―あの夜、ひとりの少年を―
数年前から、高い魔力を持つ平民の子どもたちが、忽然と姿を消す不穏な事件が続いていた。ハイセル領の騎士隊は、その背景に何らかの不穏な影が動いていると見て、密かに捜査を続けていた。
その日、ヴェルナルドは捜査の進み具合を確かめるため、騎士隊の詰所を訪れていた。ちょうど、地図を広げて手配を確認していた時だった。荒い息を吐きながら、ひとりの騎士が執務室へ駆け込んできた。
「辺境伯様、例の拠点――ひとつ、場所が割れました!」
詰所の緊張感が、一瞬で引き締まる。ヴェルナルドは静かに顔を上げた。
「場所はどこだ」
「北の森の外れです。古びた廃屋を密かに改装したものと思われます」
「ルーヴィ」
ヴェルナルドが呼びかけると、部屋の奥に腰掛けていた大柄な男が、静かに立ち上がった。腰の剣を確かめ、すでに戦闘の構えをとっている。騎士隊隊長、ルーヴィリース・ハイセル。ヴェルナルドの弟であり、この領地の安全を現場で預かる男だった。
「支度は済んでおります、兄上」
「私も行く」
「兄上は――」
「行く」
短く言い切ったヴェルナルドの瞳に、いつもの穏やかな色はなかった。領民を脅かす悪意を前にした、領主としての厳しい光。ルーヴィリースはそれ以上、何も言わずに力強く頷いた。
* * *
馬の蹄が、夜の森の静寂を叩いていた。最初は数頭分だった音が、木々の合間を抜けるうちに、地を這うような重く鋭い響きへと変わっていく。冷たい夜気の中で白い息が闇へ溶け、革の鞍が軋む音が絶え間なく続いていた。
「――速度を落とせ」
ルーヴィリースの低い声が、夜風に乗ってよく通った。その一言で、蹄の音が即座に勢いを殺す。一行は足音を消し、気配を殺した歩みへと変わっていった。敵に気づかれてはならない。その緊張感だけが、森を進む全員の胸を満たしていた。
やがて、深く茂る木立の奥に、ぼんやりと不気味な明かりが滲んでいるのが見えた。
「あれです」
先頭の騎士が、声を潜めて指差し伝える。古びた廃屋の小さな窓から、湿った灯りが漏れていた。
ルーヴィリースが片手を静かに上げた。それだけで、後続の騎士たちが音もなく散り、廃屋を包囲していく。
見張りの者が異変に気づいたのは、包囲がほぼ完了した直後だった。低い怒声とともに、闇の中から複数の影が武器を手に飛び出してくる。
夜の静寂を切り裂いて、冴え返る剣戟の音が澄み渡った。
けれど、勝負はあっけなく決した。錬磨されたハイセル騎士隊の敵ではなく、組織の者たちは間もなく取り押さえられ、廃屋の周囲には再び冷たい静けさが戻っていた。
「突入する」
ルーヴィリースの短く力強い声に、騎士たちが静かに深く頷いた。
* * *
廃屋の中に足を踏み入れると、饐えた埃の匂いと、薬品のような異質な匂いが重く立ち込めていた。最初の部屋の前で、魔力探知を兼ねた探索班の騎士が足を止めた。
「毒霧です。扉の隙間から、薄く漏れ出ています」
「浄化を」
詠唱タクトを手にした騎士が、空中で滑らかに銀の軌跡を描くと、短く白銀光を帯びた魔法陣が一瞬だけ浮かび上がり、漂っていた毒霧がすっと綺麗に消し去られていく。重い扉が開かれた瞬間、部屋の中の空気が、それまでとは違う重苦しさを帯びて流れてきた。
椅子に硬く縛り付けられたまま、幾人もの小さな影が、微動だにせず横たわっていた。
誰も、声を上げることができなかった。ヴェルナルドは、握りしめた手の中で拳を痛いほど硬く結んだ。
「……生存者は」
「――いません」
重く悲痛な沈黙が落ちた。やがてヴェルナルドは、絞り出すような低い声で命じた。
「他の部屋を……すべて調べろ」
* * *
暗い廊下の奥。重厚な鉄の扉で閉ざされた一室の前で、魔力探知を担っていた騎士が息を呑んだ。
「反応があります! それも……これまでとは桁が違う強さです!」
鉄の扉が押し開かれる。その部屋だけが、不気味に異様な光景を呈していた。壁一面にびっしりと怪しげな光を蓄えた魔石が埋め込まれ、部屋の中央には、一人の少年が頑丈な鎖で繋がれている。少年の身体からは、細い魔力の光の筋が絶え間なく吸い上げられ、壁の魔石へと流れていた。
乱れた髪の隙間から、透きとおるような赤に、繊細な銀の筋が幾重にも走る髪が見える。
高魔力保持者。
それも、これまで目にした誰よりも色濃く、その特別な証を全身に纏っていた。
「灯りを」
駆け寄ったヴェルナルドは、冷たい床に倒れ込む少年の傍らにそっと膝をついた。荒く途切れがちな呼吸、乾ききった唇、痩せこけた小さな頬。それでも――確かに、胸がかすかに上下し、息があった。
「……ここに置かれていたのは、魔力を吸い上げ続けるためだったのか」
歪な「道具」として特別視され、別室に隔離されていた。だからこそ、他の子どもたちのように口を封じられずに済んだのかもしれない。そう思い至った瞬間、ヴェルナルドの喉の奥が苦く重く締め付けられた。
「気をしっかり持て」
低く優しく語りかけながら、手早く鎖を外していく。治癒の心得のある騎士が、すぐさまその身体へ温かい光の手をかざした。少年のまぶたが、かすかに震える。
やがて、かすり傷だらけの細い腕が、震えながらゆっくりと持ち上がり、必死に指先で一方向を示した。
「……あっち……」
かすれきった声に、周囲の騎士たちが息を呑んだ。
「子ども……」
「魔力探知、急げ!」
「反応、あります! この指し示した方角の奥です!」
ヴェルナルドは素早く立ち上がった。
「ルーヴィ、この子は私が連れて帰る」
「兄上、護衛を――」
「お前以外に、私の速さについてこられる者がいるか」
ヴェルナルドは少年の痩せた身体を見下ろした。
「護衛はいらん」
それから、ルーヴィリースへまっすぐに向き直る。
「子どもたちは、必ず救え。任せたぞ」
ルーヴィリースは一瞬だけ食い下がるような顔をしたが、兄の瞳に宿る覚悟を見て、それ以上は何も言わなかった。
「布を持ってこい。落ちないよう、私にしっかり巻きつけろ。急げ!」
騎士が差し出した厚手の布を使い、ヴェルナルドは少年を胸元へと抱き寄せるようにして固く括りつけると、馬の背へと跳び乗った。
「急げ、行くぞ!」
ルーヴィリースの怒号のような号令が、夜の森に響いた。騎士たちの馬が一斉にいななき、蹄の音を激しく鳴らしながら、少年の指し示した奥の方角へとなだれ込んでいく。
ヴェルナルドの馬だけが、それとは逆の方角――屋敷を目指し、深い闇の中へと力強く駆け出した。
ふたつの蹄の音が、互いに遠ざかっていく。
一方は、子どもたちを救うため森の奥へ。もう一方は、命を繋ぐため屋敷へ。
少年の冷えた頬に、夜風が激しく当たっていた。
――生きてくれ。
手綱を強く握り締め、馬を駆りながら、ヴェルナルドは胸の中で何度も、何度もそう祈り続けていた。
――これほどの数の子らが、私の治めるこの島で、長く苦しんでいたのだ。気づけなかったのは、私の不手際だ。領民の幼い命を、守り切れなかった。
悔恨と憤りが、腹の底に重く沈む。失われてしまった命は、もう二度と取り戻せない。ならばせめて、この胸の中に抱いた小さな命だけは、絶対に絶やさせはしない。
――だから……生きてくれ!
閉じかけた少年のまぶたの奥で、その銀と赤の瞳は、まだかすかに光の方角を見つめていた。




