第四話 ―星花の朝と、絹ハリ草の篩―
星降りの夜が明けた朝は、いつもと違う匂いがした。
露が重く草葉を濡らし、立ちのぼる青草の匂いが、どこか濃い。そして肌を撫でる空気そのものが、まるで清らかな水で洗い立てられたかのように澄み渡っていた。
「お嬢様、足元にお気をつけください」
セバルトが手にした提灯をそっと傾け、湿地へ続く薄暗い小道を柔らかく照らした。まだ陽は完全に昇りきっておらず、朝靄が低い地表を這うように静かに漂っている。
アーシェは長靴のつま先で濡れた草を踏み分けながら、隣を歩くベルトへ視線を向けた。
「本当に、今朝しか採れないの?」
「え、ええ。星降りの夜の翌朝……正確には、日の出から二刻ほどの間のみと伝えられております。それ以降は……その、成熟した鞘から香りの成分が空気中へ散ってしまうようでして」
ベルトは眼鏡の位置を指先ですっと直し、いつも通り前置きの長い講釈から始めた。アーシェはもうすっかり慣れっこで、微笑みを浮かべながら静かに先を促す。
湿地へ辿り着くと、水面が朝日の光を受けてキラキラと眩しく揺れていた。葦の葉先に丸い朝露が玉になって光り、鳥たちの声が遠くから、近くから、幾重にも重なり合って伸びやかに響いている。ちゃぷ、と小さな水音が静寂を払った。
――こんな朝、前世でも何度かあったわ。早起きして市場へ食材の仕入れに行った日の、あのひんやりとした空気。
胸いっぱいに深呼吸をすると、湿った草いきれの奥から、ふわりと甘く甘美な香りが混ざり込んでいるのに気づいた。
「……これかしら?」
「あ、はい。おそらく、あちらに」
ベルトが指差した水辺近くの茂みには、白い花をつけたつる性の植物が密やかに絡みついていた。花自体はすでに盛りを過ぎて萎れかけ、重たげにうねだれている。けれどその根元には、茶色く乾いて熟した小さな鞘が、たわわに実っていた。
「星花です。初夏に可憐な花をつけますが……先日もお話しした通り、この鞘のほうは強い苦味があり、これまで誰も食材として見向きもしませんでした」
「ええ、覚えているわ」
アーシェは小さく頷いた。けれど、こうして実際の鞘を目にするのは初めてだった。萎れた花と、熟した鞘の素朴な佇まいとの落差が、どこか愛おしく感じられる。
ベルトがしゃがみ込み、指先で熟した鞘をひとつ慎重に手折ると、アーシェの両手へそっと乗せた。
「これが、星降りの翌朝だけ特別なのです。今朝から三日ほどの間、香りの質が一年で最も高まる……はずなのですが、これはまだ私の観察に基づく推測の域を出ません」
アーシェは両手のひらで鞘を優しく包み込んだ。かさりと軽い質感が伝わってくる。
――割ってみたいわ。
小さな息を吸い、両手の指先に少しだけ力を込めた。ぱき、と心地よい乾いた音が小さく響く。
次の瞬間、ふわりと甘く濃厚な香りが立ち上った。
ただ甘いだけではない。どこまでも深く、複雑で、温かく――胸の奥の遠い記憶を揺さぶる、どこか懐かしい香り。アーシェは思わず目を閉じ、その高貴な香りを胸いっぱいに吸い込んだ。
――この匂い。何度も嗅いだことがあるわ。前世で、大好きなお菓子を作るたび、ガラス小瓶の蓋を開けるたびに広がっていた、あの香り。
「……バニラ」
ぽろりと、小さく零れ落ちた呟きに、ベルトが不思議そうに首を傾げた。
「ばにら、とは?」
「あ……ううん、独り言よ」
アーシェは慌てて誤魔化したが、緩んでいく頬をどうしても抑えることができなかった。この世界で、再びこの香りと巡り会えたことが、ただただ嬉しかった。
「この香りへ、ぴったりな響きだと思ったの」
「はあ……花は確かに甘く香りますが、鞘の実は本当に苦くて。私も一度試してみたのですが、正直二度目は遠慮したい味でした」
「苦いからこそ、価値があるのよ」
アーシェがまっすぐな微笑みを向けると、ベルトは一瞬ぽかんと口を開けた。それから、じわりと眼鏡の奥の表情を和らげる。
「……苦いからこそ、価値がある。なるほど……なるほど、そういう考え方もありますか」
感心したように呟くベルトの横顔を見て、セバルトが静かに息を吐いた。
「お嬢様の豊かな思いつきに驚くのは、わたくしももう慣れました」
三人は水辺に腰を落とし、熟した鞘だけを丁寧に手折っていった。朝日が高くなるにつれて朝靄がすうっと晴れ、籠の中に鞘が積み重なるたび、あまやかな香りが優しく満ちていく。
籠がいっぱいになる頃には、三人の手にも甘い香りが優しく移っていた。アーシェは完成した籠を覗き込み、胸の奥で静かに微笑んだ。
――やっと、出逢えたわ。
◇ ◇ ◇
屋敷へ戻ると、採ってきた星花を傷つけないよう、研究棟の作業台へ丁寧に並べた。そこへセバルトが足早に歩み寄ってくる。
「お嬢様。職人ギルドより、例の篩が仕上がったとの報せが届きました」
「本当?星花も並べ終えたし。ちょうどいいわね。私も一緒に行ってみたいわ!」
「お嬢様がそう仰ると思っておりました」
セバルトの眉間の皺が、諦めと可笑しみの混ざった柔らかい形に緩む。ベルトも顔を上げた。
「それでは、私もご一緒させていただいても?」
◇ ◇ ◇
職人ギルドへ到着すると、ギルド長のロドリックが待っていたように奥から姿を現した。その手には、大切そうに布で包まれた二つの品が抱えられている。
「お待たせいたしましたな、お嬢様」
布がそっと開かれると、美しい木枠に細かな網目がピンと張られた道具が二つ、姿を現した。ひとつは網目がやや大きく、もうひとつは息をのむほど密で細かい。
アーシェの瞳が、ぱっと輝いた。両手を伸ばし、細目の篩を大切に受け取る。
「ご依頼通り、網目には絹ハリ草の芯を用いました。我ながら、想像以上の見事な仕上がりですぞ」
アーシェが指先で網目を軽く撫でると、細く均一な草の芯が、しなやかな張りを持って心地よく指を押し返してきた。
「……想像以上だわ」
思わず零れた声に、ロドリックが太い眉を上げて豪快に笑った。
「そう言っていただけると、職人冥利に尽きますな!」
「私も、拝見してもよろしいでしょうか」
ベルトが横から覗き込み、篩を光にかざしながら網目の間隔を食い入るように見つめている。その真摯な眼差しに、ロドリックもどこか誇らしげだった。
「小麦粉も用意してございます。よろしければ、実際に試してみますか?」
「ぜひ!」
アーシェは篩にさらりと小麦粉を乗せ、両手で優しく左右に揺らしてみた。
さらさらと、粉が細かな網目をすり抜けて落ちていく。まるで静かに舞い降りる初雪のように、下に置いた木鉢へふんわりと降り積もっていく。ダマや大きな塊はひとつもなく、粉の粒が均一に整っていた。
「……すごい」
その滑らかな落ち方に、アーシェは目を奪われた。
――これなら……! 前世のあの繊細なお菓子に、絶対に届くわ。
職人としての胸の高鳴りが、熱となって全身を駆け巡っていく。前世で幾度となく使ってきた篩の中でも、これほど美しい落ち方をするものは少なかった。
「素晴らしい……! 繊維の太さが均一だからこそ、網目の隙間も寸分違わず揃う。通過する粒がこれほど揃うとは」
興奮気味に眼鏡を直すベルトに、アーシェはくすくすと微笑んだ。
「ベルトも、とっても嬉しそうね」
「え、あ……失礼いたしました。つい」
照れたように咳払いをするベルトの姿に、ロドリックが腕を組み、満足げな笑みを浮かべた。
「完成したら、その道具でどんな美味しいものができるのか、ぜひ知らせてくだされ」
「もちろんです! 美味しく焼けたら、一番にお持ちしますね」
「ははっ、それは楽しみだ。首を長くして待っておりますぞ」
賑やかで温かな笑い声が、ギルドの執務室を優しく包み込んでいった。
◇ ◇ ◇
屋敷の厨房へ戻ると、料理長のガストンがすでに作業台を綺麗に整えて待っていた。
「お嬢様、材料はこちらに整えております」
採ってきたばかりの星花。真新しい絹ハリ草の篩。さらさらの小麦粉。琥珀糖晶。そして、雪乳獣の豊かな乳。
どれひとつ欠けても、今日作りたかったお菓子には辿り着けない。
作業台にひとつずつ並べられていくたび、アーシェの胸は静かに高鳴った。今朝まで手元になかったものが、今はこうして揃っている。星花のあまやかな香りが、静かな厨房いっぱいに広がっていく。
アーシェは深く息を吸い込み、胸の奥に溢れる期待をそっと確かめた。
――まだ、この世界の誰も知らない味。まだ誰も見たことのない、あたたかな甘さ。
胸の奥で、小さな喜びがこつん、と鳴った。
前世の記憶にあるものとは、きっと少し違うものになる。けれど――ううん、だからこそ、愛おしくて楽しみでたまらない。
アーシェは並んだ材料を前に、最高の笑顔を浮かべた。
「さあ、お菓子を作りましょう!」
星花の甘い香りが、これからはじまるお菓子作りの時間を優しく祝福するように、静かな厨房を満たしていった。




