第七話 ―風枝から生まれるもの―
石畳の小道には、今日も白い小花が可憐に咲いていた。曲がりくねった道を、こつん、こつんと靴音を立てながら歩いていく。離れの扉の前に立つと、アーシェは手にしたまぜ棒を、もう一度きゅっと握り直した。
「ベルト、いるかしら」
ノックをすると、返事より先に扉が開いた。
「……お嬢さん」
開けたベルトは、片手に一本の細い枝を握っていた。
――そういえば、初めて会った時も。この人、何かを握っていたわ。あの時は草で、今度は枝。
「手に持っているのは、風枝かしら。笛でも作るのですか?」
「ああ、よくご存じで」
ベルトは眼鏡を鼻の上に押し上げた。
「最近、風枝の研究をしていまして。以前から風の強い日に鳴る仕組みが気になっていましてね。節に裂け目があり、そこを風が通ると微かに鳴る。一本ではさほどでもないが、数本まとまると共鳴して――」
背後で、セバルトが小さく咳払いをした。
「ベルト様。立ち話は玄関先でするようなことではないかと」
「……これは失礼」
ベルトはようやく我に返った様子で、二人を中へ促した。
◇ ◇ ◇
研究棟の中は、相変わらず本と乾燥中の草木でいっぱいだった。踏み場を選びながら奥の作業台まで進むと、ベルトはふと、アーシェの手元に目を留めた。
「お嬢さんも、何を持っているんですか」
アーシェは持っていた混ぜ棒を、くるくるっと軽く回してみせた。
「これ。バターを作る時に使うのだけど……もっと手早く、楽に混ぜることができないかしらと思って」
「くるくる、と」
ベルトはアーシェの手の動きを、じっと目で追った。回転する混ぜ棒の先を捉えたまま、しばらく黙り込む。眼鏡の奥の目が、何かに気づいたように忙しなく瞬いた。
「くるくる……回転……渦……いや、待てよ、風枝の節の裂け目は、確か――」
「ベルト?」
返事はなかった。ぶつぶつと独り言を続けるベルトを、アーシェはしばらく黙って見つめていた。
やがてベルトは、はっとしたように顔を上げた。
「――失礼。少しこちらへ」
連れて行かれた作業台には、水を張った木鉢が置いてあった。ベルトはさっきの風枝を取り、水の中へ入れて軽く回してみせる。
水が、思いのほかしっかりと渦を巻いた。
「見えますか。節の裂け目のところで、小さな渦がいくつも生まれているでしょう。この渦が液体へ空気を巻き込み、混ざり方を変える――そう考えています。以前から研究はしていたのですが、まだ何に使えるかは、決めかねていて」
――これだわ。
「もっと空気を含ませられないかしら、って思っていたの。まさに、これだと思うわ」
アーシェはもう一度、水面の渦を覗き込んだ。指先が、鉢の縁をそっとなぞる。
「混ぜ棒にするなら、これだけでは形が定まりませんね。数本を束ねる工夫や、持ち手の作りなど……職人の手を借りたほうがいいかもしれません」
セバルトが、静かに一歩前へ出た。
「職人となりますと、旦那様のご判断が――」
言いかけて、セバルトはふと言葉を止めた。眉間の皺が、いつもよりわずかに緩む。
「……いえ。この程度のご依頼であれば、私の裁量で進めて構わないかと」
金銭のやり取りや職人への依頼は、以前からセバルトが一任されている。今さら確認するまでもないことに、セバルト自身が気づいたらしかった。
「では、頼めるかしら」
「かしこまりました。職人ギルドの長に話を通しておきましょう」
◇ ◇ ◇
離れを出た帰り道、セバルトから、最近エルトが厨房の手伝いをしているらしいと聞いて、アーシェは厨房へ足を向けた。
中を覗くと、エルトが薪の束を運んでいるところだった。声をかけると、赤みを帯びた銀の瞳が、探るようにこちらを向く。
「エルト、最近お手伝いしてるの?」
エルトは短く頷いただけだった。
「今度、新しい混ぜ棒をお願いしに行くの。バター作りの時、混ぜるのが大変だったでしょう? だから、もっと楽に混ぜられる棒が欲しくて、ギルドへ行くの。よかったら、一緒に行かないかしら」
「……俺も、行くのか」
「一緒に来てほしいの。私も初めてなの。一緒に来てくれたら嬉しいわ」
短い沈黙のあと、エルトはひとつだけ頷いた。
* * *
数日後、アーシェは風枝の枝を手に、セバルトとエルトと共に馬車へ乗り込んだ。
窓の外を、見慣れない通りが流れていく。露店が軒を連ね、荷馬車が行き交い、呼び込みの声があちこちから飛び交っていた。
しばらく走ると、遠くに幾本もの煙突が見えてきた。黒い煙と、白くけぶる煙が代わる代わる立ちのぼり、澄んだ空へと薄く溶けていく。
「あれが、職人ギルドかしら」
馬車の速度が落ちるにつれ、その全容が少しずつ姿を現した。
赤レンガと石造りを組み合わせた、いくつもの建物が渡り廊下で繋がった、巨大な複合建築だった。大きな格子窓が各階に整然と並び、差し込む光を受けて、ガラスが淡く煌めいている。正面には、木材や鉱石を積んだ荷馬車が何台も乗り入れられるほどの、広々とした搬入口があった。
――思っていたより、ずっと大きいのね。
馬車を降りると、鉄を打つ音、木を挽く音、荷を運ぶ人々の声が、幾重にも重なり合って響いてきた。
重厚な木の扉を、セバルトが両手で押し開けた。
中は、人の熱気で満ちていた。木くずの匂いをまとった男たちが台帳を覗き込み、注文にきたらしい商人風の人々が列をなしている。一階では鍛冶や木工の重い音が絶え間なく響き、見上げた階段の先からは、布を裁つ音や革を打つ音が、かすかに漏れ聞こえていた。
入ってすぐの受付台で、セバルトが控えていた女性に声をかけた。
「本日、ギルド長へのお目通りをお願いしていた者です」
「うかがっております。二階へどうぞ」
案内されるまま階段を上がると、突き当たりの部屋の前で、受付の女性が扉を叩いた。
「――どうぞ」
中から低い声が返ってきた。
開かれた扉の向こうに、日に焼けた顔の、がっしりとした体格の男がこちらへ目を向けた。部屋の奥の格子窓から差し込む光が、机の上に広げられた図面を淡く照らしている。
セバルトが先に一歩進み出て、頭を下げる。
「こちらが辺境伯ハイセル家のご息女、アーシェリルリア様です。私は家令を務めております、セバルトと申します。本日はお時間をいただき恐れ入ります」
男は太い眉の下の目をわずかに見開き、すぐに深く頭を下げた。
「これは恐れ入ります。職人ギルドの長を務めております、ロドリックと申します」
「アーシェリルリアよ。よろしくね」
ロドリックは目元をやわらげ、それから手にした資料に一度目を落とした。よく笑うが仕事には厳しい――そう評判の男らしい、几帳面な仕草だった。
「して、本日はどういったご用件で」
アーシェは持ってきた風枝を差し出した。
「この風枝で、新しい混ぜ棒を作ってほしいの」
ロドリックはそれを受け取り、しげしげと眺め回す。
「……風枝ですか」
「軽くて、乾きも早いの。水を弾くから、長く使っても傷みにくいのですって」
「なるほど」
ロドリックが頷くと、セバルトが横から言葉を継いだ。
「バター作りをはじめ、いろいろな物を混ぜる作業が、これで楽になるかと」
ロドリックはしばらく枝を回し、水気のない台の上で試すように振ってみせた。何本かを束ねる仕草をして、ひとりで頷いている。
「持ち手の太さは、私に合わせたものと、大人用と、二種類お願いしたいの。それから……」
アーシェは少し考えるように、指先を軽く合わせた。
「枝の先を、少しだけ内側へ曲げてもらえないかしら。お花の蕾みたいな形に」
ロドリックは枝を見つめる目つきを、ふと変えた。
「……面白いことを言う嬢ちゃんだとは思っていたが」
アーシェはまっすぐにロドリックを見つめ返した。その目に、ふざけた色はひとつもなかった。
「使う人のことを、ちゃんと考えたいの」
「――こいつは、本気の相談だな」
微かな風の音が通り抜けた。ギルドの奥では、規則正しい金槌の音が響いている。
「木工職人に話を通そう。束ね方と持ち手は、あいつらの腕の見せどころだ」
「お願いするわ」
「正式な依頼として、こちらで書き付けておく。完成には少し時間がかかるが、いいものを作らせよう」
そこから先は、セバルトとロドリックの間で、納期や費用についてのやり取りが続いた。
その間、エルトは一言も発さず、少し離れた場所に立っていた。
枝を回すロドリックの手つき、職人たちの相槌、大人たちと対等に言葉を交わすアーシェの横顔。そのひとつひとつを、エルトはじっと見つめていた。
――何かを、確かめるような目だったわ。
工房の奥から、木を削る乾いた音が響いていた。エルトはその音のする方へ、ほんの少しだけ、顔を向けた。
◇ ◇ ◇
完成すれば、お菓子作りの世界がまたひとつ、広がるかもしれない。
そんな予感を胸に抱え、ギルドを後にしようとしたその時、開け放たれた扉の向こうから、木を削ったばかりの、すがすがしい香りがふわりと漂ってきた。
それは、新しい道具の始まりを告げる香りのようだった。




