第九話 ―まだ、誰も知らない宝物―
離れの古い扉を軽く叩くと、返事より先に、室内でがたん、と重いものの倒れる音がした。
「――どうぞ! お待ちしておりました、アーシェ様!」
勢いよく開いた扉の向こうで、くしゃくしゃの薄茶の髪を揺らしたベルトが、ずり落ちかけた丸眼鏡を指で押し上げる。満面の笑みだった。
棚と机に囲まれた部屋には、干した草や樹皮の匂いに混じって、ひやりと乾いた土の匂いが漂っている。窓辺では、実月の午後の日差しが、木皿に並んだ小石の肌を一つずつ白く縁取っていた。
「アーシェ様、本日は鉱物です。とっておきの、ハイセル産の鉱物たちですよ!」
「ふふ、今日は何種類用意してくれたの?」
「三十八種類です!」
迷いのない即答だった。集め尽くした学者の誇らしさが、丸眼鏡の奥でそのまま光っている。あまりに素直な胸の張りように、アーシェはくすくすと笑ってしまった。
「ではまず、こちらから。月光石にございます」
ベルトが手のひらの薄青い小石を窓辺にかざすと、透けた奥で、青白い光の粒が揺らめいた。
「まあ、とても綺麗ね」
「続きまして、こちらは火無石。強く擦ると、火を起こさずに熱だけを生みます」
「便利ね」
「そしてこちらは――」
「綺麗な石ね」
「……アーシェ様、私はまだ何も説明しておりません」
ベルトが丸眼鏡の奥で目を細め、半分むくれて見せる。「ごめんなさい」と目元を和らげたアーシェは、今度は身を乗り出して、卓上の石を覗き込んだ。
それからもベルトは嬉々として、石を一つ置いては名と由来と特徴を、矢継ぎ早に語っていく。木皿に石の触れる、こつん、こつんという音が小気味よく続いた。語りの調子は最高に心地よいけれど、中身がどれほど耳に残るかは、また別の話である。
「こちらは水を弾く水弾石、そちらは叩くと澄んだ音の鳴る鳴響石、そしてこの黒い石は――」
「ねえベルト、次」
「はい!」
促されるたび、ベルトは新しいおもちゃを披露する幼子のように、次の石を取り出す。自分の集めたものを誰かに見てもらえること自体が、彼にとっては何よりの喜びらしい。
* * *
十一種類目を数えた頃、戸口に大きな影が差した。
「……失礼します」
料理長のガストンだった。強面の顔を扉の内へ傾け、アーシェの姿を認めて短く告げる。
「花混ぜの件で」
「……あ」
アーシェは小さな石を指先に載せたまま、ぽかんと固まった。今朝、厨房で自分から頼んだのだった。離れに寄ってから伺うので、花響木の扱いを相談させてほしい、と。ベルトの石に夢中で、すっかり抜け落ちていた。
「アーシェ様、まだ二十七種類ほど控えておりますが」
ベルトが真顔で、残りの数を申告する。冗談の気配などかけらもない律儀さに、アーシェは耐えきれず吹き出した。ガストンの口の端も、ほんのわずかに緩む。
「ごめんなさい、ガストン。花響木のお話は、後ほど厨房に伺ってからでもいいかしら」
「……構いません。急ぎではない」
短く言って一礼し、踵を返しかけた――その背が、ふと止まる。視線は棚の隅に転がる灰白色の塊に向けられていた。
「……白泡石か」
「おや、ガストン殿。ご存じでしたか」
「厨房にも転がっている」
ベルトはうなずいた。
「銀器の曇り取りや、頑固な焦げ付きを磨き落とすのに使いますね。珍しくも何ともない石です」
先ほどまでの熱を帯びた解説とは打って変わって、棚の掃除道具でも紹介するような、あっさりした声音だった。
大人たちの目が次の石へ流れていく中で、アーシェだけが、その無骨な塊へそっと手を伸ばした。
「ねえベルト、触ってみてもいいかしら」
「はい、どうぞ。毒も危険もありませんから」
両手で包むように受け取ると、見た目のわりにずしりと重い。ひんやりとした肌は粗くざらつき、指先に白い粉が薄く移った。
「この石、水に濡らすとどうなるの?」
「柔らかく崩れやすくなります。……ただ、それだけですよ」
ベルトが水差しから小皿へ数滴を垂らし、石の端を浸してみせる。灰白色の表面がしっとりと水を含み、わずかにほぐれた。けれど、泡立つ気配はどこにもない。
「焦げは、それで磨く」
扉の傍で足を止めていたガストンが、低い声を添えた。
「鍋の油は、月柑の汁で拭く」
「ああ、聞いたことがあります。月柑の汁は、油汚れによく効くと」
ベルトの相槌を聞き届けると、ガストンは今度こそ深く一礼し、廊下の奥へ去っていった。
足音が遠のいて、手のひらには石の重みだけが残る。
――焦げを磨く白い粉。水では崩れるだけ。酸っぱい月柑の汁。
指先の白い粉を、親指でこすりあわせる。
――重曹。
頭の奥で、カチリと音がした。遠い前世の記憶が鮮やかによみがえる。
――お酢やレモンと出会うと、しゅわしゅわと白い泡を立てる粉。あたたかい生地を、ふっくらと膨らませてくれたあの泡。
――もしも、この石が。
「アーシェ様? どうかされましたか」
固まったままのアーシェを案じて、ベルトが覗き込んでくる。
「……ううん、何でもないの。少し考え事をしていただけ」
慌てて首を振り、石を握る指にそっと力を込めた。灰白色の無骨な塊は、もうアーシェの掌の中で、ただの掃除の石ではなくなっている。
◇ ◇ ◇
離れを出ると、実月の夕暮れの風が、オリーブの葉をさわさわと揺らしていた。
白泡石。
屋敷の誰もが知っていて、使い古してきたただの粗い石。焦げを磨き、焦げつきを落とすためだけの道具。
けれど、答えはまだ誰の目にも見えていないだけかもしれない。
茜色に染まる空を見上げて、アーシェは立ち止まった。遠く、厨房の煙突から、夕餉の仕込みを告げる煙がまっすぐ秋の空へとのぼっていく。
――石なら、厨房にもある。
「……今度、ガストンにお願いして、内緒で試してみましょう」
つぶやきは葉擦れにまぎれ、指先に残った白い粉だけが、夕映えの色をうっすらと映していた。




