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アーシェリルリア ― 月がはぐくむ 蜜の夢 ―  作者: noyu
第三章 ―まだ誰も知らない宝物―

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第四話 ―星花の朝と、絹ハリ草の篩―

 星降りの夜が明けた朝は、いつもと違う匂いがした。


 露が重く草葉を濡らし、立ちのぼる青草の匂いが、どこか濃い。そして肌を撫でる空気そのものが、まるで清らかな水で洗い立てられたかのように澄み渡っていた。


「お嬢様、足元にお気をつけください」


 セバルトが手にした提灯をそっと傾け、湿地へ続く薄暗い小道を柔らかく照らした。まだ陽は完全に昇りきっておらず、朝靄が低い地表を這うように静かに漂っている。


 アーシェは長靴のつま先で濡れた草を踏み分けながら、隣を歩くベルトへ視線を向けた。


「本当に、今朝しか採れないの?」


「え、ええ。星降りの夜の翌朝……正確には、日の出から二刻ほどの間のみと伝えられております。それ以降は……その、成熟した鞘から香りの成分が空気中へ散ってしまうようでして」


 ベルトは眼鏡の位置を指先ですっと直し、いつも通り前置きの長い講釈から始めた。アーシェはもうすっかり慣れっこで、微笑みを浮かべながら静かに先を促す。


 湿地へ辿り着くと、水面が朝日の光を受けてキラキラと眩しく揺れていた。葦の葉先に丸い朝露が玉になって光り、鳥たちの声が遠くから、近くから、幾重にも重なり合って伸びやかに響いている。ちゃぷ、と小さな水音が静寂を払った。


 ――こんな朝、前世でも何度かあったわ。早起きして市場へ食材の仕入れに行った日の、あのひんやりとした空気。


 胸いっぱいに深呼吸をすると、湿った草いきれの奥から、ふわりと甘く甘美な香りが混ざり込んでいるのに気づいた。


「……これかしら?」


「あ、はい。おそらく、あちらに」


 ベルトが指差した水辺近くの茂みには、白い花をつけたつる性の植物が密やかに絡みついていた。花自体はすでに盛りを過ぎて萎れかけ、重たげにうねだれている。けれどその根元には、茶色く乾いて熟した小さな鞘が、たわわに実っていた。


「星花です。初夏に可憐な花をつけますが……先日もお話しした通り、この鞘のほうは強い苦味があり、これまで誰も食材として見向きもしませんでした」


「ええ、覚えているわ」


 アーシェは小さく頷いた。けれど、こうして実際の鞘を目にするのは初めてだった。萎れた花と、熟した鞘の素朴な佇まいとの落差が、どこか愛おしく感じられる。


 ベルトがしゃがみ込み、指先で熟した鞘をひとつ慎重に手折ると、アーシェの両手へそっと乗せた。


「これが、星降りの翌朝だけ特別なのです。今朝から三日ほどの間、香りの質が一年で最も高まる……はずなのですが、これはまだ私の観察に基づく推測の域を出ません」


 アーシェは両手のひらで鞘を優しく包み込んだ。かさりと軽い質感が伝わってくる。


 ――割ってみたいわ。


 小さな息を吸い、両手の指先に少しだけ力を込めた。ぱき、と心地よい乾いた音が小さく響く。


 次の瞬間、ふわりと甘く濃厚な香りが立ち上った。


 ただ甘いだけではない。どこまでも深く、複雑で、温かく――胸の奥の遠い記憶を揺さぶる、どこか懐かしい香り。アーシェは思わず目を閉じ、その高貴な香りを胸いっぱいに吸い込んだ。


 ――この匂い。何度も嗅いだことがあるわ。前世で、大好きなお菓子を作るたび、ガラス小瓶の蓋を開けるたびに広がっていた、あの香り。


「……バニラ」


 ぽろりと、小さく零れ落ちた呟きに、ベルトが不思議そうに首を傾げた。


「ばにら、とは?」


「あ……ううん、独り言よ」


 アーシェは慌てて誤魔化したが、緩んでいく頬をどうしても抑えることができなかった。この世界で、再びこの香りと巡り会えたことが、ただただ嬉しかった。


「この香りへ、ぴったりな響きだと思ったの」


「はあ……花は確かに甘く香りますが、鞘の実は本当に苦くて。私も一度試してみたのですが、正直二度目は遠慮したい味でした」


「苦いからこそ、価値があるのよ」


 アーシェがまっすぐな微笑みを向けると、ベルトは一瞬ぽかんと口を開けた。それから、じわりと眼鏡の奥の表情を和らげる。


「……苦いからこそ、価値がある。なるほど……なるほど、そういう考え方もありますか」


 感心したように呟くベルトの横顔を見て、セバルトが静かに息を吐いた。


「お嬢様の豊かな思いつきに驚くのは、わたくしももう慣れました」


 三人は水辺に腰を落とし、熟した鞘だけを丁寧に手折っていった。朝日が高くなるにつれて朝靄がすうっと晴れ、籠の中に鞘が積み重なるたび、あまやかな香りが優しく満ちていく。


 籠がいっぱいになる頃には、三人の手にも甘い香りが優しく移っていた。アーシェは完成した籠を覗き込み、胸の奥で静かに微笑んだ。


 ――やっと、出逢えたわ。


 ◇ ◇ ◇


 屋敷へ戻ると、採ってきた星花を傷つけないよう、研究棟の作業台へ丁寧に並べた。そこへセバルトが足早に歩み寄ってくる。


「お嬢様。職人ギルドより、例の篩が仕上がったとの報せが届きました」


「本当?星花も並べ終えたし。ちょうどいいわね。私も一緒に行ってみたいわ!」


「お嬢様がそう仰ると思っておりました」


 セバルトの眉間の皺が、諦めと可笑しみの混ざった柔らかい形に緩む。ベルトも顔を上げた。


「それでは、私もご一緒させていただいても?」


 ◇ ◇ ◇


 職人ギルドへ到着すると、ギルド長のロドリックが待っていたように奥から姿を現した。その手には、大切そうに布で包まれた二つの品が抱えられている。


「お待たせいたしましたな、お嬢様」


 布がそっと開かれると、美しい木枠に細かな網目がピンと張られた道具が二つ、姿を現した。ひとつは網目がやや大きく、もうひとつは息をのむほど密で細かい。


 アーシェの瞳が、ぱっと輝いた。両手を伸ばし、細目の篩を大切に受け取る。


「ご依頼通り、網目には絹ハリ草の芯を用いました。我ながら、想像以上の見事な仕上がりですぞ」


 アーシェが指先で網目を軽く撫でると、細く均一な草の芯が、しなやかな張りを持って心地よく指を押し返してきた。


「……想像以上だわ」


 思わず零れた声に、ロドリックが太い眉を上げて豪快に笑った。


「そう言っていただけると、職人冥利に尽きますな!」


「私も、拝見してもよろしいでしょうか」


 ベルトが横から覗き込み、篩を光にかざしながら網目の間隔を食い入るように見つめている。その真摯な眼差しに、ロドリックもどこか誇らしげだった。


「小麦粉も用意してございます。よろしければ、実際に試してみますか?」


「ぜひ!」


 アーシェは篩にさらりと小麦粉を乗せ、両手で優しく左右に揺らしてみた。


 さらさらと、粉が細かな網目をすり抜けて落ちていく。まるで静かに舞い降りる初雪のように、下に置いた木鉢へふんわりと降り積もっていく。ダマや大きな塊はひとつもなく、粉の粒が均一に整っていた。


「……すごい」


 その滑らかな落ち方に、アーシェは目を奪われた。


 ――これなら……! 前世のあの繊細なお菓子に、絶対に届くわ。


 職人としての胸の高鳴りが、熱となって全身を駆け巡っていく。前世で幾度となく使ってきた篩の中でも、これほど美しい落ち方をするものは少なかった。


「素晴らしい……! 繊維の太さが均一だからこそ、網目の隙間も寸分違わず揃う。通過する粒がこれほど揃うとは」


 興奮気味に眼鏡を直すベルトに、アーシェはくすくすと微笑んだ。


「ベルトも、とっても嬉しそうね」


「え、あ……失礼いたしました。つい」


 照れたように咳払いをするベルトの姿に、ロドリックが腕を組み、満足げな笑みを浮かべた。


「完成したら、その道具でどんな美味しいものができるのか、ぜひ知らせてくだされ」


「もちろんです! 美味しく焼けたら、一番にお持ちしますね」


「ははっ、それは楽しみだ。首を長くして待っておりますぞ」


 賑やかで温かな笑い声が、ギルドの執務室を優しく包み込んでいった。


 ◇ ◇ ◇


 屋敷の厨房へ戻ると、料理長のガストンがすでに作業台を綺麗に整えて待っていた。


「お嬢様、材料はこちらに整えております」


 採ってきたばかりの星花。真新しい絹ハリ草の篩。さらさらの小麦粉。琥珀糖晶。そして、雪乳獣の豊かな乳。


 どれひとつ欠けても、今日作りたかったお菓子には辿り着けない。


 作業台にひとつずつ並べられていくたび、アーシェの胸は静かに高鳴った。今朝まで手元になかったものが、今はこうして揃っている。星花のあまやかな香りが、静かな厨房いっぱいに広がっていく。


 アーシェは深く息を吸い込み、胸の奥に溢れる期待をそっと確かめた。


 ――まだ、この世界の誰も知らない味。まだ誰も見たことのない、あたたかな甘さ。


 胸の奥で、小さな喜びがこつん、と鳴った。


 前世の記憶にあるものとは、きっと少し違うものになる。けれど――ううん、だからこそ、愛おしくて楽しみでたまらない。


 アーシェは並んだ材料を前に、最高の笑顔を浮かべた。


「さあ、お菓子を作りましょう!」


 星花の甘い香りが、これからはじまるお菓子作りの時間を優しく祝福するように、静かな厨房を満たしていった。


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