第二話 ―群青の獣と、秘密のお昼寝―
夜明け前、治療室にはまだ灯りが灯っていた。
エルミラは、寝台に横たわるジルヴァンの傍らで、静かに手をかざし続けていた。助手の娘が、水を張った盥をそっと差し替える。部屋の隅では、王立騎士団副団長ボイドリュウが、腕を組んだまま微動だにせず控えていた。
昨夜、屋敷へ運び込まれたジルヴァンの魔力は、ひどく乱れていた。討伐という大仕事を終えたばかりの身には、当然の代償だったのかもしれない。エルミラの手のひらから、淡い光が幾度も注がれ、乱れた流れを少しずつ、少しずつ宥めていく。
窓の外が白みはじめた頃、ようやくその光が落ち着いた寝息へと変わった。
「……魔力の乱れは、治まったようです」
エルミラが小さく息をつくと、ボイドリュウがようやく肩の力を抜いた。
「殿下がこれほどお疲れとは。……いや、当然か。あれほどの相手だ」
「あとは、眠りが薬にございます」
エルミラはそう言って、静かに部屋を後にした。
◇ ◇ ◇
その日の朝、アーシェは厨房の隅で、昨日焼いて木箱へ詰め終えていたクッキーを、改めて愛おしそうに手に取った。
本当なら、昨日のうちにベルトへ届けるはずだった差し入れだ。新しい素材の相談ついでに、味見をしてもらう約束をしていたのに、あの騒ぎで叶わなかった。
――今日こそ、届けなくちゃ。
そっと木箱の蓋を確かめ、肩から下げた小袋――小花の刺繍を施した、お気に入りの布袋へ大切に収める。この袋は、誕生日にフィルが幼い手で一生懸命に手渡してくれた大切な宝物だった。
――昨日は、本当に、すごいものを見たわ。
窓の向こうを横切った、あの群青の翼と、しなやかな銀色の髪。あの一瞬だけ視線が重なった気がした、あの騎士の姿。
――絵画みたいだった。あんなに綺麗な生き物が、本当にこの世界にいるのね。
思い出すだけで、まだ胸の奥がふわりと浮き立つような心地がした。
アーシェは木箱を大切に収めた布袋を抱え直し、研究棟へ続く小道を歩き出した。
昨日の戦いの跡は、思いがけず近くにも残っていた。
小道の脇に立つ大木は、打ち寄せる衝撃波の暴風に耐えかねたのか、大きく裂けた太枝を悲しげに垂らしている。
少し先では、夜通し敷地内の見回りを続けた騎士たちが、疲れを見せることなく周囲へ目を配っていた。
海からの風が、いつもより強く潮の匂いを運んでくる。空は憎らしいくらいによく晴れていて、それが逆に、島全体を包む静けさを際立たせていた。人の声も、鳥の声さえも、今日はどこか控えめだった。
◇ ◇ ◇
小道の脇の茂みが、不意にざわりと揺れた。
振り返る間もなく、何か大きなものが、ゆったりとした足取りで道の側から姿を現した。
深い群青の翼。陽の光を弾くたびに、滑らかな鱗と柔らかな毛皮の境界が、まるで星屑のような光の粒を纏って輝く。澄んだ金色の瞳が、まっすぐアーシェを見下ろしていた。
息が、止まった。
昨日、窓越しに見たあの姿が、今、目の前にいる。
「……綺麗」
思わずこぼれた呟きと共に、小さな手が、自然と前へ伸びていた。届くはずもない距離だったけれど、それでも伸ばさずにはいられなかった。
ヴェラキスは、その届かない小さな手のひらに向かって、そっと大きな鼻先を寄せた。ふす、と温かい息を吐き出す。それから静かに視線を滑らせ、アーシェの肩に下がった布袋の口へ、鼻先を寄せていく。
くん、くん。
念入りに匂いを嗅がれ、アーシェは目を瞬かせた。
――もしかして、この子……お菓子の匂いに気づいているのかしら。
布袋の中身は木箱と、それから――お守り代わりに入れていた、押し花のしおりだった。アーシェは慌てて袋を探り、その小さな花を取り出した。
「これかしら……食べたいの?」
差し出された花に、ヴェラキスは特に興味を示さなかった。ただ、静かにその場へ腰を下ろす。まるで、行儀よく座って見せることが、当然の答えだとでもいうように。
「お、おすわり……?」
驚いて呟くと、アーシェは思わず、もう片方の手をおずおずと差し出してみた。
「お手」
ヴェラキスは、金色の瞳でじっとアーシェを見つめ返すばかりだった。差し出された手に、前脚を乗せる気配は、まるでない。
「……やっぱり無理よね」
小さく笑って、こてん、と首を横に傾げる。
すると、ヴェラキスもまた、同じ角度に首を傾げた。
「こてんっ」
思わず声に出して、今度は逆方向へ首を倒す。ヴェラキスも、つられるようにそちらへ首を倒した。
二度、三度。こてん、こてん、と互いに小首を傾げ合う様子は、傍から見ればなんとも奇妙な光景だったろう。けれど今この道には、二人しかいない。
「うふふ……なんだか、可愛いのね」
アーシェは、布袋に大切に収めていた木箱のことをようやく思い出した。道の脇へと移動し、草の上にちょこんと腰を下ろす。
ヴェラキスも、大きな体をゆったりと運んで、その傍らに寄り添うように腰を落ち着けた。
木箱の蓋を開ける。
「ご褒美、あげなくっちゃ」
クッキーを一枚取り出し、手のひらに乗せて差し出す。ヴェラキスは、しばし匂いを確かめるように鼻先を寄せてから、そっとそれを口に含んだ。
さくっ、と小さな音。
金色の瞳が、わずかに見開かれた。
それから、まるでお礼を言うように、大きな舌が、ぺろりとアーシェの頬を舐めた。
「ひゃっ……」
思いがけない感触に、アーシェは声を上げてから、くすくすと笑った。
――くすぐったい。でも、嫌じゃない。
おそるおそる伸ばした手が、今度はちゃんと届いた。つるりと滑らかな鱗は温かな日差しを吸い込んでいて、毛皮の部分はふんわりと柔らかく、指の間を心地よくすり抜けていく。
「……すごい。両方さわれるなんて、とっても贅沢だわ」
ヴェラキスの身体から伝わる体温は、まるで春の日だまりの中に抱かれているように暖かかった。
しばらくの間、アーシェはただ、その手触りに夢中になっていた。潮の匂いを含んだ風が、二人の間をそっと通り抜けていく。
* * *
いつの間にか、日が高くなっていた。
アーシェは、ヴェラキスの温かい体軀に寄りかかるようにして、いつしか眠りに落ちていた。ヴェラキスはそんな彼女を、大きな体でそっと囲うように、そのままじっと動かずにいた。
◇ ◇ ◇
「――ヴェラキス」
静かな声が、道の向こうから聞こえた。
髪を後ろで束ねた銀髪の騎士――ジルヴァンが、ゆっくりと歩み寄ってくる。
見慣れない光景に、思わず足が止まった。
声も出ないほどだった。
自分以外の誰にも懐かないはずの幻獣が、その腹の傍らに、見知らぬ幼い少女を囲うように寝かせている。木漏れ日の中、緩やかに波打つ長い髪が零れ落ち、深いオリーブの緑を、暖かく輝かせていた。少女は、安らかな寝息を立てていた。
ヴェラキスは、ジルヴァンのほうへちらりと視線を向けただけで、身じろぎひとつしない。
ジルヴァンとヴェラキスの間だけに通じる念話が、囁くように届いた。
『……静かに』
ジルヴァンは、それ以上何も言わず、ただその場に立ち尽くした。長年連れ添った幻獣が、これほどまで穏やかに、誰かを包み込むように眠らせている。そんな姿は、一度も見たことがなかった。
少しして、道の向こうから、慌たただしい足音が聞こえてきた。
「お嬢様――!」
セバルトだった。眉間の皺を、いつもよりずっと深くして駆けてくる。木箱を抱えたまま姿を消した幼い主を、あちこち探し回っていたのだろう。
その足が、ヴェラキスの傍らで眠るアーシェの姿を見て、ぴたりと止まった。それから、その傍らに立つ人物の静かな佇まいに気づき、はっと姿勢を正す。
「王弟殿下……! これは、大変な失礼を」
深々と一礼してから、改めて声を落とす。
「これは……」
「……眠っている」
ジルヴァンは短くそう告げると、静かに膝をつき、そっと腕を差し入れて、アーシェの小さな体を抱き上げた。壊れ物を扱うような、慎重な手つきだった。
セバルトが両手を差し出すと、ジルヴァンはゆっくりとその腕へ、アーシェを預けた。
その瞬間、アーシェの瞼が、かすかに開いた。
「……ん……」
まだ夢の中にいるような、ぼんやりとした心地の眼差しだった。腕の中に握りしめていた木箱を、寝ぼけたまま、すぐ傍に立つジルヴァンへ、ふらりと差し出す。
「……どうぞ……」
寝ぼけた可憐な囁き声。
ジルヴァンは一瞬だけ戸惑うように視線を落としたが、やがてその差し出された木箱を、そっと大きな手で受け取った。
アーシェはそれだけで心から満足したように、ふにゃりと愛らしい笑みを浮かべると、セバルトの腕の中で再び深い眠りへと落ちていった。
◇ ◇ ◇
――ところ変わって、茜色の夕暮れが迫る王都、騎士団本部の執務室。
窓の外が深い橙色に染まり、机の上には、片付けきれなかった大量の書類が積み上がっていた。長い一日だった。討伐の後始末、王への報告、部下たちへの労い――そのどれもを終えた今になって、ようやく肩の力が抜けていくのを感じる。
ジルヴァンは、椅子に深くもたれかかったまま、机の隅に置いていた小さな木箱へ、ようやく目を向けた。
あの日だまりの中で、夢見心地の瞳をした幼い少女が差し出してきた「……どうぞ」という小さな声。そして、決して心を開かないはずのヴェラキスが、まるで愛おしい宝物を守るように少女を抱いて眠っていた奇跡のような光景。
ジルヴァンはゆっくりと木箱を手元へ引き寄せ、そっと蓋を開けた。
中に残されていたのは、たった一枚の小さなクッキー。
素朴で温かみのある焼き菓子。きっと誰かを笑顔にするために丁寧に焼かれたものが、めぐりめぐって最後の一枚となり、こうして自分の手元へ届いたのだと思うと、胸の奥にじんわりと不思議な温もりが広がっていく。
窓の外を、静かな夕暮れの風が通り抜けていく。
ジルヴァンはしばらくの間、その可憐な一粒を優しく見つめ――そっと、長い指先を伸ばした。




