第九話 ―小さな手と、大きな守り手―
執務室の重厚な机には、整然と並べられた書類の山に紛れるように、風白樹で作られた小さな箱がひとつ置かれていた。
ヴェルナルドは手にしていた羽根ペンをそっと置き、木箱の蓋を静かに開けた。中には、淡い琥珀色をした丸い小さなメレンゲクッキーが、大切そうに並んでいる。娘が――アーシェとフィルが二人で一所懸命に作ったものだと聞いていた。
一つつまみ、口へ運ぶ。さくりと、表面が繊細で軽やかな音を立てた。次の瞬間、ふわりと淡雪のように、すっと口の中で溶けて消えていく。ヴェルナルドはそっと目を閉じ、舌の上に残る甘い泡の余韻を噛み締めていた。
甘さはどこまでも上品で控えめだ。それなのに、今まで味わったどの菓子とも違う、どこか心が温まるような、不思議で優しい口どけが残る。
「……この菓子は」
誰に聞かせるでもなく、ヴェルナルドはぽつりと呟いた。
静かに目を開け、木箱の中をもう一度見つめる。それから、机の上に広げていた書類を脇へ寄せ、思案するように指先で自らの顎を撫でた。
部屋の隅には、いつものように家令のセバルトが静かに控えている。
「セバルト」
「はい」
「ガストンとロドリック、二人の都合を合わせてくれ。ここへ来てもらいたい」
セバルトのラベンダー色の瞳の奥で、いつもの眉間の皺がわずかに深くなった。
「かしこまりました。……何か、ございましたか」
「アーシェの、これから先のことで話しておきたい」
ヴェルナルドは、少しだけ声を落とした。
「ロドリックへ相談する前に、お前には話の中身をひと通り伝えておく。動いてもらうことも出てくるはずだ。その心づもりで、準備を頼む」
そこで一度、言葉を切る。
「それと――」
声音が、わずかに低く重みを増した。
「アーシェの身に、二度とあの時のメイドのようなことがあってはならない。周りに置く者は、よくよく吟味してくれ」
セバルトの表情が、微かに引き締まった。かつて幼いアーシェの身に起きた、あの苦い出来事。二度と繰り返してはならない悔恨の思いは、今も彼らの胸の奥に深く刻まれている。
「……身に染みて、心得ております」
いつもの生真面目な声だった。けれど、その奥には、命に代えても大切な主の子を守るという、家令としての固い誓いが込められていた。
「かしこまりました。すぐに手配いたします」
* * *
数日後。
執務室には、ガストンとロドリックの姿があった。ヴェルナルドとセバルトを合わせ、四人が顔を揃えている。
机の上には清潔な白い麻布が敷かれ、その上に小さな小皿がいくつか並べられていた。
琥珀色の綺麗な結晶。
赤く艶やかな果実蜜。
薄紅色の節を持つ、乳白色の白木を束ねた道具――花響木。
そして、風白樹の箱に大切に収められたメレンゲクッキー。
ロドリックは、並べられた品々を順に眺めた。領主からの呼び出しにしては、妙な顔ぶれだ。最後に顎髭をさすった。
花響木だけは、ギルドで依頼を受けた経緯を知っている。だが、それ以外は初めて目にするものばかりだった。
「急に呼び立ててすまなかったな、ロドリック」
ヴェルナルドが声をかけると、ロドリックは太い首を横に振った。
「なんの。辺境伯様のお呼びとあらば、いつでも参りますぞ」
ヴェルナルドは深く頷き、琥珀色の結晶が盛られた小皿をそっと差し出した。
「まずは、これを見てもらいたい」
ロドリックは身を屈め、それを真剣な目つきで覗き込んだ。
「……細かな岩塩か何かですかな」
「味を見てみるといい」
促され、ロドリックは指先でひとつまみ取り、舌先にのせた。
次の瞬間、その大きな目を見開いた。
「……甘い! これは……砂糖ですかな!」
「アーシェが作った」
その一言に、ロドリックの太い眉が、これ以上ないほど跳ね上がった。
「お嬢様が……? 信じられません。砂糖といえば、王都でも一握りの貴族しか口にできぬ代物ですぞ」
「私も、初めて味を見た時は、同じ顔をしていたと思う」
ヴェルナルドは、微かに口元を緩めた。
黙って様子を見ていたガストンが、ここでようやく重い口を開く。
「お嬢様は、まだ先を見ておられます」
低く、重みのある声だった。
「その琥珀糖晶にも、まだ僅かに雑味が残っております。……ですが、そこをさらに研ぎ澄まし、味を高めていった先に、いずれ白くするおつもりのようで」
ガストンは、あの日のアーシェの琥珀色の瞳を思い出すように、静かに続けた。
「お嬢様の目を見れば……いつか必ず、成し遂げられるのだろうと思います」
言葉を切り、花響木へちらりと視線をやる。
「あの花混ぜのような道具も……また何か、思いつかれるのでしょうな」
ほんの少しだけ、頑固な口元が緩んだ。
「楽しみでございます」
ヴェルナルドは深く頷いた。
「アーシェが作るものは、これから先も増えていくだろう。今回の琥珀糖晶だけの話ではない。他にも、アーシェ自身が欲しがるもの、必要とするものが、これから幾つも出てくるはずだ」
そこで一度、言葉を切った。
「琥珀糖晶のためには月密根がいる。雪乳獣を育てるための高地もいる。人手も、施設も必要になる」
セバルトが、静かに言葉を挟んだ。
「これほどの品となれば、いずれ噂は立ちましょう。誰が作ったのか、どうやって作ったのか――知りたがる者は、良い者ばかりとは限りません」
眉間の皺が、いつもより深くなる。
「人を使って聞き出そうとする者や、製法を探ろうとする者が現れても、おかしくはございません」
ヴェルナルドは、静かに頷いた。
「その通りだ」
声には、静かな重みがあった。
「――だからこそ、今のうちに、しっかりとした形を作っておきたい」
ロドリックは背筋を伸ばした。
「では、我らギルドに?」
「ロドリック。お前に頼みたい」
ヴェルナルドは、静かに、しかし迷いのない声で告げた。
「この結晶の作り方は、外へは漏らせない。作り手の名も、当面は伏せる。だから――信頼のおける者だけを選び、任せられる者に頼みたい」
ヴェルナルドは、まっすぐにロドリックを見た。
「お前になら、それができると思っている」
ロドリックは、一瞬息を止めた。
ハイセル領一の職人ギルドを束ねる者として、これまで数え切れないほどの依頼を受けてきた。だが、辺境伯自らが、これほどの重みを込めて己を頼ることは、そう多くない。
「……かしこまりました。お任せくだされ」
深く頭を下げる。顔を上げた時には、晴れやかな笑みを浮かべ、誇らしげに胸を張っていた。
「これから先、こうした素晴らしい品が、もっと増えるのでしょうな」
「そうなるだろう」
「ならば――しっかりと覚悟を決めておきます」
ロドリックは太い腕を組み、力強く頷いた。
「しかし、これは大仕事になりそうですな。お声がけいただいたこと、心より感謝いたします。そのご期待には、全力で応えてみせますぞ」
ヴェルナルドは、机の隅に置かれていた木箱を、ロドリックのほうへ滑らせた。
「せっかくだ。これも、味わってみるといい」
蓋を開けると、淡い琥珀色をした小さな焼き菓子が並んでいる。
ロドリックはひとつつまみ、口へ運んだ。
さくりと小さく音がして――
次の瞬間、ふわりと消えるように溶けていった。
「……こいつは」
太い眉が、驚いたように持ち上がる。
「今まで食べたどの菓子とも違いますな。繊細な歯ざわりがあったと思ったら、跡形もない」
「それも、アーシェたちが作ったものだ」
ロドリックは、木箱と皿を交互に見比べた。
それから、小さく感嘆の息を吐く。
「……いやはや、末恐ろしいお嬢様だ」
ヴェルナルドは短く頷き、視線をセバルトへ移した。それだけで、あとは任せるという意図が十分に伝わったらしい。
セバルトがロドリックへ向き直る。
「では、さっそくだが」
生産地の候補。
月密根の増産に必要な人手。
雪乳獣の管理。
さらには、必要となる施設について。
二人の間で細かなやり取りが始まった。
紙を広げ、数字を確かめながら交わされる声には、すでにこの先の忙しさを見越したような響きがあった。
ガストンは、そのやり取りを黙って見守っていた。
やがて、静かに頷く。
――お嬢様なら、きっとまた新しい菓子を生み出される。
そんな確信だけが、その胸にあった。
* * *
やがて、ロドリックとガストンが一礼し、部屋を出ていった。
戸が閉まる音を聞き届けてから、ヴェルナルドはセバルトへ向き直った。
「セバルト」
「はい」
「――アーシェはもちろん、フィルにも目を配ってくれ」
短い言葉だった。けれど、セバルトの表情がわずかに強張った。
「……心得ております」
一礼し、セバルトも部屋を辞していった。
執務室には、ヴェルナルドひとりが残された。
窓の外では、庭木の梢が風にそよいでいる。葉の隙間から零れる木漏れ日が、じゅうたんの上に淡い模様を描いていた。梢のざわめきが、かすかに部屋の中まで届いてくる。
机の上には、まだ木箱に入ったメレンゲクッキーが残っていた。ヴェルナルドはそれを見下ろし、静かに息をつく。
「……アーシェ」
小さく、娘の名を呼んだ。
まだ八つの、小さな身体をした娘。この先、どれほどのものを生み出していくのだろう。想像するだけで、胸の奥が温かくなる。それと同時に、ほんの少しだけ、切なさもあった。
あの小さな手が生み出すものは、きっとこれからも、誰かの欲を引き寄せる。だからこそ、守らなければならないものは、これから先も増えていくのだろう。
ヴェルナルドは、木箱へそっと手を置いた。
――守れるものは、守ってやりたい。
それだけは、迷わなかった。
窓から差し込む木漏れ日を、ヴェルナルドは静かに見つめ続けていた。




