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アーシェリルリア ― 月がはぐくむ 蜜の夢 ―  作者: noyu
第二章 ―芽吹く絆―

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第十話 ―明日へ届く温もり―

 その少年が屋敷に運び込まれたという話を、ガストンは厨房の隅で聞いた。闇の組織に囚われ、長く道具のように扱われていたのだという。詳しい経緯までは、誰も多くを語ろうとはしなかった。


 ガストンは鍋を磨く手を止めなかった。ふうん、とだけ思い、それ以上は何も尋ねない。厨房の外のことは、厨房の外のこと。それが、この料理長の流儀だった。


 ◇ ◇ ◇


 少年が初めて厨房へ現れたのは、アーシェとフィルのスコーン作りに誘われた日のことだった。メイドに連れられて、少年は扉のところで立ち止まった。


 背は高い。だが、痩せている。ガストンが最初に思ったのは、それだけだった。


 少年は作業台へ近づこうとはせず、扉から離れた壁際に立ったまま動かなかった。誰かに促されるでもなく、そこにいるだけで精一杯というようだった。視線だけが、ゆっくりと厨房の中を巡っていく。鍋、木べら、棚に並んだ器。そして最後に、その視線が止まったのは――パン窯だった。


 開いた窯口の奥で、小さな炎が静かに揺れている。少年は、しばらく瞬きもせず、それを見つめていた。


 ガストンは何も言わなかった。ただ、木べらを動かす手を、いつもよりほんの少しだけゆっくりと動かした。


 * * *


 それからというもの、少年はひとりで厨房を訪れるようになった。何をするでもなく、扉のそばに立っているだけの日もある。誰かの邪魔にならないよう壁際に立ち、じっとパン窯を見ているだけの日もあった。幾日か、そんな日が続いた。ある日、ガストンはとうとう声をかけた。


「何がしたいんだ」


「……」


 少年は答えなかった。ただ、視線だけが、かすかに揺れる。


「ただ立っているより、手伝え」


 しばらく間があった。竈の奥で、薪がぱちりと弾ける。


「……わかった」


 短い返事だったが、それでも、確かな返事だった。その日から、少年――エルトは、少しずつ厨房の仕事を手伝うようになった。


 * * *


 薪を運び、床を掃く。他の料理人の邪魔にならないよう、自分にできることを探して動く。多くを語らない子だった。それでも、手を動かす様子を見ていれば、大抵のことは分かった。勘というのは、言葉で教えられるものばかりではない。ガストンは、そう思っていた。エルトの手つきには、教えられずとも覚えていく確かさがあった。


 ◇ ◇ ◇


 花響木を使った、初めてのメレンゲクッキーの日。その日の夜、厨房にはもう誰もいなかった。パン窯の奥に残る熾火(おきび)だけが、暗がりの中でじわりと赤く残っている。片付けを終えたガストンが振り返ると、エルトがまだそこに立っていた。


 何かを言いかけては、口を閉じる。そんな顔だった。


 ガストンは棚に鍋を戻す手を止め、木の腰掛けに腰を下ろした。


「お前は、何がしたいんだ」


「……自由に、なりたいだけだ」


「そうか」


 短いやり取りのあと、熾火が小さく爆ぜた。エルトは、その窯口から漏れる赤い光へ視線を落とした。


「自由になるために……知識を身につけろって、言われた」


 誰に言われたのかは聞かずに、ガストンはただ頷いた。


「何も知らないよりは、知っていたほうがいい」


「……俺にも、できるか」


「何をだ」


「窯の、温度を見ることだ」


 エルトの声は低く、静かだった。ガストンは少しの間、静かに佇む少年の横顔を眺めた。


「なぜ、窯だ」


 エルトはすぐには答えず、膝の上に置いた手が、かすかに拳を作る。


「俺は……何をしたいのか、何になれるのか。世の中のことが、わからない」


「ただ……アーシェが」


「お嬢様だ。そう呼べ」


 ガストンは、静かに遮った。


「でも……アーシェが」


「それでも、お嬢様だ」


 ガストンは深く息を吐いた。夜の静寂のなか、窯口から差し込む熾火の微かな赤が、二人の足元と横顔をほんのりと照らしている。


「お前がこの先、この窯を見る仕事をここでしたいなら――使用人だ。今のうちから、そう呼べ」


「……わかった」


 エルトは素直に頷いた。


「だがな」


 ガストンは、パン窯のほうへ視線を戻した。


「お嬢様も、旦那様も。誰も、下の者を見下すことはなさらない」


 エルトは黙って聞いている。


「皆に、心を尽くしてくださる」


 それから、少し間を置いた。


「それで――お嬢様が、なんだ」


 エルトは答えなかった。やがて、小さく息を吸った。


「アー……お嬢様が」


 声が、わずかにうわずった。


「はじめて……菓子を、くれた」


 膝の上で、拳がきゅっと握られる。


「無理に食えとは、言わなかった」


 そこで一度、言葉が途切れた。


「少し……かじったら……美味かった」


 エルトは俯いた。


「……涙が、出そうになった」


 その頬を、一筋の涙が伝った。本人は、それに気づいていないようだった。


「アーシェの……役に、立ちたい」


 小さな声だった。けれど、今まで聞いたどの言葉よりも、はっきりしていた。


「それが、お前の目指す道か」


 ガストンは、もうアーシェという呼び方を咎めなかった。


「窯は……熱い。危ない仕事だ……」


 エルトの声が、途中で崩れた。唇を噛み、俯く。それでも、止めようとはしなかった。


「……怖いこともある」


 ガストンは、しばらく黙って聞いていたが、やがて静かに言う。


「泣け」


 エルトが顔を上げた。


「我慢するな。泣けるのは、悪いことじゃない」


 大きな手が、エルトの肩をそっと引き寄せた。その瞬間、張りつめていたものが切れた。エルトは声を上げて泣いた。長い間、誰の前でも見せたことのなかった涙だった。ガストンは何も言わず、少年の肩を支えていた。


 * * *


 しばらくして、エルトの嗚咽がようやく収まった。


「落ち着いたか」


 エルトは、小さく頷いた。


 ガストンは、その目を見た。涙に濡れた瞳の奥に、何かがあった。生き延びるためだけではない。初めて、自分から望んだものを見つけた者の目だった。


「エルト……」


 ガストンは、ゆっくりと立ち上がった。


「お前の心が、その想いを忘れないのなら」


 パン窯へ歩み寄り、奥の熾火へ薪を一本、静かに差し入れる。小さな炎が、ふっと柔らかく持ち上がった。


「全部、託してもいい」


 エルトは、そのふっと持ち上がった火を見つめた。さっきまで静かに眠っていたはずの火が、ゆっくりと新しい薪を包み込んでいく。


 パン窯の奥は、いつの間にか温かく穏やかな赤に満ちていた。夜の厨房には、昼間焼き上げた木苺と琥珀糖晶の甘い香りが、まだ名残惜しそうに漂っている。


 エルトは何も言わずにただ、その火をじっと見つめていた。


 その胸に生まれた小さな火は、もう簡単には消えそうになかった。

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