第八話 ―花響木とメレンゲクッキー―
職人ギルドへお願いした新しい混ぜ棒の試作品は、それから幾度となく、届けられるたびにセバルトが丁寧にアーシェのもとへと運んでくれた。
木箱が開けられるたび、アーシェは中からそれを取り出し、嬉しそうにくるくると回してみせる。その傍らで料理長のガストンが、武骨な手で持ち手を握り、水を張った木鉢の中で試すように大きく振った。
「枝が、もう少し欲しいところですね」
「そうね。数が足りないと、水の中に生まれる渦がどうしても弱くなってしまうもの」
次に届いた試作品は、風枝の数が増えた分だけ、頭のふくらみが丸く、ぽってりとした形になっていた。
「……今度は、少し長すぎるかと」
「ええ、これでは持ち手のところが太くて、少し握りにくいのよ。実際にこうして水の中で振り回してみると、重さが腕に響いてしまうわ」
ガストンが真剣な目つきで木鉢の水面を掻き回す。アーシェも隣の踏み台にちょこんと乗り、同じ水面を覗き込みながら、自分の小さな手のひらの中で水の重さを確かめる。二人して、真面目な顔で水面を睨みつける様子は、傍から見ればずいぶんと奇妙で、微笑ましい光景だったに違いない。
* * *
そして三度目に届いたものは、枝先がわずかに内側へ丸まり、アーシェの小さな手に合わせた細いものと、大人用の太いものとが、きれいに分けて作られていた。
水を張った木鉢に浸し、アーシェが手首をきれいに返す。すると、これまでのどれよりも力強く、美しい渦が水面をすべるようにして生まれた。
「……これだわ!」
ガストンも同じように大人用の棒を振ってみて、しばらくの沈黙のあと、深く、満足そうにひとつだけ頷いた。
「悪くないかと」
口数の少ない料理長にしては、これ以上ない上々の評価だった。
◇ ◇ ◇
完成した新しい混ぜ棒を小さな手で握り、アーシェは愛おしそうに、その姿を何度も眺めていた。
木工職人が何本もの風枝を束ねて、先をきゅっと内側へ曲げて作ってくれたものだ。全体は清潔感のある乳白色の木肌をしているが、ぷっくりと膨らんだ節の周りだけが、まるでぽっと頬を染めたように淡い薄紅色をしている。先端を丸めて束ねられたそれは、本当に、今にも開きそうな可愛らしい桃の花のつぼみが、寄り添い合っているかのように愛らしかった。
軽く振ると、しゃらり、しゃらと、まるで小さな鈴を転がしたような優しい音が響く。
「とっても可愛いわ。……ねえ、この混ぜ棒のことを花響木って呼びましょう?」
「はなゆらぎ、ですか」
ガストンが不思議そうに、その混ぜ棒を見つめた。
「ええ。だってね、これを振ると、お花が風に揺れるみたいに、しゃららと優しい音が響くでしょう? それに、お水の中でくるくる回すと、ゆらり、ゆらりと、綺麗な渦を連れてきてくれるの。お花の揺らぎと、優しい響きを合わせて、花響木。……とっても素敵でしょう?」
アーシェが琥珀色の瞳をきらきらと輝かせて胸を張ると、ガストンは腕を組み、しばらくその美しい言葉の響きを噛み締めるように黙っていた。
「……長くて、少しばかり料理人には呼びにくいかと」
「あら、そうかしら」
「厨房の者たちは……まあ、親しみを込めて花混ぜとでも呼ぶかと存じます」
アーシェは若葉色の目を丸くして、それから、ふにゃりと嬉しそうに笑った。
「ふふ、花響木を花混ぜと呼ぶのも、親しみやすくていいわね。気に入ったわ」
それでも、譲るつもりは全くないらしい。
「でもね、正式なお名前は花響木よ。こんなに可愛いお道具だもの、とびきり可愛いお名前で呼びたいわ」
ガストンはそれ以上、何も言わなかった。お嬢様のこのお菓子に関わる優しいこだわりには、ただ従うのが一番だと、長年、屋敷の厨房を預かってきた料理長としての経験が教えてくれているらしかった。
◇ ◇ ◇
後日。厨房には、いつもより少し賑やかな、温かい空気が満ちていた。
踏み台の上に乗ったフィルは、目の前にこれから広がる不思議なお菓子作りに、若葉色の目をらんらんと輝かせている。エルトは少し離れた場所で、積まれた薪の山をじっと見つめていた。一度炎をくぐった木々が、どんな熱を帯びてどのような色に変わるのか、そのかすかな変化から石窯の熱の巡りを読み取ろうとする、真剣で真っ直ぐな眼差しだった。壁際には、治療師としての優しい微笑みを湛えた母エルミラが、静かにその様子を見守るように立っている。
メレンゲクッキーは、ここにいる誰もが、これまで一度も目にしたことのない不思議なお菓子だった。
「今日はね、メレンゲクッキーというお菓子を作るのよ」
「メレンゲ……?」
フィルが小首を傾げて、アーシェの顔を見上げた。
「卵白を、花響木でたっぷり空の雲みたいに泡立てて作る、とっても軽いお菓子よ。これはね、焼くんじゃなくて、ゆっくりと乾かすの」
「乾かす……お熱で焼かないの、姉さま?」
「そうなの。窯の余熱を使って、ゆっくり、時間をかけて水分を飛ばしていくのよ」
ガストンが窯の火を落としたのは、まだ朝の冷気が残る時間、焼き上がったばかりのふっくらとしたパンを取り出した、まさにその直後のことだった。それから新たな薪をくべることなく、陽がすっかり高く上るまで、じっと長い時間をかけて、熱い石窯の余熱が優しく和らいでいくのを待ち続けていたのだ。
「ガストン、エルトと一緒に、窯の様子を見てもらえるかしら」
アーシェが呼びかけると、ガストンは静かに頷き、どっしりとした石窯の窯口の前に、そっと自らの分厚い手のひらをかざした。それから、隣にいたエルトにも、同じようにするよう促す。
「……こうやって、肌で覚えておけ」
エルトは少し緊張した面持ちで、恐る恐る手を伸ばし、熱い空気が漂う窯口の近くに手のひらをかざした。しばらくそのまま、熱を吸い込むようにして動きを止める。
「まだ熱い。この熱さでは、外側が先に焦げて、中が乾かない。……この肌に伝わる感覚を、覚えておくといい。まだ早い、もう少しだ」
「……はい」
二人のやり取りを少し離れた場所で見守っていたアーシェは、ふっと表情を緩めた。
「冷めるまで、あともう少しみたいね。フィル、お母様、そこの椅子に腰かけて、ゆっくり準備を見守りましょうか」
「うん!」
誰も急かすことなく、ただ静かに石窯が冷めるのを待つ、穏やかで贅沢な時間が厨房の中に流れていった。
◇ ◇ ◇
やがて、窯の熱がこれ以上ない上々の冷め加減になった。
「お待たせいたしました。お嬢様、ちょうどよい熱さでございます」
ガストンの言葉に、アーシェたちは作業台へと近づいた。
新しく生まれた花響木を使い、最初に行うのは、卵白の泡立てだった。二つの大きな木鉢が、作業台の上にきれいに並んだ。
アーシェはフィルと組み、ガストンはエルトと組んで、それぞれ卵白を泡立てていく。花響木を握る手を、小さなフィルへ、手首の返し方を教えながら順番に交代して。
「フィル、力を入れずに、少しずつ、まあるく円を描くように回すのよ」
「こう? まぜまぜ、さらさら……」
「ええ、とっても上手よ、フィル」
フィルの小さな手の中で、小さな花響木がしゃらり、しゃらと心地よい音を立てる。アーシェが手を添えて一緒に手首を優しくしなやかに回していくと、木鉢の底から心地よい音が立ちのぼり、透明だった卵白がみるみるうちに空気を抱き込んで、ふんわりと白い柔らかな泡を含み始めた。
「わあ……! 空の雲みたいに、もこもこしてきた!」
かさが増してきた絶妙な頃合いを見計らい、きめ細かな琥珀糖晶を数回に分けて加えていく。琥珀糖晶を加えるたびに、泡は目に見えてきめ細かくなり、しっとりとした真珠のような艶を増していった。しっかりとした硬い角が立つまで、アーシェは根気よく、優しく手首を返し続けた。
――この感触。この、手のひらに伝わる軽やかさ。前世で使っていた、あの懐かしい金属製の泡立て器に、そっくりだわ……。
前世の記憶の底にある重みと、今この手の中にある白木の軽やかさが、不思議な感覚となって手のひらの中に蘇る。アーシェはしばらく、その不思議な手応えを愛おしむように、木鉢の中の白い泡を見つめ続けていた。
隣で同じように大人用の花響木を振っていたガストンの木鉢からも、すでにしっとりとした見事な泡が立ちのぼっていた。ガストンが手を止め、アーシェの鉢の中身を見て、珍しく驚きに声を漏らした。
「……これは」
そこには、完璧な角が、美しく、しっかりと立ち上がっていた。琥珀糖晶の淡い色をほんのりと溶かし込み、極上の真珠のように艶やかに輝く、琥珀色の豊かなメレンゲだった。
「……これほど早く、見事な泡が立つものなのですか」
「そうでしょう? だって、花響木ですもの」
ガストンは木鉢の中を、何度もまじまじと覗き込んでいた。三十年、屋敷の厨房を預かり、頑なに火と向き合い続けてきた料理長の顔に、子どものような素直な驚きが浮かんでいた。
◇ ◇ ◇
「少し、お菓子に綺麗な色をつけたいの。果実蜜の、上澄みの透き通ったシロップを使うわね」
棚から丁寧に取り出した、赤く艶やかな果実蜜の瓶を、アーシェは窓からの光にかざして見せた。
「ほんの少しだけ落とすとね、ふわりと木苺の香りがして、春を告げるアーモンドの花みたいな、優しい薄桃色になるのよ」
「ほんとだ……! 桃色のお花になったみたい!」
フィルが覗き込んだ木鉢のメレンゲは、赤いシロップを含んで、見るからに愛らしい薄桃色に染まっていった。
「フィルとわたしは、この薄桃色。ガストンとエルトは、そのままの、琥珀糖晶の柔らかい色合いのままで参りましょう」
「では、そのように」
ガストンが静かにそう言って、隣のどっしりとした木鉢を手元へと引き寄せた。
もう一方の木鉢では、ガストンとエルトが、ほとんど言葉を交わすことなく、けれど息の合った様子で作業を進めていた。
「もう少し、肩の力を抜いて回せ。手首で風を呼び込むようにな」
「……こうか」
「ああ。それでいい。手を休めるな」
短い言葉の合間に、木鉢の中の卵白が、琥珀糖晶のかすかな色を溶かし込みながら、うっすらとした美しい琥珀色へと変わっていく。ガストンがふと手を止め、エルトの動かす手元をじっと覗き込んだ。
「悪くない」
それだけの一言だったけれど、エルトの花響木を動かす手が、嬉しさを隠すようにほんの一瞬だけ、ぴくりと止まる。その小さな手元の揺らぎを見て、アーシェはふにゃりと、心の中でそっと微笑んだ。
◇ ◇ ◇
天板の上には、あらかじめ蜜蝋が薄く、丁寧に塗られていた。焼き上がったお菓子が焦げつかず、きれいに外れるようにするための工夫だった。
小さじでメレンゲをひとすくいし、もう一本の小さじを使って、そっと押し出すように天板へと落としていく。アーシェとガストンの手からは、コロンと丸い、貝殻のように美しい形の生地が整然と並んでいった。一方、小さなフィルと不慣れなエルトの生地は、どうしても形が崩れていびつになりがちだった。
「……あ、歪んじゃった」
フィルは、しょんぼりとした顔で、自分の落とした不格好なメレンゲを見つめた。
「大丈夫よ、フィル。どんな形でも、フィルが一所懸命に心を込めて作ったのだから、とっても美味しくて幸せな気持ちになるわ」
エルトも自分の不揃いな尖った生地を見て、少しだけきまずそうに、けれどどこか楽しそうに短く息をついた。
すっかり心地よい温かさまで冷めた石窯へと、ガストンとエルトが、それぞれの天板を大切に、窯口の奥深くへと納めた。
あとは、ただじっと、静かに待つだけだった。
「焼き上がるまでには、ゆっくりと、ずいぶん長い時間がかかるわ。フィル、お母様、焼き上がるまで、お部屋で本でも読みながら待ちましょうか」
「うん! ぼく、お気に入りの絵本をお母様に読んでもらう!」
そうして、長い、静かな時間をかけて、メレンゲクッキーは窯の優しい余熱の中で、じっくりと乾かされていった。
◇ ◇ ◇
「お嬢様、お待たせいたしました。ガストンより、お菓子が焼き上がったと伝言が入っております」
控えめに部屋のドアを叩いたメイドの声に、絵本を開いていた三人は顔を見合わせ、弾むような足取りで再び厨房へと戻った。
窯口の前の作業台には、ガストンが取り出した天板が静かに置かれていた。
そこには、愛らしい薄桃色と、うっすらとした美しい琥珀色の、コロンとまあるい、見たこともないほど愛らしいお菓子が並んでいた。触れると驚くほど軽く、壊れやすいガラス細工のようだった。
アーシェの隣で、エルミラが息を呑むようにしてそっと天板へ歩み寄ってくる。
「まあ……」
その声が、いつもよりわずかに震えていた。治療師として普段は凛とした佇まいの彼女が、目の前の一輪の花のような愛らしい光景に、心から感動しているのが伝わってくる。
「アーシェも、フィルも、なんて素晴らしいものを作ったの……」
フィルは得意げに、弾むような足取りで母のもとへと駆け寄った。
「母さま、ぼくたちが作ったんだよ! 姉さまと、みんなで!」
「ええ、ずっと見ていたわ。本当にきれいね、フィル」
エルミラは少し腰をかがめ、フィルの小さな頭を愛おしそうに撫でた。それから、アーシェへも、誇らしげな、深い愛に満ちた柔らかな眼差しを向けた。言葉にしなくとも、その視線だけで、アーシェには母の想いが痛いほど伝わってきた。
「母さまが、一番に!」
フィルが、大切そうに両手で木皿をエルミラの前へと差し出した。
「あら、私が一番にいただいていいのかしら?」
「うん! 母さまに、一番に!」
エルミラはふわりと微笑み、薄桃色の一粒をそっと指先でつまみ、口へと運んだ。
さくりと、生まれたての乾いた雪を踏みしめたときのような、繊細な歯ざわり。口に入れた瞬間、春先の淡雪のように儚く消えていく。その心地よい一噛みのあと、それは甘い泡の記憶と木苺の甘酸っぱい香りだけを残して、すっと舌の上から消えてしまった。
「……」
エルミラは、驚きにしばらく言葉を失ったように、ただ静かにその余韻を味わっていた。
「……こんなに軽やかで、優しい甘さ、私、生まれて初めていただいたわ。口に入れたはずなのに、まるで最初から風だったみたいに、ふわりと消えてしまうのね」
エルミラのその様子を見て、フィルは嬉しそうに、えっへんと小さな胸を張った。
「次は、姉さまと一緒に食べよう。せーの、でね」
「うん、せーの」
アーシェとフィルは、声を揃えて一粒ずつ口へ運んだ。
さくりと軽い歯ざわりのあと、しゅわっと溶けていく。この儚い、けれど確かな至福の手応え。前世で何度も焼いてきたあのメレンゲと同じ、けれど、この島の地脈が育んだ素材で作ったそれは、どこかずっと優しく、体の中に染み渡るような味がした。
「姉さま、これ、口の中で雲になっちゃった!」
「ふふ、しゅわしゅわの、甘い雲ね」
フィルはそれから何粒も頬張り、頬を薄桃色のクッキーと同じ色に染めて、嬉しそうに目を細めていた。
アーシェは木皿をガストンの前へそっと滑らせた。
「ガストンも、どうぞ食べてみて」
促され、ガストンが大きな指先で一粒をつまみ、口へと運んだ。その瞬間、大柄な彼の表情が、まるで時が止まったかのように完全に固まった。
「……」
「どうかしら、ガストン」
ガストンはすぐには答えず、ただじっと、険しい目で天井の梁を見つめていた。口の中で起きたあまりに未知の現象を、三十年の料理人としての経験と知識のすべてを使って、必死に把握しようとしているかのようだった。
「料理が……口の中で、消えるとは……」
「消えた?」
隣でエルトが、不思議そうに首を傾げた。
「口の中で……何ひとつ、残らずに……。エルト、お前も食べてみろ」
促されたエルトが、琥珀色の一粒をそっとつまんで口に運び――ガストンと全く同じように、その銀色の瞳を見開いたまま、ぴたりと動きを止めた。
「……本当だ。なくなった」
窓の外からは、静かに西へと傾きかけた夕暮れの光が差し込み、厨房のすべてを温かい橙色に染め上げていた。皿を囲む子どもたちと大人たちの、穏やかな笑い声が、厨房の隅々にまでやわらかく満ちていく。
しばらくして、ガストンが首を傾げながら、ぽつりと呟いた。
「……もう一つ、確かめてみても、よろしいでしょうか」
その無骨で、けれど何よりも素直な一言に、アーシェはたまらず、声を立てて楽しそうに笑い声を上げた。
残った大切なメレンゲクッキーは、湿気を吸って溶けてしまわないよう、風白樹で作られた特別な木箱へとそっと収められた。箱の隅には、セバルトが用意してくれた乾風石をひとつ、忘れずに置いておく。分厚い蓋を閉じれば、この箱が、あの儚くも軽やかな魔法のような口どけを、しばらくの間、静かに守り続けてくれるはずだった。
木苺の甘く香ばしい匂いは、陽がすっかり沈んだあとの厨房からも、名残惜しそうに、いつまでも消えずに漂い続けていた。




