第八話 ―藍の翼は、笑顔を運んで―
ハイセルの澄んだ実月の空を、ひとすじの深い群青の影が切り裂いていった。
庭の手入れをしていた使用人が手を止めて見上げ、見慣れ始めた翼の軌跡へ静かに目礼を送る。治療の場が王都からこの領主館へ移されて、しばらくの時が流れていた。見張り台の鐘が緊迫を告げることはもうなく、オリーブの葉を揺らす風の中、この静かな来訪は館の日常になりつつある。。
弧を描いた翼が芝生へ舞い降りる。羽ばたきの風が光の粒をきらりと散らし、その余韻の中から、銀髪の青年――ジルヴァンが降り立った。
「今日もよろしく頼む」
「お待ちしておりました。治療室へどうぞ」
出迎えたセバルトが一礼し、先に立つ。ジルヴァンは短く頷き、慣れた足取りで屋敷の奥へ進んでいった。磨かれた廊下に、二人分の靴音だけが乾いて響く。
◇ ◇ ◇
治療室には、干した薬草の甘く清潔な匂いが漂っていた。棚に並ぶ透明な小瓶、きちんと畳まれた白布。開け放たれた窓から、庭の緑のざわめきと、遠い潮騒がかすかに届く。
「失礼いたします、ジルヴァン様」
エルミラはジルヴァンの手首へ指先を添え、静かに瞼を閉じた。波打つ魔力の流れを、一本ずつたどるように。
「――少し、魔力の乱れが強く残っておられますね」
「先日の遠征が、尾を引いているのかもしれん」
「どうか、ご無理をなさいませんように」
交わす言葉は少ない。長い年月を重ねてきた信頼が、あいだの沈黙をやわらかくしていた。エルミラの掌から淡い癒しの光が滲み、ジルヴァンの内で波立つ高魔力の奔流を、絡んだ糸を解くように宥めていく。やがて部屋には、二人の呼吸と、窓の外で重なり合う葉擦れの音だけが残った。
調整を終えて手を離すと、エルミラは傍らの小さな木のテーブルへ目をやった。素朴な白皿に、黄金色のタルトが並んでいる。昨日の焼き上がりで熱はとうに退き、星花の香りだけが、甘く気品を保って漂っていた。
エルミラは一切れを小さく取り分け、ジルヴァンの前で自らの口へ運んだ。王弟へ供する際の変わらぬ作法――毒味を優雅に終えて、ふっと目元を和らげる。
「エルミラ殿、毒味など不要だと、いつも言っているのだがな」
「作法でございますから。……よろしければ、どうぞ」
「これは?」
「娘が『エッグタルト』と名付けた、新しい焼き菓子でございます」
勧められるまま、ジルヴァンは一つを指先でつまんだ。
さくり、と軽い音が静かな室内に響く。飴色の表面が崩れた先から、雪乳獣の乳と卵の濃やかなコクが広がり、星花の香りが追いかけるように鼻へ抜けていった。舌の上で、ゆっくりととける。
ジルヴァンの手が止まった。
「――」
少しの間を置いて、短い声が零れる。
「……これは、美味い」
偽りのない本音だった。エルミラは目元をほころばせ、どこか誇らしげに言葉を添える。
「実は、娘が作りましたの」
二つ目へ伸びかけていた手が、宙で止まる。
「娘御が?」
「ええ。昨日、厨房で嬉しそうに作っておりました」
窓の外を風が渡り、オリーブの梢が小さく鳴った。ジルヴァンは手元のタルトへ視線を落としたまま、低く言う。
「エルミラ殿」
「はい」
「これほどの菓子だ。王宮や大貴族の耳に入れば、買い叩くことも、幼い職人を召し抱えて領地から引き離すことも、権力で製法を押さえることも、容易い」
静かな声には凄みがあった。責める響きはない。ただ世の現実として、相手の覚悟を確かめている。
「その危険を、承知の上でのことか」
エルミラの眼差しに、怯えの影はなかった。やわらかな笑みのまま、まっすぐに見つめ返す。
「ジルヴァン様は、そのようなことをなさるお方ではございませんでしょう?」
迷いのない、芯の通った声だった。ジルヴァンの目が、わずかに見開かれる。
「……私に、後ろ盾となれという意味か」
「いいえ」
エルミラは小さく首を振った。
「とても美味しく焼き上がりましたから、ジルヴァン様にも召し上がっていただきたかった。ただ、それだけでございます」
ジルヴァンはしばらく黙っていた。やがて、ふっと肩の力を抜く。零れた息に、苦笑が混じった。畏れられる王弟の顔ではない、素の青年の、珍しく力の抜けた笑みだった。
「……一本取られたな」
窓の外へ目をやる。
「治療の場をこの島へ移して、正解だったのかもしれん。身体を休められるうえ、これほど美味いものまで出てくる」
「ご多忙のところ、お運びいただくのは恐縮ですが」
「いや。ヴェラキスがやたらとこちらへ来たがる理由が、少し分かった気がする」
エルミラは何も言わず、窓の向こうの庭へちらりと目をやって、微笑んだ。
◇ ◇ ◇
日の差す庭で、アーシェはふと足を止めた。
オリーブの木立が作る木漏れ日の中に、群青の翼の幻獣が静かに座っていた。
海風が吹くたび、群青の鱗と毛並みの境目が、星屑のような細かな光をまとってきらめく。金の瞳が、まっすぐにアーシェを捉えていた。
駆け寄ってくるでも、声を上げるでもない。ただそこにいるだけで、周りの空気が澄んでいくような存在感だった。
アーシェが一歩踏み出すと、ヴェラキスも立ち上がり、ゆったりとした足取りで近づいてくる。
「また会えたのね」
零れた小さな声に、ヴェラキスは目の前で腰を下ろし、こてん、と首を傾げた。
たったそれだけの仕草が、「やあ、また会えたね」と言ってくれたように思えた。
「わたしのこと、覚えていてくれたの?」
問いかけると、ヴェラキスは喉の奥を低く鳴らし、ふすっと温かな息を吐いて、鼻先を寄せてきた。
くすくすと笑みが零れる。アーシェもつられて、こてん、と首を横に倒してみた。
――こんなに気高くて綺麗なのに、こんなに愛らしい仕草をするなんて。
愛おしさを胸に抱きながら、ポケットから小さな包みを取り出した。今朝、ガストンが無言で持たせてくれた、切り分けたエッグタルトだった。
手のひらに載せて差し出すと、ヴェラキスはすぐには口をつけなかった。大きな鼻先をふすふすと寄せて匂いを確かめ、アーシェの手に触れぬよう、ゆっくりと一口分を含む。
さくっ、と軽やかな音がした。
金の瞳が、驚きにすっと細められる。ひとつひとつの味わいを惜しむように噛みしめ、食べ終えると、礼を言うように、温かな鼻先を掌へ押し当ててきた。
「お口に合ってよかったわ」
掌をくすぐる息に目を細めて、艶やかな頭をそっと撫でた。
◇ ◇ ◇
やがてヴェラキスは大きな身体を低くして、芝の上に横たわった。群青の翼が、ゆるりと畳まれる。
その温もりに引き寄せられるように、アーシェも傍らへ腰を下ろした。
しばらくは、並んで座っているだけだった。海風が時おり通り抜け、毛並みとアーシェの深緑の巻き毛を、同じ向きに揺らしていく。芝の青い匂いの中で、気づけば、陽に温められた鱗と、その合間のやわらかな毛並みへ、背を預けていた。ヴェラキスは身じろぎもせず、小さな重みを受け止めている。
そのまま、芝の上へぱたりと寝転んだ。見上げる空は澄み、白く千切れた雲が形を変えながら流れていく。背中へ伝わる力強い体温と、ゆったり刻まれる呼吸の音。瞼が、少しずつ重くなった。
――また、眠くなってきちゃったわ。
噛み殺した小さな欠伸に気づいたのか、ヴェラキスが身を寄せ、群青の翼をそっと持ち上げた。羽毛の天蓋が、小さな身体をすっぽりと包み込む。
風の音も、遠い潮騒も、羽毛の奥へ遠ざかっていく。アーシェはまどろみの底へ、静かに沈んでいった。
◇ ◇ ◇
庭へ続く石畳の小道で、ジルヴァンは足を止めた。
オリーブの木陰、群青の翼の下に、小さな身体が宝物のようにしまい込まれている。
銀灰色の瞳を細め、しばらくその光景を見つめた。
海冥竜の討伐ののちにも、同じ眺めを目にした。誰にも安易に甘えを見せぬ相棒が、この幼い少女の前でだけは、驚くほど穏やかな眼差しをしている。治療室で思い描いたどの理由とも違う答えが、そこにあった。
『……もう少し、このままで』
頭の中へ響いた相棒の念話に、思わず苦笑が漏れる。あの日と同じ、頑なな頼みだった。
「……ああ」
ジルヴァンはそれ以上近づかず、木漏れ日の中で待つことにした。
舌に残るタルトの余韻。エルミラとの、飾らず深い信頼に満ちたやりとり。そして、目の前の穏やかな光景。いつしか、引き結んでいた口元に、小さな笑みが浮かんでいた。
◇ ◇ ◇
四半刻ほどが過ぎた頃、アーシェの瞼がゆっくりと開いた。
最初に映ったのは、深い群青の羽毛。それから、少し離れた木陰に立つ、銀髪の騎士の姿だった。
「あ……わたし、また寝ちゃっていたのね」
はっとして跳ね起き、頬を赤らめる。ヴェラキスも翼を開いて身を起こし、アーシェとジルヴァンを見比べるように金の瞳を動かしてから、一歩後ろへ退いた。
ジルヴァンが歩み寄ってくる。
「驚かせてしまったな」
低く落ち着いた、どこか優しい声だった。
「私はジルヴァン。……この風変わりな相棒は、ヴェラキスという」
誇らしげに添えられた視線の先で、群青の翼が誇らしく揺れた。
その名を聞いて、アーシェの目がぱっと丸くなった。
「――ヴェラキス。そうだったのね!」
ずっと心の中で「綺麗な幻獣さん」と呼んでいた相手に、ようやく本当の名前がついた。それが飛び上がりたいほど嬉しくて、頬が自然にほころぶ。
「アーシェリルリアです。騎士さま、ヴェラキス」
応えるように、ヴェラキスがこてん、と首を倒した。あまりに見事な間合いに、アーシェは今度こそ、声を立てて笑った。
* * *
陽が茜色に傾き、ジルヴァンが帰り支度を整える頃、アーシェはヴェラキスの足元へ駆け寄った。
「また、遊ぼうね!」
手を振ると、ヴェラキスは名残を惜しむように、大きな鼻先をアーシェの髪へ寄せた。ふうっと吹きかけられた息が、巻き毛をやわらかく揺らして、離れていく。
「行くぞ、ヴェラキス」
群青の翼が大きく開いた。風が芝を波立たせ、アーシェの髪を舞い上げる。次の瞬間、藍の影は実月の空へ駆け上がっていった。
アーシェは庭の真ん中で、いつまでも手を振り続けた。
◇ ◇ ◇
風を裂いて高度を上げながら、ジルヴァンは一度だけ地上を振り返った。
庭の真ん中で、深緑の巻き毛を風になびかせた小さな人影が、まだ懸命に手を振っている。豆粒ほどになっても止まらないその手を視界に収めながら、来てよかった、と思った。
来てよかった、と思った。次の治療の卓には何が載るのかと、ふと考えている自分に気づいて、口元がゆるむ。
茜に染まる空の高みで、群青の影は、ゆっくりと光の中へ溶けていった。




