと、ヴェルナルドはすでに知っていた。
ヴェルナルドは物音を立てずに歩み寄り、向かいの古びた椅子に腰を下ろした。二人の間に、しばしの沈黙が流れる。
「今日は、お前に聞きたいことがあって来た」
エルトの視線が、初めてまっすぐに、ヴェルナルドの瞳を射抜いた。銀の虹彩に散る赤い星が、炎の影の中で仄かに揺らめく。
「これからのことだ。お前自身が、どうしたいか――それを聞かせてほしい」
エルトは喉を小さく震わせ、しばらくの間、言葉を拒むように押し黙っていた。やがて、絞り出すようにして低く呟いた。
「……どうしたいも何も」
「聞かせてくれ」
「……自由に、なりたい」
その声には、一切の迷いがなかった。冷たい風のように、ただ剥き出しの意志だけがそこにあった。
「……それも一つだ」
ヴェルナルドは静かにそう返した。責めるでも、引き留めるでもなく、ただその渇望を丸ごと受け止めるような、穏やかで深い響きだった。
「エルト。お前には、選べる道がある。まずは自由に――」
「自由になる」
遮るように、エルトが言葉を被せた。言い切った彼の瞳に、微かだが、縋るような強烈な光が宿る。誰にも縛られたくない、ただその一念だけが、彼の細い身体を支えているかのようだった。
ヴェルナルドはそんな少年の姿をじっと見つめ、それから、どこまでも静かに、しかし冷徹な事実を紡ぎ始めた。
「お前は今、髪も瞳も、隠しようのないほどはっきりと魔力の高さを示している。この島を出て街に一歩でも踏み出せば、それだけで、悪意ある者たちに攫われる理由になる」
エルトの細い肩が、ぴくりと強張った。
「十三歳で、身を守る技もない。生きるための教養もない。自立するための仕事もない。――それで、お前はどうやって生きていく」
言葉が、静かな部屋に、重い雫のようにぽつり、ぽつりと落とされていく。逃れようのない現実が、エルトの胸に深く突き刺さる。
「それに、お前の魔力は荒々しく、歪に育ってしまった。今のままでは、いつか……お前自身にそのつもりがなくとも、誰かの命を奪ってしまうことだって、十分に起こり得るんだ」
エルトは唇を噛み締め、何も答えなかった。ただ、膝の上に置かれた拳が、血の気が失せて白くなるほどに、強く握りしめられていた。かつて裏の組織で冷酷な「道具」として扱われていた頃の、身体に刻まれた記憶が、その拳を硬く凍らせているようだった。
「じゃあ、自由になれないのに、自由を選べるとか言うなよ!」
叫び声が、部屋の空気を震わせた。窓の外を吹き抜ける風の音が、ふっと遠のく。
部屋の中が、耳が痛くなるほどの静寂に包まれる。
ヴェルナルドは、すぐに言葉を返さなかった。怒ることもなく、哀れむこともなく、ただエルトの剥き出しの怒りをまっすぐに受け止め、一度だけ、深く息を吐いた。
「……その通りだ」
静かに、そしてあまりにも誠実に、ヴェルナルドは自分の非を認めた。
エルトが、弾かれたように勢いよく立ち上がる。
「だったら今すぐ出ていく!」
「待ちなさい」
ヴェルナルドの声が、僅かに重みを増した。決して声を荒らげたわけではない。しかし、そこには一歩も引かない辺境伯としての、そして大人としての確かな壁があった。片手を軽く上げ、エルトの焦燥を押し留めるように、静かに促す。
エルトは足を止めたまま、ヴェルナルドを睨みつけていた。細い肩が、怒りと恐れで小さく上下している。
「だからこそだ」
ヴェルナルドは、諭すように言葉を継いだ。
「ここで、魔法を学べ。身を護る術も、行儀作法も、この世界で生き抜くための一般教養も。それらをすべて身につけた上でなら……お前は本当の意味で、自分の意志で、自由を選べるようになる」
「……」
「それでもいつか、ここに残って働きたいと思うなら、それもいい。お前自身が決めて進んでいい道だ。ただ、今のままでは、お前には選ぶための土台すら、何一つないんだ」
エルトはしばらく息を荒らげて立ち尽くしていたが、やがて、張り詰めていた糸が切れたように、ゆっくりと寝台へ座り直した。窓の外から、冷たい風の音だけが、寂しげに響き渡っている。
「……なんで」
「ん?」
「なんで、そこまでする」
エルトは、初めて真正面から、ヴェルナルドの瞳の奥を覗き込んだ。
「俺なんかに、そこまでする理由がない。ただの……魔力の塊なのに」
ヴェルナルドは、少しだけ困ったように、眉を下げて笑った。
「理由、か……」
ヴェルナルドは暖炉の火へ視線を落とし、爆ぜる炎を静かに見つめた。
「全員は……いや、多くを救うことなんて、俺にはできない。それは分かっている」
その声は、ひどく穏やかで、だからこそ嘘がなかった。
「ただ、目の前で出会って、力になれるお前がいて、俺にその力があるなら――そうしたいと思っただけだ」
一拍置いて、ヴェルナルドはエルトを見上げ、少し悪戯っぽく口の端を上げた。
「それに、子供たちに、格好悪い姿は見せられないからな。結局のところ、子供たちに、格好いいと思われたいだけかもしれない」
あまりに軽やかで、おどけたその言葉に、エルトは一瞬、毒気を抜かれたようにぽかんと押し黙った命に関わる真剣な話をしていたはずなのに、最後だけ、肩の力が抜けるように締まらない。けれど、その軽さの底に流れる、どこまでも深く、確かな本気だけは、痛いほどエルトの胸に伝わってきた。
暖炉の炎が、静かに形を変えて爆ぜ、部屋を暖かく包み込んでいく。
――ここにいても、いいのか。
その考えが、ふと、エルトの胸の奥底から泡のように浮かんできた。今まで、行き場のなさばかりを数えて、追われるようにして生きてきた。誰かに望まれてそこに留まる、という選択肢そのものが、彼のこれまでの人生には、存在すらしていなかったのだ。
その新しすぎる温かさを、エルトはまだ、うまく噛み締められずにいた。ただ、膝の上で白くなるほどに握り締めていた拳が、ほんの少しだけ、ほどけていた。




