第七話 ―月が見守った、はじめての眠り―
夕餉のあとのムーンルームには、満月の光が満ちていた。
暖炉の薪がぱちりと爆ぜ、朱色の火の粉が小さく散る。窓の外には丸い月がぽっかりと浮かび、薄いレースを透かして、白銀の光を床や壁へ淡く敷いていた。
暖かな灯りの下で、フィルは木の積み木を並べ、小さな塔を作っている。
「姉さま、見て。できたよ」
得意げに胸を張るフィルの指の先で、塔はほんの少し傾いていた。
「いちばん上はね、お月さまの席なの」
「まあ、特等席ね」
アーシェは目を細め、いまにも崩れそうな塔の先を、指先でそっと支えた。
革張りの長椅子で領務書類をめくっていたヴェルナルドが、ふと目を上げる。子供たちのやり取りを見守る眼差しは、書類に向けていたときよりずっと柔らかい。
特別なことは何もない、けれど満ち足りた夜だった。
エルミラは少し離れた窓辺に立ち、フィルの塔を微笑んで眺めていた。けれど――ふと、その視線が積み木を離れ、窓の向こうの月へ向かう。
「お母様?」
声をかけると、エルミラはゆっくりと振り返った。口元の微笑みはそのままに、瞳の奥だけが、遠い日をなぞるように揺れている。
「この部屋にいるとね……時々、あの夜の月を思い出すの」
「あの夜の月?」
「ええ。とても静かで、冷たい夜だったわ。その夜にね、ひとりの男の子と出会ったの」
言い終えて、エルミラは再び満月を仰いだ。その瞳に浮かぶ景色を、アーシェはまだ知らない。
* * *
王宮からの使いがルーナランテ公爵家を訪れたのは、エルミラが十一歳のときだった。
「王妃様がお会いになりたいとのことです」
使いは理由を何ひとつ明かさず、ただ「お子様の魔力を整えていただきたい」とだけ告げた。案内されたのは、王宮の最果て、人目を避けるように建つ離れの塔である。
石壁を、青白い月明かりが撫でていた。高い窓にはレースが引かれ、その向こうで木々の影が夜風にゆらりと揺れる。
塔の最上階へ続く薄暗い石段を、エルミラは一段ずつ確かめるように上った。肩の外套はまだ身体に大きく、裾を踏まないよう気をつけながら、それでも足は止めない。
本当に、自分のような小さな治療師にできることがあるのだろうか。不安が胸の隅にちらりと顔を覗かせる。けれど、誰かを救うために進む足を止めたことは、これまで一度もなかった。
息を小さく吸って、吐いて、重い木扉をそっと押す。
部屋には、しんと冷えた空気が満ちていた。隅に置かれた木馬も積み木も上質な品ばかりなのに、幼い手の触れた温もりはどこにもなく、月明かりだけが寂しげに積もっている。
その窓辺に、ひとりの子どもが座っていた。
三歳ほどだろうか。月光を溶かしたような銀の髪が、光の角度で淡い青藍を帯びる。
子どもは外の暗がりを見つめたまま、振り向かなかった。人の入ってきた気配にも、最初から何も望んでいないかのように、身じろぎひとつしない。
小さく固まった背中を見ただけで、エルミラには分かってしまった。この子は、ずっとたった一人で耐えてきたのだ。
「こんにちは」
返事はない。
「わたし、エルミラっていうの」
重ねた声にも、背中はぴくりとも動かなかった。
付き添いの侍女が、申し訳なさそうに声を落とす。
「この子は……どなたとも、お話しにならないのです」
「あ、そうなのね」
エルミラは怒りも焦りもせず、冷たい石床にふわりとしゃがんで、目線を合わせた。
白磁のような小さな顔。澄んだ銀灰の瞳の奥で、感情の揺らぎに合わせて、琥珀の色がちらちらと灯る。幼いはずのその瞳は、途方もない孤独と疲れに沈んでいた。
「お手て、つないでもいい?」
差し出した手のひらを、子どもはじっと見つめた。
「……いたく、ない?」
掠れた声だった。何をされるのか、怖いことなのか、分からなかったのだろう。
おそるおそる、小さな手が重なる。ひやりと冷たく、その奥に確かな温もりがあった。誰かの体温に自分から触れるのは、この子にとって初めてなのかもしれない。
その瞬間だった。
部屋の空気が、びりびりと震えた。窓枠がかたかたと鳴り、家具が一斉に小さく揺れ出す。
「な……!」
侍女の短い悲鳴。扉の外に控えていた護衛の騎士が、報せを携えて王宮の奥へ駆け出していく。
「う、あ……っ」
子どもの顔が苦しげに歪んだ。温かな手に触れた喜びと同時に、ずっと内へ押し込めてきた魔力の濁流が、堰を切って暴れ出したのだ。
エルミラは怯まなかった。小さな身体を両腕で、そっと、けれど力強く抱きしめる。
「大丈夫、ここにいるわ」
震える背に回した腕へ、ありったけの温もりを込めた。両の手から、淡く澄んだ癒しの光があふれ出す。
触れた途端、子どもの中で荒れ狂う奔流が、どっとエルミラの全身へ流れ込んできた。
「……っ」
息が詰まる。王家の血を引く者の魔力とは、これほどのものなのか。氾濫する大河のような力が、小さな身体を内側から軋ませていた。
けれど、押さえつけてはいけない。力を力でねじ伏せるのではなく、正しい流れへ導くだけ。
エルミラは目を閉じ、いちばん穏やかな景色を思い描いた。凪いだ水面。そこへ満ちていく、やわらかな月の光。その澄んだ流れを、荒れる濁流の傍らへ寄り添わせていく。
圧に耐えかねて、膝が震えた。押し流されそうな意識を、歯を食いしばって繋ぎ止める。
負けては、だめ。この子はいまも、苦しみと戦っている。自分が弱音を吐いたら、この子の痛みは終わらない。
「大丈夫よ。もう、大丈夫……」
腕に、少しだけ力を込めた。
どれほど経ったのだろう。四半刻か、もっと長かったのか、エルミラにも分からなくなっていた。
それでも少しずつ、本当に少しずつ、濁流は本来の川筋を取り戻していく。腕の中の固い身体から、すうっと力が抜けた。
「う……」
刻まれていた眉間の皺がほどける。エルミラが身体を離して覗き込むと、銀灰の瞳が、とろりと重たげにこすられていた。
「そう。そのままでいいの。今日は、お月さまも見ていてくれるから」
窓の外の月を、指でそっと示してみせる。
子どもはゆっくり窓へ顔を向け、それから、静かに瞼を閉じていった。強張っていた口元がほどけ、やがて規則正しい寝息が、部屋に響き始める。
エルミラは両手を膝へ下ろし、あどけない寝顔をしばらく見つめていた。指先は治療の余熱で、まだ細かく震えている。
* * *
様子を見に戻った侍女は、寝台の前で立ち尽くした。
「……眠って……おられます……」
震える声が、静けさに溶ける。
報せを受けた王妃が、大勢の護衛を連れて塔へ駆けつけた。息を切らして扉を押し開け、その光景を目にした途端、ぴたりと足を止める。月明かりの降る寝台で、我が子が、生まれて初めての穏やかな寝息を立てていた。
王妃は崩れるように寝台の傍らへ膝をつき、震える手を幼子の頬へ寄せる。
「眠ってる……」
低く呟いたきり、声もなく、ぽろぽろと涙をこぼした。
エルミラは離れた壁際から、寄り添う親子の姿を見つめていた。
* * *
そっと部屋を辞そうと扉に手をかけたとき、服の裾が、くいっと小さな力で引かれた。
振り返ると、眠気に揺れる目をした子どもが、エルミラのスカートの裾を握っている。
「……また」
掠れた声が、涙のようにぽろりと零れ落ちた。
エルミラは微笑んだ。
「ええ、また来るわ」
それが、すべての始まりだった。
* * *
記憶の波が引き、エルミラは瞼を開けた。窓の外では、あの夜と同じ月が輝いている。
「お母様」
アーシェが、そっと声をかけた。
「その男の子は……月を見ていたの?」
「ええ。あの子はね」
愛おしさの滲む声だった。
「昔から、お月さまが大好きだったの」
それ以上は、語らなかった。
アーシェは窓辺へ歩み寄り、母と並んで夜空を見上げる。白い満月が、ハイセルの屋敷も、遠い海の波間も、淡く照らしていた。
――あの夜の男の子も、こんなふうに月を見上げていたのだ。
ことり、と背後で小さな音がした。振り返ると、フィルの塔のてっぺんの積み木が、絨毯の上を転がっていく。
「あっ。お月さまのお席、おりてきちゃった」
ヴェルナルドの肩が、小さく揺れた。




