第三話 ―森と、星花の香り―
屋敷の庭を抜けると、陽光を浴びた石畳の小道がゆるやかに続いていた。
手入れの行き届いた花壇の間を縫うように伸びる道は、若葉の萌える木立の向こう、静かにたたずむ離れの研究棟へとつながっている。
こつん、こつん。
小さな靴底が石畳を踏みしめるたび、軽やかで小気味よい音が、朝の澄んだ空気に溶けていく。
小花の刺繍を施した布袋を肩からかけ、アーシェは研究棟を目指して歩いていた。袋の中には、小さな木箱に詰めたクッキーが入っている。あの大騒ぎのせいで渡しそびれてしまっていたベルトへ、今朝新しく焼き直して準備したものだった。
朝の光が木々を抜け、足元の小道にやわらかな木漏れ日のまだら模様を描いている。葉の隙間をくぐり抜けてきた爽やかな風が、アーシェの頬をやさしくなでて去っていった。枝先からは、小さな鳥たちの愛らしいさえずりが、あちらこちらから賑やかに響いている。
研究棟の脇まで辿り着くと、丸眼鏡をかけた小柄な人物が、地面に屈み込んで熱心に下草の葉を観察していた。
「ベルト」
声をかけると、屈んでいたベルトがはっと顔を上げ、細い指先で眼鏡の位置をすっと直した。
「ああ、お嬢様。今日は一段と朝露が少ないのですよ。これくらい乾いていると、葉の繊維や葉脈がじつによく見えて――あっ」
いつものように観察事実から滔々と話し始め、ようやく目の前に立つアーシェの姿に気づいたベルトの表情に、アーシェは思わずくすくすと微笑んでしまった。ベルトの言葉は、いつだって純粋な観察と探求から始まる。
「これ、ずっと渡しそびれていたものなの」
◇ ◇ ◇
肩から下げた布袋から小さな木箱を取り出し、まっすぐ差し出す。ベルトは目を丸くし、眼鏡の奥の瞳を瞬かせた。
「これは……先日おっしゃっていた」
「ええ、クッキーよ。約束していたでしょう?」
tベルトはどこか恭しく木箱の蓋を開け、素朴な焼き色のクッキーをひとつ摘み上げた。新種の鉱石でも調べるかのようにあらゆる角度からじっくり観察してから、そっと口に運んだ。
次の瞬間、ベルトの丸い目が見開かれた。
「――サクッと……いや、噛んだ端からほろりとやさしく崩れていく。それでいて、この粒々とした心地よい歯触りは」
「陽実を細かく刻んで入れてみたの。あらかじめ軽く炒ってから加えると、香ばしさがぐっと引き立つでしょう?」
「なるほど、これがカリッと香ばしい。生地そのものはほろほろと口どけが良いのに、この粒だけは芯のある心地よい食感として残っている――対照的な性質を、あえて計算して組み合わされたわけですね」
「そうなの。飽きずに、最後までいくつでも美味しく食べられるようにと思って」
ベルトは感心したように深く頷きながら、もうひとつ手にとって愛おしそうに口へ運んだ。
「これは素晴らしい工夫です。素朴な装いでありながら、これほど繊細に食感が設計されているとは」
その真摯な反応と感嘆に、アーシェの胸の奥がふわりと温かい光で満たされていった。
◇ ◇ ◇
「今日はね、ベルトに少し聞きたいことがあるの」
「なんでしょう。私にわかることでしたら、何なりと」
「甘い香りのする植物を探しているの。お砂糖と一緒に焼き菓子に使うと、うっとりするような良い香りがするもの」
ベルトは細い顎に手を当て、しばらく思索の海に沈むように視線を泳がせた。
「甘い香り……そうですね、星花という植物があります。ただ、湿地にしか咲きません。屋敷の近くにはなく、領内でも群生している場所はごく僅かです」
「星花……ぜひ、その花を見てみたいわ」
「それでしたら、セバルトさんと予定を合わせましょう。ですが、花は甘い香りがしますが、そのまま口にすると強い苦味があり、誰も食べようとはしませんよ」
「苦くても構わないわ。私が知りたいのは、その香りの性質なの」
風が頬をやわらかく撫で、アーシェは胸の奥に芽生えた期待をそっと抱きしめた。
――前世のバニラだって、そのまま口にすれば苦かったもの。
◇ ◇ ◇
「ベルト、実はもうひとつ聞きたいことがあるの」
「なんでしょう」
「絹糸みたいに綺麗で艶があって、でももっと張りがあって丈夫な繊維が採れる植物はないかしら」
ベルトは再び眼鏡の位置を指先で整えながら、少し考える仕草を見せた。
木々の隙間から差し込む温かな陽だまりの中で、小さな綿毛がひとつ、春の風に乗ってのんびりと舞い上がっていく。
「絹に似ていて、張りがある……ああ、それでしたら」
ベルトは足元に生い茂る下草をそっとかき分け、水辺に近い湿った一角を指し示した。
「『絹ハリ草』ですね。あの水辺に生えている、葦によく似た草です」
「葦……?」
ゆらりゆららと風が、背の高い草を優しくなびかせていた。
「見た目こそ普通の葦とほとんど変わりませんが、茎を割ってみると中に、驚くほどまっすぐな芯が一本通っているのです。それを細く裂くと、まるで絹糸のように美しく艶やかで……ですがあまりにピンと張りが強すぎて、糸として撚ることも、布に編み込むこともできません」
「使い道がないってことかしら?」
「いえ、それが面白いところでしてね。羊毛を毛糸にするとき、梳くための毛すきブラシに使われているのです。あの芯の部分を並べて板二枚で挟み込むだけで、優れものの櫛になるのですよ。張りが強くすべすべしているからこそ、毛の間をすっと通っていく」
ベルトはそう言いながら、両手で板を挟み込む仕草をしてみせた。
「弱すぎても、しなり過ぎても駄目なのです。あの張りの強さでなければなりません」
アーシェは水辺の草を見つめた。地味な見た目からは想像もつかない性質だった。
「その絹ハリ草は、たくさん採れるものなの?」
「ええ、川べりや池のほとりならどこにでも。手に入れるのは難しくありませんよ」
「よかった……!」
アーシェはほっと胸をなでおろし、小さく頷いた。
――張りが強くて、糸みたいに細くきれいに並べられる。これなら、きっと……!
頭の中に、まだ形にならない道具の輪郭が、ぼんやりと浮かびはじめていた。
「ありがとう、ベルト。おかげで、やってみたいことの形が見えてきたわ」
「それは何よりです。……ときに、その用途とは一体どのような?」
「ふふ、まだ秘密よ」
アーシェはいたずらっぽく笑って、ベルトの問いをふわりとはぐらかした。
「星花の採取日を、セバルトと相談してほしいの」
「わかりました。星降りの夜の次の日がいいでしょう。その時に、なぜその日なのかも説明いたします」
――星降りの夜。実月の一夜、天頂を無数の流星が静かに横切る、あの幻想的な夜のことね。その夜が過ぎると、島には一気に実りの気配が深まると言われているわ。
爽やかなそよ風が二人のあいだを吹き抜け、足元の青草がさわさわと心地よい音を響かせていた。
◇ ◇ ◇
研究棟をあとにし、屋敷へ戻ったアーシェは、まっすぐセバルトのもとへ向かった。
「セバルト、近いうちに職人ギルドへ行きたいの」
セバルトは手元の書類から静かに顔を上げ、いつものように眉間の皺をわずかに深めた。
「お嬢様……また何か、新しい閃きがおありでございますか」
「ええ。絹ハリ草という植物を使って、道具を作ってもらいたいの」
「絹ハリ草、でございますか」
聞き慣れない草の名に、セバルトの眉間の皺がもう一段深く刻まれる。
「詳しい仕組みは、ギルドでロドリックに直接相談するわ。手配をお願いしてもいいかしら?」
「……かしこまりました。お取り次ぎの日程を整えましょう」
セバルトは静かなため息をひとつ吐くと、手元の予定表を丁寧にめくり、こちらの希望に沿うよう日程を確認してくれた。
* * *
数日後、アーシェはセバルトとともに、活気に満ちた職人ギルドを訪れていた。
二階にあるギルド長ロドリックの執務室には、相変わらず様々な木材や金属、手触りの異なる布地の見本が壁一面に整然と並んでいた。
「お嬢様、今日はどんなご相談で」
「篩を作ってほしいの」
「篩、でございますか……普通の麻布や、馬の尾を編んだものではなく?」
がっしりとした体躯のロドリックが、太い眉を持ち上げて尋ねてくる。開け放たれた窓の向こうからは、階下の鍛冶場からトントン、カンカンと心地よい鉄の打つ音が響いていた。
「網目に、絹ハリ草の芯を使いたいの。あの張りの強さとすべすべした質感が、きっと一番合うと思うの」
「なるほど……あの丈夫な草の芯を網目に、ですか」
「そうなの。張りがあってすべすべしているから、粉を振るっても詰まりにくいはずでしょう? それでね、網目の大きさが違うものを二種類作ってほしいの」
アーシェは小さな指先で大きさを表現しながら言葉を重ねた。
「ひとつは、少し大きめの網目。もうひとつは、もっと目が細かくて、粉をきめ細かくふるうためのもの」
「粉を、ふるう……」
ロドリックは腕を組み、太い眉をひそめてしばらく思索に耽った。
「網目の粗さを変えるだけでしたら、仕立てること自体は難しくありません。ですがあの草は、ピンと張った状態を枠の中で保ち続けるのが一番の要でしょう。途中で緩んでしまっては、篩としての役割を果たせませんからな」
「そこは、職人さんの素晴らしい手腕にお任せするわ」
「ははっ、これは一本取られましたな! 頼りにされては、期待に応えぬわけにはいきません」
ロドリックは豪快に口の端を上げ、壁の見本にちらりと視線を走らせた。
「承知いたしました。木枠に絹ハリ草をぴんと張り、粗目と細目、見事な仕立てで二揃え作ってみせましょう」
「よろしくお願いします!」
アーシェは嬉しそうに、丁寧に頭を下げた。
――これでまたひとつ、前世の思い出にある大切な道具に近づけるわ。
星降りの夜まで、あとわずか。
新しい甘い香りも、まだ見ぬ道具も、もうすぐこの手に届く。
そう思うだけで、アーシェの胸は、期待で静かに弾んでいた。




