第一話 ―海鳴りの日―
その朝、海は恐ろしいほどに静かだった。
波が、いつもよりゆっくりと、重く潮を引いては満ちていく。
空を舞う鴎の声も、潮風のそよぎさえも、いつの間にか掻き消えていた。
朝獲れの濡れた魚を手にした漁師が、ふと手を止めて遥かな水平線を見つめた――そんな異様な気配の話が、昼を待たずして港の潮騒から丘の石畳へ、そして領主館の静けさへと伝わっていった。
ハイセルの島では、この海の静けさが何を意味するか、老いも若きも身にしみて知っていた。数十年に一度訪れる、逃れられぬ厄災の予兆。正確な周期は、誰にもわからない。それでも、この島に生まれた者なら誰もが、言葉を覚える前からの教えとして骨の奥に刻み込んでいる。
海が静まる時、それは来る。
昼を少し過ぎた頃、見張り台の巨鐘が重く鳴り響いた。ゴーン、ゴーン――低く濁った鉄の音が、空気を震わせ、島の隅々にまで染み渡っていく。
一つ、二つ、三つ――一定の間隔で打ち鳴らされるその音は、島の誰もが幼い頃から叩き込まれた命の合図だった。避難訓練は数年に一度、忘れた頃に行われる。だからこそ鐘が鳴り響いても、取り乱した悲鳴も、将棋倒しのような混乱も起きない。人々は手にしていた仕事をそそくさと置き、幼い子どもの小さな手を力強く引き、警備隊の穏やかな誘導に従って、粛々と領主館近くの丘へと向かっていった。
◇ ◇ ◇
厨房の隅で、アーシェは焼き上がったばかりの甘い香りのクッキーを、小さな木箱へ詰め終えたところだった。
ふう、と小さく息をついた、その時。
勝手口の重い扉が開き、セバルトが息を切らせて飛び込んできた。
「お嬢様、フィル様。すぐにムーンルームへ」
いつも静かな眉間の皺が、今日はいっそう深く刻まれていた。
「セバルト、どうしたの? 何かあったの?」
「詳しいお話は後ほど。今は、急いでいただかなくては」
硬く厳しい声だった。アーシェは静かに頷き、焼き菓子の詰まった木箱をしっかりと抱え直すと、隣にいたフィルの小さな手を握りしめた。
「姉さま……こわい」
「大丈夫よ。ムーンルームへ行きましょうね」
柔らかく声をかけながらも、フィルの手を握る自身の指先が、微かに冷たくなっていくのをアーシェは感じていた。
玄関ホールへ出ると、父ヴェルナルドが重厚な甲冑を纏った騎士たちに囲まれていた。その中心でひときわ大きな体躯を誇る叔父のルーヴィリースが、腕を組み、低い声で騎士たちへ最後の指示を言い渡していた。母エルミラは、すでに治療道具の詰まった革鞄をしっかりと肩にかける姿があった。
「父さま」
「アーシェ、フィル」
ヴェルナルドはすぐさま片膝をつき、二人の顔を順にまっすぐ見つめた。その眼差しと声は、いつもと変わらぬ深い温もりに満ちていた。
「母さまと父さまは、少しの間離れるが……夕方には、必ず戻る。だから、良い子でセバルトの言うことを聞いていてくれ」
「はい、父さま」
フィルが小さく頷く。エルミラがそっとフィルの幼い頬に温かい手を触れ、それからアーシェの巻き毛を愛おしそうに撫で下ろした。
「行ってらっしゃい、お母様」
胸の鼓動を押し殺し、精一杯の声でアーシェは送り出した。
母は優しく微笑み、言葉の代わりに深く頷くと、父とルーヴィリースと共に見晴台の方角へ足早に去っていった。
◇ ◇ ◇
ムーンルームの重い扉が静かに閉まると、セバルトはすぐさま窓辺へ歩み寄り、窓を覆っていた厚手の遮光布を一気に引き開けた。
普段は、繊細な魔力の均衡を陽の光が乱さぬよう、窓は固く閉ざされている。その窓をセバルトが開くのを、アーシェは生まれて初めて目にした。
あまりの光の広がり方に、アーシェは思わず息を止めた。
目の前には、どこまでも続く海の青が広がっていた。
けれどそれは、いつもアーシェたちを優しく包む穏やかな青ではない。遥か沖合の海面が、重く鈍色に濁り、不気味にうねりを上げていた。
視線を右の小高くなった丘へ移すと、避難してきた島の人々が、互いに身を寄せ合いながら静かに坂を登っていく姿が見えた。頭上では、警備隊の掲げる旗が強い海風にはためいている。
「セバルト。海に見えるあれは、何なの?」
アーシェは、乱れそうになる声を押さえ、努めて静かに尋ねた。
セバルトは一瞬だけ沈黙し、それから、子供たちの不安を包み込むような落ち着いた声で答えた。
「あれは、この島に数十年に一度現れる、海冥竜と呼ばれる厄災級の幻獣にございます。地の奥深くから地脈の魔力を吸い続け、さらなる魔力を求めて海の底から目覚めるのです。あの脅威が島を越えれば、王国の全土にまで甚大な災いが及ぶと伝えられています」
「災いが、及ぶ……」
「はい。この島を守り抜くことは、代々ハイセル家を預かる者の誇りであり、義務にございます。恐ろしい光景ではございますが、目を逸らさず、しかとご覧になっていてください。それもまた、ハイセル家に生まれた者として知っておくべき、大切な学びにございます」
フィルがアーシェの袖を、ギュッと握りしめた。
「姉さま、海が……へん」
「ええ。そうね」
アーシェはフィルの小さな肩を優しく抱き寄せながら、窓越しに荒れ狂う沖合を見つめ続けた。
――何かが、来る。
* * *
屋敷の目前に広がる見晴台には、すでにハイセル騎士隊が隙なく整列していた。その傍らで、ルーヴィリースが張りつめた声を張り上げ、騎士たちへ最後の指示を言い渡している。中央の台座に据えられた古びた石の魔導柱――島結界の要たる刻印が、静かな青白い光を帯び始めていた。
ヴェルナルドがその前に立ち、両手を力強く装置の上へかざした。
「地の底に流れる優しき力よ。この島を護るため、どうかその輝きを我らの手に――!」
ヴェルナルドの朗々とした声に呼応するように、足元の石畳から淡い光の筋が幾重にも立ちのぼる。周囲の騎士たちも一斉に膝をつき、剣の身を地に伏せて共に魔力を捧げていった。装置の光が、刻一刻と輝きを増していく。
遠く、かすかに――地の底を揺らすような低い重低音。
それが、徐々に、みるみるうちに空気を震わせ、圧倒的な質量となって迫ってくる。
もはや地鳴りというより、海そのものが怒号を上げて唸っているかのようだった。
沖合の海面が破裂するように盛り上がり、巨躯が現れる。艶を消した漆黒の鱗に覆われた、途方もない太古の影。太く長く伸びた尾が幾重にも海を叩いてうねり、背には裂けた膜状の巨大な翼が畳まれたまま不気味に覗いていた。爛々と燃える深紅の双眸。身体がうねるたび、黒鱗の裂け目から青白く禍々しい魔力の光が脈打つように漏れ出していた。
――古き厄災の幻獣、海冥竜。
果てしない年月をかけ、地脈の魔力を貪り続けてきた悪夢の証。
重苦しい圧迫感に、騎士の一人が思わず生唾をごくりと飲み込んだ。
「――来た」
誰かの短い呟きが風に消える。
ヴェルナルドの金と緑の瞳が、静かに凄みを帯びて細められた。
「結界を、上げろ!」
その厳命と同時に、見晴台を中心に展開された淡い光の膜が、島全体を包み込むドームとなって急速に広がっていった。
その直後、伝令の騎馬が丘の転移門へ向かって猛然と駆け出していった。鐘の音とともに、王都への緊急要請はとうに放たれている。
◇ ◇ ◇
丘の広場では、避難した人々が息を殺して空を見上げていた。その中央に鎮座する古びた石の転移門の紋章が、不意に眩いばかりの白光を放ち始める。
大気がびりびりと振動し、光の奔流が門の縁から溢れ出した。
次の瞬間、光の扉を切り裂くようにして、幾つもの影が猛烈な風切り音とともに飛び出してきた。
先頭を切って駆け抜けたのは、息をのむほど深い群青の翼をひろげた幻獣だった。滑らかな鱗と美しい毛皮が溶け合うそのしなやかな体軀は、陽光を浴びるたび、まるで星屑のような細かな光の粉を周囲に振り撒いている。
その背に、一人の騎士がしなやかに乗っていた。
月光を溶かし込んだような澄んだ銀の髪が、風を孕んで長く優美になびいている。一見すると透きとおる銀でありながら、陽の光を反射する角度によって、ごく淡い青藍の色彩がふわりと幻想的に滲む。まるで波ひとつない静寂の夜海に、満月が映り込んでいるかのような神秘的な色合いだった。
「征くぞ――生きて、必ず戻れ!」
低く澄んだ声は、騒然とする丘の隅々にまで静かに、けれど力強く響き渡った。
その一言で、従う騎士たちの顔から迷いが消え、気迫が研ぎ澄まされる。
群青の幻獣とともに、幾つもの堂々たる騎獣たちが、空を蹴って一斉に舞い上がった。
◇ ◇ ◇
「姉さま、見て――光ってる!」
フィルの弾んだ声に促され、アーシェは窓枠へ身を乗り出した。
丘の上空で、美しく陣形を組んだ騎獣たちが大きく弧を描き、高度を整えている。そして疾風となり、群青の翼を優美に羽ばたかせながら、屋敷の真上を旋回するように滑空していった。
その群れを牽引する一際眩い存在――光の粉を撒き散らす群青の幻獣と、その背で風に銀髪を躍らせる騎士の姿が、屋敷の窓のすぐ近くを通り過ぎようとした、まさにその瞬間。
銀髪の騎士が、ふと顔をこちらへ向けた。
ほんの瞬きひとつぶんの間に、窓越しに視線が強く絡み合った気がした。
けれど次の瞬間には、彼は疾風のごとく海の方角へ向き直し、群青の光を纏う幻獣とともに、光の群れの先頭を切って飛び去っていった。
――なんて、綺麗な人。群青の光を纏う生き物も。
アーシェはただ、胸の奥で息を呑んだ。理屈ではなく、あまりに美しかった。
◇ ◇ ◇
海上では、幾筋もの青白い光条が縦横無尽に交錯していた。きぃん、と空気を切り裂く高音の衝撃波が幾度も木霊する。
巨躯の太く巨大な尾が海面を薙ぎ払うたび、舞い降りる騎獣たちは風のようにその軌道を軽やかに躱していく。そこには血の一滴も、悲鳴の欠片すらない。ただ、眩い魔法の光と激しい水しぶきが織りなす、洗練された攻防の舞があった。
群青の幻獣がしなやかに天空を旋回し、銀髪の騎士の手から放たれた鋭い光条が、巨躯の目の前をかすめて牽制する。怯むように大きく身をよじらせた、その一瞬の隙を騎士団は見逃さなかった。
重ね合わされた騎士たちの光の鎖が幾重にも放たれ、その四肢をガッチリと縛り上げていく。動きを封じられた巨躯は、なおも海を揺らして激しく暴れ立てた。
見晴台では、ヴェルナルドの額に大量の汗が滲んでいた。過酷な負荷に、島を覆う結界の光が微かに揺らぐ。
「――まだだ……!」
低く唸り、ヴェルナルドは全魔力を絞り出すようにさらに深く注ぎ込んだ。揺らめいていた光の膜が強度を取り戻し、再び島全体をしっかりと護り固める。
その時――群青の幻獣が、大きな翼を力強く打ち鳴らし、垂直に天空へと急上昇した。
銀髪の騎士が、一振りの剣を高く天へ掲げる。その切っ先に、淡い月光を凝縮したような白銀の光が集まり始める。同時に、幻獣の全身からも呼応するように深い青藍の光が立ちのぼり、ふたつの光は溶け合うようにひとつになっていった。
「――終わりだ」
静寂を突く声とともに、剣が一閃された。
解き放たれた光は、まるで満月の威光をそのまま束ねた太い光柱となって、まっすぐに海面へとなだれ落ちた。
圧倒的な閃光が巨大な影を呑み込む。膨れ上がっていた体躯から、急速に青白い魔力が奪われていく。体内に蓄えていた地脈の魔力を根こそぎ削ぎ落とされた幻獣は、やがて力を失い、静かに海の底へと沈んでいった。
盛り上がっていた海面が波立ち――やがて、滑らかな鏡のように凪いでいく。
静かな波紋だけが、緩やかに広がっていく。
誰かが、固めていた息をふっと吐き出した。それを合図に、丘のあちこちから安堵の歓声が波となって広がっていった。
* * *
日が茜色に傾き始めた頃、エルミラだけが慌ただしく屋敷へと戻ってきた。
いつもの穏やかな歩調ではなく、重い革鞄を抱えたまま、足早に廊下の奥へと向かっていく。アーシェとフィルが声をかける間もなく、その背中は治療室の方向へ消えていった。何かに急き立てられているような、切迫した横顔だった。
「母さま……お疲れみたい」
フィルが、少し不安そうにつぶやいた。
「きっと、たくさんの人を診てきたのね」
アーシェは優しくそう答えながらも、母のあの切迫した様子が、単なる疲労だけではない何かを物語っているような予感を抱いていた。
* * *
それからしばらくして、ヴェルナルドが屋敷へ戻ってきた。
「父さま、おかえりなさい」
「ただいま、二人とも」
深閑とした疲労の滲む声だったが、子供たちに向けられた笑顔はいつもと変わらぬ温もりを湛えていた。
ヴェルナルドの甲冑や衣には、吹き荒れた海風的名残が刻まれ、肩口には乾いた塩が薄く浮き上がっていた。それだけで、父が命を懸けた戦いの最前線から無事に戻ったことが静かに伝わってきた。
セバルトが、張りつめていた息をようやく吐き出すように、深く深く一礼した。
「……ご無事で、何よりでございます」
窓の外では、凪いだ海に夕焼けの茜色が溶け込み、潮の匂いを乗せた穏やかな風が、静かに屋敷の廊下を通り抜けていった。
――あんなに大きくて、綺麗な生き物と眩しい光を纏う人が、本当にいるのね。
アーシェはただそれだけを、誰にも知られぬようそっと胸の奥に閉じ込めた。




