↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
アーシェリルリア ― 月がはぐくむ 蜜の夢 ―  作者: noyu
第三章 ―まだ誰も知らない宝物―

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

31/42

第八話 ―藍の翼は、笑顔を運んで―

 ハイセルの澄んだ実月の空を、ひとすじの深い群青の影が切り裂いていった。


 庭の手入れをしていた使用人が手を止めて見上げ、見慣れ始めた翼の軌跡へ静かに目礼を送る。治療の場が王都からこの領主館へ移されて、しばらくの時が流れていた。見張り台の鐘が緊迫を告げることはもうなく、オリーブの葉を揺らす風の中、この静かな来訪は館の日常になりつつある。。


 弧を描いた翼が芝生へ舞い降りる。羽ばたきの風が光の粒をきらりと散らし、その余韻の中から、銀髪の青年――ジルヴァンが降り立った。


「今日もよろしく頼む」


「お待ちしておりました。治療室へどうぞ」


 出迎えたセバルトが一礼し、先に立つ。ジルヴァンは短く頷き、慣れた足取りで屋敷の奥へ進んでいった。磨かれた廊下に、二人分の靴音だけが乾いて響く。


 ◇ ◇ ◇


 治療室には、干した薬草の甘く清潔な匂いが漂っていた。棚に並ぶ透明な小瓶、きちんと畳まれた白布。開け放たれた窓から、庭の緑のざわめきと、遠い潮騒がかすかに届く。


「失礼いたします、ジルヴァン様」


 エルミラはジルヴァンの手首へ指先を添え、静かに瞼を閉じた。波打つ魔力の流れを、一本ずつたどるように。


「――少し、魔力の乱れが強く残っておられますね」


「先日の遠征が、尾を引いているのかもしれん」


「どうか、ご無理をなさいませんように」


 交わす言葉は少ない。長い年月を重ねてきた信頼が、あいだの沈黙をやわらかくしていた。エルミラの掌から淡い癒しの光が滲み、ジルヴァンの内で波立つ高魔力の奔流を、絡んだ糸を解くように宥めていく。やがて部屋には、二人の呼吸と、窓の外で重なり合う葉擦れの音だけが残った。


 調整を終えて手を離すと、エルミラは傍らの小さな木のテーブルへ目をやった。素朴な白皿に、黄金色のタルトが並んでいる。昨日の焼き上がりで熱はとうに退き、星花の香りだけが、甘く気品を保って漂っていた。


 エルミラは一切れを小さく取り分け、ジルヴァンの前で自らの口へ運んだ。王弟へ供する際の変わらぬ作法――毒味を優雅に終えて、ふっと目元を和らげる。


「エルミラ殿、毒味など不要だと、いつも言っているのだがな」


「作法でございますから。……よろしければ、どうぞ」


「これは?」


「娘が『エッグタルト』と名付けた、新しい焼き菓子でございます」


 勧められるまま、ジルヴァンは一つを指先でつまんだ。


 さくり、と軽い音が静かな室内に響く。飴色の表面が崩れた先から、雪乳獣の乳と卵の濃やかなコクが広がり、星花の香りが追いかけるように鼻へ抜けていった。舌の上で、ゆっくりととける。


 ジルヴァンの手が止まった。


「――」


 少しの間を置いて、短い声が零れる。


「……これは、美味い」


 偽りのない本音だった。エルミラは目元をほころばせ、どこか誇らしげに言葉を添える。


「実は、娘が作りましたの」


 二つ目へ伸びかけていた手が、宙で止まる。


「娘御が?」


「ええ。昨日、厨房で嬉しそうに作っておりました」


 窓の外を風が渡り、オリーブの梢が小さく鳴った。ジルヴァンは手元のタルトへ視線を落としたまま、低く言う。


「エルミラ殿」


「はい」


「これほどの菓子だ。王宮や大貴族の耳に入れば、買い叩くことも、幼い職人を召し抱えて領地から引き離すことも、権力で製法を押さえることも、容易い」


 静かな声には凄みがあった。責める響きはない。ただ世の現実として、相手の覚悟を確かめている。


「その危険を、承知の上でのことか」


 エルミラの眼差しに、怯えの影はなかった。やわらかな笑みのまま、まっすぐに見つめ返す。


「ジルヴァン様は、そのようなことをなさるお方ではございませんでしょう?」


 迷いのない、芯の通った声だった。ジルヴァンの目が、わずかに見開かれる。


「……私に、後ろ盾となれという意味か」


「いいえ」


 エルミラは小さく首を振った。


「とても美味しく焼き上がりましたから、ジルヴァン様にも召し上がっていただきたかった。ただ、それだけでございます」


 ジルヴァンはしばらく黙っていた。やがて、ふっと肩の力を抜く。零れた息に、苦笑が混じった。畏れられる王弟の顔ではない、素の青年の、珍しく力の抜けた笑みだった。


「……一本取られたな」


 窓の外へ目をやる。


「治療の場をこの島へ移して、正解だったのかもしれん。身体を休められるうえ、これほど美味いものまで出てくる」


「ご多忙のところ、お運びいただくのは恐縮ですが」


「いや。ヴェラキスがやたらとこちらへ来たがる理由が、少し分かった気がする」


 エルミラは何も言わず、窓の向こうの庭へちらりと目をやって、微笑んだ。


 ◇ ◇ ◇


 日の差す庭で、アーシェはふと足を止めた。


 オリーブの木立が作る木漏れ日の中に、群青の翼の幻獣が静かに座っていた。


 海風が吹くたび、群青の鱗と毛並みの境目が、星屑のような細かな光をまとってきらめく。金の瞳が、まっすぐにアーシェを捉えていた。


 駆け寄ってくるでも、声を上げるでもない。ただそこにいるだけで、周りの空気が澄んでいくような存在感だった。


 アーシェが一歩踏み出すと、ヴェラキスも立ち上がり、ゆったりとした足取りで近づいてくる。


「また会えたのね」


 零れた小さな声に、ヴェラキスは目の前で腰を下ろし、こてん、と首を傾げた。


 たったそれだけの仕草が、「やあ、また会えたね」と言ってくれたように思えた。


「わたしのこと、覚えていてくれたの?」


 問いかけると、ヴェラキスは喉の奥を低く鳴らし、ふすっと温かな息を吐いて、鼻先を寄せてきた。


 くすくすと笑みが零れる。アーシェもつられて、こてん、と首を横に倒してみた。


――こんなに気高くて綺麗なのに、こんなに愛らしい仕草をするなんて。


 愛おしさを胸に抱きながら、ポケットから小さな包みを取り出した。今朝、ガストンが無言で持たせてくれた、切り分けたエッグタルトだった。


 手のひらに載せて差し出すと、ヴェラキスはすぐには口をつけなかった。大きな鼻先をふすふすと寄せて匂いを確かめ、アーシェの手に触れぬよう、ゆっくりと一口分を含む。


 さくっ、と軽やかな音がした。


 金の瞳が、驚きにすっと細められる。ひとつひとつの味わいを惜しむように噛みしめ、食べ終えると、礼を言うように、温かな鼻先を掌へ押し当ててきた。


「お口に合ってよかったわ」


 掌をくすぐる息に目を細めて、艶やかな頭をそっと撫でた。


 ◇ ◇ ◇


 やがてヴェラキスは大きな身体を低くして、芝の上に横たわった。群青の翼が、ゆるりと畳まれる。


 その温もりに引き寄せられるように、アーシェも傍らへ腰を下ろした。


 しばらくは、並んで座っているだけだった。海風が時おり通り抜け、毛並みとアーシェの深緑の巻き毛を、同じ向きに揺らしていく。芝の青い匂いの中で、気づけば、陽に温められた鱗と、その合間のやわらかな毛並みへ、背を預けていた。ヴェラキスは身じろぎもせず、小さな重みを受け止めている。


 そのまま、芝の上へぱたりと寝転んだ。見上げる空は澄み、白く千切れた雲が形を変えながら流れていく。背中へ伝わる力強い体温と、ゆったり刻まれる呼吸の音。瞼が、少しずつ重くなった。


 ――また、眠くなってきちゃったわ。


 噛み殺した小さな欠伸に気づいたのか、ヴェラキスが身を寄せ、群青の翼をそっと持ち上げた。羽毛の天蓋が、小さな身体をすっぽりと包み込む。


 風の音も、遠い潮騒も、羽毛の奥へ遠ざかっていく。アーシェはまどろみの底へ、静かに沈んでいった。


 ◇ ◇ ◇


 庭へ続く石畳の小道で、ジルヴァンは足を止めた。


 オリーブの木陰、群青の翼の下に、小さな身体が宝物のようにしまい込まれている。


 銀灰色の瞳を細め、しばらくその光景を見つめた。


 海冥竜の討伐ののちにも、同じ眺めを目にした。誰にも安易に甘えを見せぬ相棒が、この幼い少女の前でだけは、驚くほど穏やかな眼差しをしている。治療室で思い描いたどの理由とも違う答えが、そこにあった。


『……もう少し、このままで』


 頭の中へ響いた相棒の念話に、思わず苦笑が漏れる。あの日と同じ、頑なな頼みだった。


「……ああ」


 ジルヴァンはそれ以上近づかず、木漏れ日の中で待つことにした。


 舌に残るタルトの余韻。エルミラとの、飾らず深い信頼に満ちたやりとり。そして、目の前の穏やかな光景。いつしか、引き結んでいた口元に、小さな笑みが浮かんでいた。


 ◇ ◇ ◇


 四半刻ほどが過ぎた頃、アーシェの瞼がゆっくりと開いた。


 最初に映ったのは、深い群青の羽毛。それから、少し離れた木陰に立つ、銀髪の騎士の姿だった。


「あ……わたし、また寝ちゃっていたのね」


 はっとして跳ね起き、頬を赤らめる。ヴェラキスも翼を開いて身を起こし、アーシェとジルヴァンを見比べるように金の瞳を動かしてから、一歩後ろへ退いた。


 ジルヴァンが歩み寄ってくる。


「驚かせてしまったな」


 低く落ち着いた、どこか優しい声だった。


「私はジルヴァン。……この風変わりな相棒は、ヴェラキスという」


 誇らしげに添えられた視線の先で、群青の翼が誇らしく揺れた。


 その名を聞いて、アーシェの目がぱっと丸くなった。


「――ヴェラキス。そうだったのね!」


 ずっと心の中で「綺麗な幻獣さん」と呼んでいた相手に、ようやく本当の名前がついた。それが飛び上がりたいほど嬉しくて、頬が自然にほころぶ。


「アーシェリルリアです。騎士さま、ヴェラキス」


 応えるように、ヴェラキスがこてん、と首を倒した。あまりに見事な間合いに、アーシェは今度こそ、声を立てて笑った。


 * * *


 陽が茜色に傾き、ジルヴァンが帰り支度を整える頃、アーシェはヴェラキスの足元へ駆け寄った。


「また、遊ぼうね!」


 手を振ると、ヴェラキスは名残を惜しむように、大きな鼻先をアーシェの髪へ寄せた。ふうっと吹きかけられた息が、巻き毛をやわらかく揺らして、離れていく。


「行くぞ、ヴェラキス」


 群青の翼が大きく開いた。風が芝を波立たせ、アーシェの髪を舞い上げる。次の瞬間、藍の影は実月の空へ駆け上がっていった。


 アーシェは庭の真ん中で、いつまでも手を振り続けた。


 ◇ ◇ ◇


 風を裂いて高度を上げながら、ジルヴァンは一度だけ地上を振り返った。


 庭の真ん中で、深緑の巻き毛を風になびかせた小さな人影が、まだ懸命に手を振っている。豆粒ほどになっても止まらないその手を視界に収めながら、来てよかった、と思った。


 来てよかった、と思った。次の治療の卓には何が載るのかと、ふと考えている自分に気づいて、口元がゆるむ。


 茜に染まる空の高みで、群青の影は、ゆっくりと光の中へ溶けていった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。