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アーシェリルリア ― 月がはぐくむ 蜜の夢 ―  作者: noyu
第二章 ―芽吹く絆―

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第九話 ―小さな手と、大きな守り手―

 執務室の重厚な机には、整然と並べられた書類の山に紛れるように、風白樹で作られた小さな箱がひとつ置かれていた。


 ヴェルナルドは手にしていた羽根ペンをそっと置き、木箱の蓋を静かに開けた。中には、淡い琥珀色をした丸い小さなメレンゲクッキーが、大切そうに並んでいる。娘が――アーシェとフィルが二人で一所懸命に作ったものだと聞いていた。


 一つつまみ、口へ運ぶ。さくりと、表面が繊細で軽やかな音を立てた。次の瞬間、ふわりと淡雪のように、すっと口の中で溶けて消えていく。ヴェルナルドはそっと目を閉じ、舌の上に残る甘い泡の余韻を噛み締めていた。


 甘さはどこまでも上品で控えめだ。それなのに、今まで味わったどの菓子とも違う、どこか心が温まるような、不思議で優しい口どけが残る。


「……この菓子は」


 誰に聞かせるでもなく、ヴェルナルドはぽつりと呟いた。


 静かに目を開け、木箱の中をもう一度見つめる。それから、机の上に広げていた書類を脇へ寄せ、思案するように指先で自らの顎を撫でた。


 部屋の隅には、いつものように家令のセバルトが静かに控えている。


「セバルト」


「はい」


「ガストンとロドリック、二人の都合を合わせてくれ。ここへ来てもらいたい」


 セバルトのラベンダー色の瞳の奥で、いつもの眉間の皺がわずかに深くなった。


「かしこまりました。……何か、ございましたか」


「アーシェの、これから先のことで話しておきたい」


 ヴェルナルドは、少しだけ声を落とした。


「ロドリックへ相談する前に、お前には話の中身をひと通り伝えておく。動いてもらうことも出てくるはずだ。その心づもりで、準備を頼む」


 そこで一度、言葉を切る。


「それと――」


 声音が、わずかに低く重みを増した。


「アーシェの身に、二度とあの時のメイドのようなことがあってはならない。周りに置く者は、よくよく吟味してくれ」


 セバルトの表情が、微かに引き締まった。かつて幼いアーシェの身に起きた、あの苦い出来事。二度と繰り返してはならない悔恨の思いは、今も彼らの胸の奥に深く刻まれている。


「……身に染みて、心得ております」


 いつもの生真面目な声だった。けれど、その奥には、命に代えても大切な主の子を守るという、家令としての固い誓いが込められていた。


「かしこまりました。すぐに手配いたします」


 * * *


 数日後。


 執務室には、ガストンとロドリックの姿があった。ヴェルナルドとセバルトを合わせ、四人が顔を揃えている。


 机の上には清潔な白い麻布が敷かれ、その上に小さな小皿がいくつか並べられていた。


 琥珀色の綺麗な結晶。


 赤く艶やかな果実蜜。


 薄紅色の節を持つ、乳白色の白木を束ねた道具――花響木。


 そして、風白樹の箱に大切に収められたメレンゲクッキー。


 ロドリックは、並べられた品々を順に眺めた。領主からの呼び出しにしては、妙な顔ぶれだ。最後に顎髭をさすった。


 花響木だけは、ギルドで依頼を受けた経緯を知っている。だが、それ以外は初めて目にするものばかりだった。


「急に呼び立ててすまなかったな、ロドリック」


 ヴェルナルドが声をかけると、ロドリックは太い首を横に振った。


「なんの。辺境伯様のお呼びとあらば、いつでも参りますぞ」


 ヴェルナルドは深く頷き、琥珀色の結晶が盛られた小皿をそっと差し出した。


「まずは、これを見てもらいたい」


 ロドリックは身を屈め、それを真剣な目つきで覗き込んだ。


「……細かな岩塩か何かですかな」


「味を見てみるといい」


 促され、ロドリックは指先でひとつまみ取り、舌先にのせた。


 次の瞬間、その大きな目を見開いた。


「……甘い! これは……砂糖ですかな!」


「アーシェが作った」


 その一言に、ロドリックの太い眉が、これ以上ないほど跳ね上がった。


「お嬢様が……? 信じられません。砂糖といえば、王都でも一握りの貴族しか口にできぬ代物ですぞ」


「私も、初めて味を見た時は、同じ顔をしていたと思う」


 ヴェルナルドは、微かに口元を緩めた。


 黙って様子を見ていたガストンが、ここでようやく重い口を開く。


「お嬢様は、まだ先を見ておられます」


 低く、重みのある声だった。


「その琥珀糖晶にも、まだ僅かに雑味が残っております。……ですが、そこをさらに研ぎ澄まし、味を高めていった先に、いずれ白くするおつもりのようで」


 ガストンは、あの日のアーシェの琥珀色の瞳を思い出すように、静かに続けた。


「お嬢様の目を見れば……いつか必ず、成し遂げられるのだろうと思います」


 言葉を切り、花響木へちらりと視線をやる。


「あの花混ぜのような道具も……また何か、思いつかれるのでしょうな」


 ほんの少しだけ、頑固な口元が緩んだ。


「楽しみでございます」


 ヴェルナルドは深く頷いた。


「アーシェが作るものは、これから先も増えていくだろう。今回の琥珀糖晶だけの話ではない。他にも、アーシェ自身が欲しがるもの、必要とするものが、これから幾つも出てくるはずだ」


 そこで一度、言葉を切った。


「琥珀糖晶のためには月密根がいる。雪乳獣を育てるための高地もいる。人手も、施設も必要になる」


 セバルトが、静かに言葉を挟んだ。


「これほどの品となれば、いずれ噂は立ちましょう。誰が作ったのか、どうやって作ったのか――知りたがる者は、良い者ばかりとは限りません」


 眉間の皺が、いつもより深くなる。


「人を使って聞き出そうとする者や、製法を探ろうとする者が現れても、おかしくはございません」


 ヴェルナルドは、静かに頷いた。


「その通りだ」


 声には、静かな重みがあった。


「――だからこそ、今のうちに、しっかりとした形を作っておきたい」


 ロドリックは背筋を伸ばした。


「では、我らギルドに?」


「ロドリック。お前に頼みたい」


 ヴェルナルドは、静かに、しかし迷いのない声で告げた。


「この結晶の作り方は、外へは漏らせない。作り手の名も、当面は伏せる。だから――信頼のおける者だけを選び、任せられる者に頼みたい」


 ヴェルナルドは、まっすぐにロドリックを見た。


「お前になら、それができると思っている」


 ロドリックは、一瞬息を止めた。


 ハイセル領一の職人ギルドを束ねる者として、これまで数え切れないほどの依頼を受けてきた。だが、辺境伯自らが、これほどの重みを込めて己を頼ることは、そう多くない。


「……かしこまりました。お任せくだされ」


 深く頭を下げる。顔を上げた時には、晴れやかな笑みを浮かべ、誇らしげに胸を張っていた。


「これから先、こうした素晴らしい品が、もっと増えるのでしょうな」


「そうなるだろう」


「ならば――しっかりと覚悟を決めておきます」


 ロドリックは太い腕を組み、力強く頷いた。


「しかし、これは大仕事になりそうですな。お声がけいただいたこと、心より感謝いたします。そのご期待には、全力で応えてみせますぞ」


 ヴェルナルドは、机の隅に置かれていた木箱を、ロドリックのほうへ滑らせた。


「せっかくだ。これも、味わってみるといい」


 蓋を開けると、淡い琥珀色をした小さな焼き菓子が並んでいる。


 ロドリックはひとつつまみ、口へ運んだ。


 さくりと小さく音がして――


 次の瞬間、ふわりと消えるように溶けていった。


「……こいつは」


 太い眉が、驚いたように持ち上がる。


「今まで食べたどの菓子とも違いますな。繊細な歯ざわりがあったと思ったら、跡形もない」


「それも、アーシェたちが作ったものだ」


 ロドリックは、木箱と皿を交互に見比べた。


 それから、小さく感嘆の息を吐く。


「……いやはや、末恐ろしいお嬢様だ」


 ヴェルナルドは短く頷き、視線をセバルトへ移した。それだけで、あとは任せるという意図が十分に伝わったらしい。


 セバルトがロドリックへ向き直る。


「では、さっそくだが」


 生産地の候補。


 月密根の増産に必要な人手。


 雪乳獣の管理。


 さらには、必要となる施設について。


 二人の間で細かなやり取りが始まった。


 紙を広げ、数字を確かめながら交わされる声には、すでにこの先の忙しさを見越したような響きがあった。


 ガストンは、そのやり取りを黙って見守っていた。


 やがて、静かに頷く。


 ――お嬢様なら、きっとまた新しい菓子を生み出される。


 そんな確信だけが、その胸にあった。


 * * *


 やがて、ロドリックとガストンが一礼し、部屋を出ていった。


 戸が閉まる音を聞き届けてから、ヴェルナルドはセバルトへ向き直った。


「セバルト」


「はい」


「――アーシェはもちろん、フィルにも目を配ってくれ」


 短い言葉だった。けれど、セバルトの表情がわずかに強張った。


「……心得ております」


 一礼し、セバルトも部屋を辞していった。


 執務室には、ヴェルナルドひとりが残された。


 窓の外では、庭木の梢が風にそよいでいる。葉の隙間から零れる木漏れ日が、じゅうたんの上に淡い模様を描いていた。梢のざわめきが、かすかに部屋の中まで届いてくる。


 机の上には、まだ木箱に入ったメレンゲクッキーが残っていた。ヴェルナルドはそれを見下ろし、静かに息をつく。


「……アーシェ」


 小さく、娘の名を呼んだ。


 まだ八つの、小さな身体をした娘。この先、どれほどのものを生み出していくのだろう。想像するだけで、胸の奥が温かくなる。それと同時に、ほんの少しだけ、切なさもあった。


 あの小さな手が生み出すものは、きっとこれからも、誰かの欲を引き寄せる。だからこそ、守らなければならないものは、これから先も増えていくのだろう。


 ヴェルナルドは、木箱へそっと手を置いた。


 ――守れるものは、守ってやりたい。


 それだけは、迷わなかった。


 窓から差し込む木漏れ日を、ヴェルナルドは静かに見つめ続けていた。

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