第六話 ―お日さまの色のタルト―
厨房の重い木扉が、パタンと勢いよく開いた。
「姉さま、ぼく混ぜるね!」
扉を押し開けるなり、フィルブラットが元気よく宣言する。灰緑の柔らかい巻き毛が、駆け込んだ勢いのままふわふわと跳ねた。
「おはよう、フィル。今日はね、お日さまの色のタルトを作るのよ」
「たると?」
「昨日ガストンと作っておいたカスタードクリームを、生地のお皿に流して、窯で焼くの」
アーシェは小さな踏み台に乗り、貯蔵庫のひやりとした空気をまとった白い陶器の器を、調理台へ移した。中では淡い黄金色のカスタードが、一晩休んでしっとりと固まっている。卵と雪乳獣の乳に、乾燥させた星花の香りを移したとっておきのクリーム。蓋をずらすと、甘い香りが湯気のようにふわりと立った。
器の縁から身を乗り出し、フィルが鼻先をくいくいと動かす。
「いいにおい……ふわっとして、やわらかい匂い」
「星花のおかげね」
息を吸い込むと、肩の力がほどけた。
――この香り、好き。前世の厨房に立っていたころの手が、少しだけ思い出す。
◇ ◇ ◇
調理台の隣に踏み台を引きずってきたフィルは、冷えたバターの粒を、小さな指でひとつずつ押しつぶし始めた。スコーンを土台にする生地の作り方は、もう説明がいらない。
「バター、お粉の中に、かくれんぼさんだよね」
「ええ、よく覚えていたわね」
「えへへ」
誇らしげに目を細めても、手は止まらない。粉に隠れたバターが馴染むにつれ、指の間でさらさらと砂のような手ざわりに変わっていく。その変化を、フィルは息を詰めて見つめていた。
教えたことを、ちゃんと指が覚えている。アーシェは隣でそっと打ち粉を足しながら、口元がほころぶままにしておいた。
窯の前には、エルトが立っている。今朝のパンを焼き終えた窯は、薪を足さず、熾火の赤だけを奥に残していた。ガストンが窯口へ掌をかざす。
「この熱さを、手に刻め」
低い声に、エルトは無言で頷いた。窯口の前へ進み、押し寄せる熱を掌から腕へ、頬へと受け止める。熱だけで火加減を言い当てるには、まだ遠い。それでも、その瞳は熾火から逸れなかった。赤い残光が、銀の瞳の奥で小さく揺れていた。
生地がひとまとまりになると、アーシェとフィルは二人がかりで、天板の上に小さな丸を並べていった。親指でぐっと真ん中を押せば、浅い器のかたちになる。蜜蝋で薄く油膜を張った天板は、指先にほんのり滑らかだった。
「……お皿まで、食べられるの?」
フィルが天板を指さし、丸い目をいっそう丸くする。
「そうよ。生地でできた、小さなお皿ね。カスタードを入れる前に、空のまま軽く焼いて固めるの」
ガストンの手で、天板が窯口の余熱の中へ滑り込んだ。しばらくして取り出された生地の器は、うっすらと狐色に焼き固まり、香ばしい匂いを連れてくる。
小鍋では、昨夜のカスタードが極小のとろ火にかけられていた。火の番はガストンの仕事だ。冷えて固まったクリームが木べらにほぐされ、少しずつ艶を取り戻していく。
「とろ〜り、してきた」
ガストンの手のひらに「そこまで」と止められた場所から、フィルが背伸びをして鍋を覗き込んだ。
「お風呂みたい」
「お風呂?」
「あったかそうで、とろとろで……入ったら、きもちよさそう」
厳めしいガストンの口元が、ほんのわずかに緩む。窯の前から振り返ったエルトも、小さく息を漏らして目元を和らげた。
木柄杓からとろりと流れ落ちた黄金色が、焼き上がった器をひとつずつ満たしていく。
「なみなみだね」
フィルが小さな手をぱちぱちと叩いた。
「なみなみ、って?」
「カスタードが、なみなみって、気持ちよさそうに泳いでるの」
アーシェはくすくすと笑った。
再び窯口の奥へ送り込まれた天板は、しばらくすると、カスタードの表面にうっすらと薄い黄色の幕を張った。ガストンが素早く取り出し、あらかじめ聞いていた手順どおりに、細かく砕いた琥珀糖晶をさらさらと振りかける。それから窯の奥の熾火へふいごで風を送り、上の熱を一気に引き上げた。
赤く燃え上がった炭火へ、天板がぐっと近づく。
ぱちり、ぱちり。
琥珀糖晶が熱に跳ね、表面で溶けながら、みるみる深い飴色に変わっていく。じゅわりと、焦げた砂糖の甘い匂いが厨房に広がった。
「お日さま色! お日さまが、お皿でお昼寝してるみたい」
フィルが両手を高く掲げる。天板に並んだタルトは、小さな太陽がいくつも輝いているようだった。
「姉さま、また選んでもいいかな」
「いいわよ。フィルは、本当にお菓子を選ぶのが好きね」
「だってね、お菓子も、おうちを決めてもらったほうが嬉しいでしょ?」
フィルは天板の上を端から順に指さしていく。これは父さまのおうち、これは母さまのおうち、と、ひとつひとつに帰る場所を決める声は、真剣そのものだった。
◇ ◇ ◇
焼きたてのタルトは、まだ細い湯気を立てている。アーシェが小さな木匙を入れると、飴色の表面がパリッと割れて、とろりとした黄金色が顔を出した。
「熱いから、気をつけて食べてね」
そう声をかけて、自分の分をひと口。飴色の殻が歯の下で砕け、生地のサクッとした歯触りの向こうで、カスタードが舌の上に濃くほどけていく。甘さの奥に、星花の香りがどこまでも続いていた。
「……美味しいわ」
思わず、笑みがこぼれる。
「美味しい……! すっごく、美味しいよ!」
フィルは頬を赤くして、木匙を夢中で動かしている。
「ガストンも、エルトも。出来立てをどうぞ」
勧められたガストンは、無言で一口を運んだ。手がぴたりと止まる。
「……うまい」
それきり何も言わず、気づけば二口、三口と木匙を進めていた。皿が空になる頃、節くれた指が、天板の端のひとつへ静かに伸びる。長年厨房に立ってきた料理長にとって、それが最高の賛辞だった。
エルトはひとすくい食べた瞬間、銀の瞳に浮かぶ赤い星をわずかに見開いた。何か言いかけて、けれど言葉にならなかったのか、口を閉じてもう一口を運ぶ。今度はゆっくり、口溶けと余韻をたどるように。
厨房には、木匙が皿に触れる小さな音と、香ばしい湯気だけが残った。
* * *
その晩のムーンルームには、淡いレースの窓布越しに、満月の光が白く満ちていた。卓上には、昼のエッグタルトが並んでいる。焼きたての熱は引き、カスタードはしっとりと滑らかに、昼よりも濃い味わいに落ち着いていた。
「父さま、母さま、これ、ぼくも作ったの!」
フィルが誇らしげに、皆の皿へタルトを配って回る。
「お口の中まで、お日さまになっちゃうから食べて!」
「ほう、これは……」
ヴェルナルドが木匙でひとすくい口にして、目を細めた。
「王都の高級菓子店でも、これほどのものはそうお目にかかれまい」
「本当に。初めて出逢う香りだけれど、とても優しくて……うっとりしてしまうわ」
エルミラも微笑んで、もうひとすくいを味わっている。
「ぼく、バターをかくれんぼさせたの。それから、クリームがなみなみってなって……あ、お日さま、食べちゃったね」
空になった自分の皿を見下ろして、フィルが少しだけ寂しそうな顔をした。
「父さまのお日さま、食べちゃったね」
「母さまのお日さまは、まだ笑ってる」
家族の皿を順に見回し、フィルは満足げに頷く。その様子に、ヴェルナルドとエルミラが声を上げて笑った。
「フィルはお菓子作りの才能があるのかもしれないな」
「才能?」
「ああ、とても上手だ」
褒められたフィルは、耳までほんのり赤くして笑う。
「もっと、上手になりたいな」
「きっとなれるわ」
「次は何を作ってくれるんだい?」
「姉さまと相談する!」
エルミラがフィルの頭を撫で、ヴェルナルドは頷きながらタルトを口へ運ぶ。笑い声が落ち着いた卓には、木匙の触れ合う音だけが、ゆっくりと残った。
「姉さま、ぼくね」
袖をちょんと引かれて振り向くと、フィルが少し照れたように、けれどまっすぐにアーシェを見上げていた。
「また、姉さまと作りたい」
「もちろんよ」
口の端についた小さな欠片を、アーシェは指先でそっと払ってやる。
――次は、どんなお日さまを作ろうか。
空になりかけた皿の縁を、レース越しの月光が白くなぞっていく。フィルの皿の底で、最後に残った琥珀の欠片がきらり、きらと光を弾いた。




