第五話 ―星花の熟成と、黄金のクリーム―
研究棟の窓辺には、竹編みの浅い籠がずらりと並んでいた。中に広げられた星花の鞘は、飴色を通り越し、くすんだ茶褐色に変わっている。
「これくらい間を空ければ、風が通ると思うの」
アーシェは籠の端を少し持ち上げ、重なり合う鞘を指先で静かに散らした。午後の光が鞘の縁をなぞって、うっすらと金の線を引く。
ベルトは籠の前にしゃがみ込み、鞘をひとつつまんで鼻先へ寄せた。眉間に皺を寄せ、小さく何度か息を吸う。
「……数日前と、香りが違います」
「ええ。まだ乾ききっていないから、もう少し干すの」
鞘を光にかざし、裏返し、また鼻を寄せる。それから懐の手帳を取り出し、筆を走らせた。
「日照り、風、色の移ろい。書き留めておくべきことが、いくつも」
素材を前にした途端、周りが見えなくなる。その横顔が子供のようで、アーシェは口元をゆるめた。
「水分が抜けると、香りが少しずつ変わっていくのよ。急がずに待つの。今のままでは保存もできないし、傷んでしまうから」
「熟成、ですね」
「そう。……毎日、様子を見に来てもいいかしら」
「もちろんです。むしろ、私からお願いしたいくらいで」
風が窓から吹き込むたび、鞘がかさりと小さく鳴り、匂いが揺れる。二人はしばらく、並んだ籠を黙って眺めていた。
* * *
それから数日、アーシェは毎朝、研究棟へ通った。
「こちらは裏返して、あちらは日陰へ移しましょう」
アーシェが指差した籠を、ベルトが手を止めて待ち、そっと日向から日陰へ動かす。鞘を一枚ずつ裏返していく二人の作業は、小さな儀式のようだった。
初日は茶褐色だった鞘が、日を追うごとに色を深めていく。皺が幾重にも刻まれ、黒みを帯びた艶がのった。窓の外では、鳥の声が実りの季節を告げている。
三日目の朝、ベルトが籠の前で動きを止めた。
「……香りが」
鞘を取り、鼻先へ運ぶ。長い間のあと、ゆっくりと息を吐いた。
「これほど変わるとは、思いませんでした。この濃さなら、使うのはごく僅かな量で足りるはずです」
「そうなの。少しでいいの」
アーシェも一枚手に取った。指に触れた鞘は、ひんやりと乾いて軽い。鼻の奥へ、甘く濃い香りが広がっていく。前世で知っていた、あの黒く艶やかな鞘の香りに、確かに近い。
「だから、大切に使わなくちゃ」
「戸口まで、お運びします」
ベルトが籠を抱え、二人で研究棟の戸口へ向かった。通りかかったメイドに、ベルトは軽く頭を下げる。
「すみません、これを厨房までお願いできますか」
「かしこまりました、ベルトさん」
籠を預けたあとも、ベルトは丁寧に一礼した。
「私はここで。乾燥の記録が、まだ途中ですので」
「ありがとう、ベルト」
手を振って歩き出し、ふと振り返ると、ベルトはもう手帳を開いて籠の並びを見つめていた。
◇ ◇ ◇
厨房では、ガストンが道具を並べて待っていた。鍋、木べら、大小ふたつの篩。踏み台も、いつもの位置に据えてある。
「お待たせ、ガストン」
メイドが運んだ籠が調理台に置かれ、アーシェは鞘を一本、差し出した。受け取ったガストンが鼻を近づける。太い眉が、わずかに動いた。
「……これは」
「乾かしてみたの。香りが変わったでしょう」
「甘い、香りですな」
「苦いけれど、味も知っておいた方がいいわ」
ガストンの手が止まった。
「……よろしいので」
「ええ。生の味を掴んでおくと、火を入れた時の変化がわかりやすいもの」
鞘の先をほんの少し舌に当てた途端、眉がぐっと寄る。
「……旨いとは、言いかねます」
「そのままだと少し苦いの。でも、牛乳や生クリームと出会うと変わるのよ。香りは乳の脂に溶けやすいから、温めると脂が抱き込んで、甘くまろやかになるわ」
ガストンは半信半疑のまま、それでも黙って頷いた。小鍋に雪乳獣の乳を注ぎ、小刀の先で鞘を縦に割る。アーシェは割れ目から、びっしりと詰まった黒い種を、小さな匙の背で掻き出した。鞘ごと、種ごと、乳の中へ沈める。
「これで、香りが移っていくの」
とろ火にかけると、乳がゆっくり温まり、湯気がふわりと立ちのぼった。鞘の甘い香りが、少しずつ混じりはじめる。
やがて、ガストンが鍋へ顔を寄せた。乳特有の匂いは和らぎ、代わりに甘くまろやかな香りが湯気に乗っている。
「……別物ですな」
「乳が、香りを抱き込んだのよ」
太い指で顎をかき、ガストンは小さく唸った。疑いの色が薄れ、料理人の目に変わっている。火加減ひとつで仕上がりが変わる菓子だと、勘で察したらしい。
「篩を使うわ。まず、小麦粉から」
細目の篩に粉を入れ、ガストンが振るう。さらさらと粉が舞い落ち、木鉢の中に淡い雪のような山をつくった。
「次は、卵液」
鞘を引き上げ、香りの移った乳と、卵、琥珀糖晶を合わせたものを、少し粗めの篩で漉す。とろりとした液が、目の間を静かに抜けていく。篩の底には、黒い種の粒が点々と残った。
「これで、滑らかさの下準備ができたわ」
弱火にかけた鍋が、踏み台に立つアーシェの目の高さで温まっていく。
「弱火で、少しずつ」
「……かしこまりました」
木べらを握るガストンの手が、慎重に円を描いた。アーシェはその動きから、目を離さない。
――前世なら、鍋肌の熱を手で確かめながら、混ぜる速さを決められたのに。今は、目で追うことしかできない。
もどかしさが、胸の奥をちくりと刺す。それでも視線は、鍋に据えたままだった。
「少し、火が強いかもしれないわ」
「……はい」
火を弱めるのが、ほんの一拍遅れた。とろみがつきすぎて、ところどころにダマができている。ガストンは木べらを止め、無言で鍋の底を覗き込んだ。
「……火加減、覚えておきます」
固まったそれは、棚のバターの隣へ置かれた。
「冷ませば、パンに塗れそうね」
二度目は、混ぜる手が遅れた。とろみは均一なのに、どこか重い。
「もう少し、リズムよく。こう――手首を返す感じ」
アーシェが小さく手首を動かして見せると、ガストンは頷き、木べらを握り直した。重たく仕上がったそれは、脇へ寄せられる。
「焼き菓子に詰めたら、おいしそう」
三度目は、火から下ろすのが早すぎた。とろみは緩く、まだ卵液の柔らかさが残っている。
「もう少し火にかけていて大丈夫だったわ。でも、このゆるさも素敵よ。温かいクリームソースにして、そのままいただきましょう」
「……失敗では、ないのですな」
アーシェは失敗のたび、鍋の中の変化を目に焼き付けた。色、艶、木べらにまとわりつく重さ。ガストンもまた、火加減と手の動きを、掌に刻んでいくように見えた。
棚には、三つの器が並んでいる。パンに塗る固めのクリーム、焼き菓子に詰める重めのクリーム、そのまま味わう緩やかなクリーム。どれも、無駄にはならなかった。
* * *
何度目かの挑戦だった。
「弱火のまま、ゆっくり」
木べらが円を描くごとに、とろみが増していく。アーシェは瞬きも惜しんで見つめた。
「もう少し……もう少しよ」
ガストンの額に、汗がうっすらと滲む。それでも木べらの動きは、これまでになく落ち着いていた。繰り返した動きが、腕に馴染んだのだろう。
「――今」
その一言で、ガストンが鍋を火から下ろした。
木べらで掬うと、クリームは艶を湛えたまま、ゆっくりと帯を描いて流れ落ちる。仕上げにもう一度篩を通せば、きめの細かさがいっそう増した。湯気に乗って、星花の甘く上品な香りが、厨房いっぱいに広がっていく。
アーシェは小さな匙を差し出した。ガストンは黙って受け取り、ひとくち含む。目を閉じて、ゆっくりと味わい、それから。
「……うまい」
低い声が、湯気の中に落ちた。
アーシェも匙をもらい、舌に載せる。甘くて、やわらかくて、どこか懐かしい。ずっと記憶の底にしかなかったあの味が、この世界で、ようやく形になった。
「完璧ね、ガストン」
ガストンは鍋を見つめたまま、小さく頷いた。
窓の外は、いつしか茜色に染まっている。棚に並んだ三つの器も、鍋の中の黄金色も、傾いた光をそれぞれに受けていた。
「……このクリーム、何に使いましょう」
「そうね。何にしようかしら」
アーシェは匙を握ったまま、鍋から立ちのぼる香りに目を細めた。
――フィルにも、この香りを教えてあげたい。
甘い香りだけが、日暮れの厨房に、しばらく漂い続けた。




