第六話 ―三人の日常、はじまりの日―
談話室の窓からは、少し傾きかけた、柔らかな午後の陽光が差し込んでいた。それがテーブルの上に敷かれた白い麻布の上に、窓格子の影を静かに描き出している。
アーシェとエルトは、対面した長椅子に腰掛け、これから訪れる特別な客人を待っていた。
やがて、静かなノックの音に続いて、メイドに導かれたセリアが、少し緊張した様子で控えめに姿を見せた。その瞬間、アーシェは弾むようにして椅子から立ち上がった。
「セリア、待っていたの」
その様子を見て、エルトも、つられるようにして慌てて立ち上がる。少しだけ長い手足を持て余すような、不慣れな仕草だった。
セリアは、ふわりと柔らかな微笑みを浮かべ、貴族の令嬢としての綺麗な所作で頭を下げた。
「お招きいただき、ありがとうございます、アーシェ様。エルトさんにご挨拶できるのを、とても楽しみにしていました」
「ええ、紹介するわ。こちらがエルトよ」
アーシェは、隣で少し身を硬くしているエルトへ視線を巡らせた。
「エルト、こちらはセリア。男爵家のお嬢さんで、私のとっても大切な友人なの。それから、セリアは耳が少し聞こえにくいから、お話しするときは、口元が見えるようにしてあげてね」
見慣れない、ミルクティー色の髪を持つ少女の姿に、エルトの銀色の瞳が一瞬、きゅっと鋭く細められた。かつて心を固く閉ざしていた頃の、消し去れない警戒の影だった。
エルトは無意識のうちに、ほんの一歩だけ、アーシェの背中を隠すようにして側に寄った。言葉を発することなく、ただじっと、射抜くような視線でセリアを見つめる。セリアもまた、逃げることなく、その銀に赤い星が散る瞳をまっすぐに見つめ返していた。
二人の間に、張り詰めた、けれど決して冷たくはない、不思議な沈黙が流れる。アーシェは胸の奥で、小さな心臓をどきどきと跳ねさせながら、二人を交互に見比べた。
「……よろしく」
沈黙を破り、先に掠れた声を絞り出したのは、エルトだった。不器用で、ひどくぶっきらぼうな響き。けれど、彼はアーシェに言われた通り、自分の口元をしっかりとセリアのほうへ向け、はっきりと形を作るように動かしていた。
セリアはエルトの唇の動きをじっと見つめ、それから、霧が晴れるようにふわりと表情を綻ばせた。
「よろしくお願いします、エルト様」
「様はいらない」
間髪入れずに返ってきた拒絶のような言葉に、セリアは一瞬だけ丸い目を瞬かせ、すぐに小さく首を傾げた。
「では……エルトさん、ですね」
エルトは僅かに眉根を寄せ、気まずそうに視線を泳がせた。けれど、それ以上、その呼び方を拒むような言葉は返さなかった。その様子を見て、アーシェは胸の奥でほっと温かい息を吐き出した。
――まずは、はじめの一歩ね。よかったわ……。
「さあ、二人とも、どうぞ椅子に。お茶にしましょう」
アーシェは二人に座るよう促し、自分も踏み台を調節して席に着いた。
小さな丸テーブルの上には、陽光を浴びて温まった白い麻布。その上には、素朴なクッキーをたくさん並べた陶製のお皿と、オリーブの木で作られた小さな木鉢、冷たい水が入った水差し、そして丸い木製のカップが三つ、丁寧に並べられている。
お皿からは、香ばしい陽実の匂いが、ふわりと甘く立ちのぼっていた。隣の木鉢には、ガストンが用意してくれた、赤く艶やかな果実蜜が、とろりと美しく満たされている。その縁には、小さな木匙が一本、そっと添えられていた。
「セリア、今日はそんなに畏まらなくていいのよ。いつも通りに、のんびりお話ししましょう」
「微力ながら……セバルトさんには、いつも姿勢を正すようにと教わっておりますので。お見苦しい姿は見せられません」
「ふふ、嬉しいけれど、セリアがそんなに緊張していると、エルトまでどうしていいか分からなくなってしまうもの。だから、ね?」
セリアは少し驚いたように瞬きを繰り返し、それから、自分の肩の力が入っていたことに気づいたように、くすりと小さく笑った。
「……分かりました。それなら、そうさせていただきますね、アーシェ」
「ええ。このお菓子、みんなで食べましょう。まずは果実水を作りましょうか」
アーシェは木匙を手に取ると、あらかじめ冷たい水で満たされた木製のカップの中へ、とろりとした果実蜜をそっと落とした。透明な水の中に、鮮烈な赤い蜜が沈み、ゆらりゆらと美しいマーブル模様を描きながら、ゆっくりと広がっていく。匙で静かにくるりと混ぜると、淡い紅色の美しい果実水ができあがった。
「こうやって、果実蜜を好きなだけ入れて、自分だけの果実水を作るのよ。二人も、自分で作ってみて」
「わあ……きれい。まるで、お花が水の中に溶けていくみたいですね」
セリアが水色の目をきらきらと輝かせ、楽しそうに匙を伸ばした。
けれど、エルトは匙を持とうともせず、ただテーブルの上の美しい光景を、取り残されたような目で見つめていた。どうやって、この匙を使えばいいのか。水をどれくらい注げば正しいのか。道具の使い方も、お茶会の作法も、彼にとっては未知の領域なのだ。その当惑が、少年の細い指先を強張らせていた。
アーシェはその迷いにすぐさま気づいた。ここで教え諭すように指示を出すのは、彼の頑なな心を傷つけてしまうかもしれない。
――こんな時は、おもてなしをする私が、まず楽しそうに食べる姿を見せるのが一番ね。
アーシェは小さな手を伸ばし、お皿の上のクッキーを一枚手に取った。サク、と心地よい音を立てて一口齧り、こくんと喉を鳴らす。
「とても美味しいわ。セリアも、エルトも、どうぞ召し上がって」
そう言って、お皿をエルトのすぐ近くへと、そっと滑らせるようにして寄せた。
エルトはしばらくの間、お皿の上の琥珀色のクッキーを見つめていたが、やがてゆっくりと、その細い指先で一枚を掴み取った。おそるおそる、口元へと運ぶ。
サク、という小さな歯触りのあと、咀嚼していたエルトの動きが、途中でふと完全に止まった。その銀色の瞳が、驚きに大きく見開かれる。
「……この味」
「どうかしたの、エルト?」
エルトは手元の半分残ったクッキーを見つめ、それから、ぽつりと信じられないような声を漏らした。
「――前に、もらったやつと、同じ味がする」
アーシェはぱちぱちと若葉色の瞳を瞬かせ、それから、胸の奥から湧き上がる愛おしさに、くすっと笑った。
「そうなの。気づいてくれたのね。あの時、あなたに届けたのと同じ、私の特別なお菓子よ」
「……そう、か」
エルトはそれだけ呟き、再び視線を手元へと落とした。相変わらず言葉数は少なかったけれど、その横顔からは、凍りついていた何かがじわりと融けていくような、柔らかな温もりが滲み出ていた。
「このクッキーはね、フィルと初めて一緒に焼いて、それから何度も何度も、二人で一所懸命に作ってきた大切な思い出のクッキーなの」
アーシェは、琥珀色に輝くクッキーを見つめながら、静かに、語りかけるように続けた。
「今日は、セリアとエルトと一緒に、これを食べたいと思ったの。二人にとっても、今日という日が、楽しい思い出の始まりになったらいいなと思って」
セリアは、その言葉に、胸を打たれたように瞳を潤ませた。
「そんな、大切なクッキーを、私たちにも、分けてくださるのですね」
アーシェはただ、ふわりと温かい微笑みを浮かべて、優しく頷いた。
セリアの表情が、春の陽だまりのように優しく綻んだ。エルトは何も言わなかった。けれど、その薄い唇の端が、ほんの少しだけ、隠しきれないように緩んでいるのを、アーシェは見逃さなかった。
少しの沈黙の後、エルトもおずおずと木匙を握り、果実蜜をひとさじすくい取った。ぎこちない手つきでカップへと落とし、静かに水を注ぐ。その一連の動作を、アーシェもセリアも、ただ温かい目で見守り、誰もそれを不格好だと笑ったりはしなかった。
「私も、いただいていいですか」
セリアが、嬉しそうにクッキーに手を伸ばした。一口齧ると、そのサクサクとした軽快な食感と香ばしさに、水色の瞳を丸くした。
「……美味しい! なんて、優しくて深みのある甘さでしょう」
「琥珀糖晶という、月密根から作ったお砂糖を使っているの。それから、この上に乗っているのが、陽実という香ばしい木の実よ」
「炒ると、こんなふうに良い匂いになるのですね。お粉と合わさって、すごく美味しいです」
三人は、小さな木皿を囲むようにして、代わる代わるクッキーへと手を伸ばした。セリアが幸せそうに頬を膨らませ、エルトは最初こそ遠慮がちだったものの、二枚目、三枚目と手を伸ばすうちに、その頑なだった肩の力が少しずつ抜けていくのが分かった。
やがて、エルトがぽつりと、自分から言葉を紡ぎ始めた。
「俺は、人と喋るのが……こうやって、口を動かして喋るのが、ずっと苦手だった。あんまり、喋る必要のない暗い場所にいたから」
かすかに自嘲を孕んだ、けれど嘘のない、彼自身の本当の告白だった。セリアはクッキーを咀嚼する手を止め、目を丸くして、エルトの横顔をじっと見つめた。
少しの沈黙が、談話室に降りる。
セリアは、膝の上で自分のドレスの裾を、小さな手できゅっと握りしめた。その白い指先が、微かに震えている。一生懸命に、勇気を振り絞っているのだ。
「あの……エルトさん」
「なんだ」
「もしよければ、なんですけれど」
セリアは恥ずかしさに耐えるようにして、一瞬だけ、ふっと俯いた。白い耳の先が、ぽっと林檎のように赤く染まっている。
エルトはそんなセリアの様子を、無言のままじっと見つめていた。彼のなかに、少女が何かを伝えようと葛藤している気配が、静かに伝わっていく。
セリアは、トントンと自らの胸を叩いて呼吸を整えると、意を決したように、すっと顔を上げた。そして、エルトの口元を逃さないよう、その水色の瞳でまっすぐに見つめ直した。
「ゆっくり……口を、少し大きめに開けて話していただけると。その、私、お耳が少し悪くて……口の形が見えると、すごく、聞き取りやすくて。読み取りやすいのです」
そのまっすぐで一生懸命な眼差しを受け、エルトは一瞬だけ目を丸くした。部屋の中に、暖かな風の音だけが、静かに流れていく。
やがて、エルトは、いつもよりゆっくりと、そして、意識してしっかりと口を開けながら、セリアの目線に合わせてはっきりと呼びかけた。
「――こう、か」
普段のぶっきらぼうで、低く潰れた喋り方とはまるで違う、不器用で、けれど最大限の気遣いが込められた、優しい形をした言葉だった。
セリアの瞳が、弾かれたように喜びに輝く。エルトの大きく動いた口元から、その温かい意思を、彼女の心が確かに受け取ったのだ。
「……はい! とても、とても、わかりやすいです」
小さく、けれど心の底から嬉しそうな声が、談話室に響いた。
「じゃあ……これからは、そうする」
エルトはふいと視線を右へ逸らし、耳の先を、セリアと同じように真っ赤に染めていた。セリアはそんな少年の横顔をじっと見つめ、それから、今までで一番美しい、大輪の花が咲くような笑顔を見せた。
「ありがとう、ございます。エルトさん」
「……礼はいらない」
アーシェは、そんな二人のやり取りを、果実水のカップを両手で持ちながら、お皿の向こう側からそっと見守っていた。
――ふふ。二人とも、とっても素敵な、優しいお友達になれそうね。
西に傾きかけた夕暮れの光が、談話室の窓から差し込み、床の上に三人の影を長く、優しく描き出していた。影は敷かれた柔らかなじゅうたんの上で、お互いに触れ合うようにして、温かく重なり合っている。
お皿に残った最後のクッキーの一片を譲り合いながら、三人の小さな、けれど確かな笑い声が、談話室の隅々へとやわらかく広がっていった。エルトの笑い声を聴いたのは、アーシェにとっても、これが初めてのことだった。少し掠れていて、不慣れで、ぎこちないけれど、どこか心の奥から温まったような、本当に楽しそうな響き。
――この三人で、これから、たくさんの、かけがえのない日々を過ごすのね。きっと、お日様みたいに、温かくていい日々になるわ。
アーシェは、そっと目を細めた。涼やかな夕風が、庭先のオリーブの葉をしゃらり、しゃららと優しく揺らし、通り抜けていく。
楽しげなお茶会のテーブルの上には、焼き菓子の甘く香ばしい匂いが、名残惜しそうに、いつまでもふわふわと漂い続けていた。




