―月光の下、姉さまの手―
小さな咳と一緒に、フィルは目を覚ました。
胸の奥が、くすぶる薪のように熱い。息を吸うたび、その熱が細い肋骨の内側をなめて、喉の手前で苦しさに変わる。
「……ぼく……」
掠れた声がこぼれると、暗がりからあたたかな手がすっと伸びてきた。
「フィル、大丈夫よ。母さまがついているわ」
寝間着のまま、髪を後ろで緩く結わえただけの母さまが、寝台の縁に腰を下ろす。こわばった小さな手を両手で包み、もう片方の手のひらを胸の上へ置いた。
指先から、水面に広がる波紋のように、淡い月色の光が滲み出す。光は胸の奥へしっとりと沈み込み、荒れて渦を巻いていた魔力を、ほどくように静めていった。
「ふ……っ」
詰まっていた息が、ひとつ、溶けて出た。
「全部は治せないけれど……流れを整えましょうね」
囁く声と一緒に、母さまの手が背中をゆっくりさする。その手のひらの重みだけで、小さな身体には十分だった。フィルは目を閉じ、身をゆだねた。
「母さま……ぼく」
「なあに」
「ぼく、大きくなれる……?」
思ったより小さな声だった。答えを聞くのが少し怖くて、喉の奥が縮んだせいかもしれない。
背中をさする指が、ぴたりと止まる。瞬きひとつぶんの間。薄暗い視界の中で、母さまの目元がかすかに翳った気がした。
けれどそれは本当に一瞬のことで、次に見えたのは、いつもの深い微笑みだった。
「大丈夫」
「……」
「焦らなくていいの。あなたはあなたの速さで、ちゃんと大きくなるわ」
その言葉が、冷えた身体の奥へ染み込んでくる。理由はうまく言えない。それでも、母さまがそう言うのなら、きっと本当に大丈夫なのだと思えた。
「さあ、いつものお部屋へ行きましょうね」
抱き上げられると、洗いたての布と薬草の匂いがした。何度も運ばれて覚えた腕の中だ。廊下の暗がりも、重い扉の軋む音も、その部屋へ続く道しるべのようなものだった。
◇ ◇ ◇
ムーンルームの扉が開くと、白銀の光が二人を迎えた。
大きな窓から、満月の光がやわらかな絨毯へ降りそそいでいる。部屋の空気は、風のない湖面のように凪いでいた。
「ここはね、月の光が、いちばんやさしい場所なの」
囁いて、母さまはフィルを寝台へ横たえた。何度も聞いた言葉なのに、聞くたび、重かった身体がほんの少し軽くなる。
「上弦の月を過ぎて満月が近づくと、フィルの中の魔力も、お月さまと一緒に膨らんでしまうのね。……でも、今夜は満月。お月さまが、いちばん上手に流れを整えてくれるわ。新月へ向かう頃には、またゆっくり休みましょうね」
額にかかった髪が、指先で撫で上げられる。窓の向こうには、ぽっかりと丸い月が浮かんでいた。その光が、胸元へ寄り添うように降り積もっていく。
息の苦しさが、少しずつほどけた。くすぶっていた熱が、月明かりと母さまの手のひらに溶けて、遠のいていく。
「……気持ちいい。お月さまが、むねの中に、おりてきたみたい」
「ふふ、そう。よかったわ」
母さまは小さな頬を、つん、と指先でつついた。
「フィルのほっぺ、あったかいわね」
「母さまの手も、あったかい」
二人だけの笑みが、月明かりの中で重なる。それ以上の言葉はいらなかった。
やがて、手がそっと離れる。額に、おやすみの口づけがひとつ。扉の閉まる音は、小さく、遠かった。
* * *
重たくなっていく瞼の裏で、フィルはふと、あの日のことを思い出した。
まだ、今よりもっと小さかった頃。窓辺から庭をぼんやり眺めていた日のことだ。
姉さまが、庭の青い草をかじっていた。口に入れた途端、顔をくしゃりと歪めて、そのまま芝生にぺたりと座り込んでしまう。
「あ……」
思わず声が出て、窓ガラスに頬をくっつけた。姉さまは、どこか苦しいのだろうか。それとも、元気になる特別な草なのかもしれない。そう思ったら、じっとしていられなかった。昼下がり、薬湯を運んできた若いメイドに、そっと尋ねてみる。
「ねえ」
「はい、フィル様」
「あの草を食べたら、元気になるの?」
「え?」
メイドは戸惑って、窓の外の庭へ目をやった。
「……た、多分、違うと思いますわ」
「そうなの?」
「お嬢様は、きっと何か大切なことを調べていらっしゃるのでしょう」
「ぼくも食べたら、元気になるかな」
「そ、それは……やめておいた方が、よろしいかと……」
「そっかぁ……」
フィルは小さな肩を落とした。元気になる草があるのなら、自分も食べてみたかったのに。
けれど、その夜のことだ。苦しくて眠れずにいると、廊下から忍ぶような足音が近づいて、扉がそっと開いた。
「フィル、眠れないの?」
寝間着姿の姉さまだった。寝ぼけた顔を片手でこすりながら、迷いもせず、まっすぐ寝台まで歩いてくる。
「姉さま、昼間は大丈夫だった?」
「ん? ああ、あれ? もう、とっても苦かったのよ!」
あっけらかんとした声に、拍子抜けした。
「……苦いだけ?」
「そう、ただ苦かっただけ!」
けらけらと笑う顔を見ていたら、ひっかかっていた小さな不安が、すうっと消えていった。
姉さまはフィルの隣にちょこんと座り、頭をひと撫でしてから、両腕を広げてみせる。
「おいで」
おずおず寄ると、小さな腕がぎゅっと抱きしめてくれた。日向のような、甘い匂いがする。
「大丈夫、大丈夫」
背中を、とん、とん、と一定の拍で叩かれる。それから、手を握られた。姉さまの手は、自分のよりほんの少し大きいだけの、小さな手。なのに、不思議なほど頼もしかった。
しばらく、二人で肩を寄せていた。指先から、姉さまの体温が伝わってくる。荒れていた呼吸は、少しずつ、凪いでいった。
けれど――安心したのは、フィルだけではなかったらしい。
「……むにゃ……おいしい……」
気づけば、規則正しい寝息が聞こえていた。手を握ったまま、すやすやと眠っている。
「姉さま、寝ちゃった……」
声を殺して、肩を揺らして笑った。
それでも姉さまの手は、最後まで、フィルの手を離さなかった。あの夜の手のひらは、今も指先に残っている。
* * *
あれから、どれくらいの夜を重ねただろう。
母さまが部屋をあとにされてから、しばらく経った頃。今夜も、部屋の扉が細く開いた。隙間から覗いたのは、案の定、大好きな姉さまの顔だった。
「フィル、眠れそう?」
「姉さま」
姉さまは足音を忍ばせて入ってくると、寝台の傍らの椅子に腰を下ろした。腕には、いつもの本を抱えている。
「ガストンが焼いてくれたスコーンが、とっても上手にできたの」
「うん」
「今度、またフィルと一緒にたくさん焼きましょうね」
「たべたい! ぼくも、いっしょにつくる」
「ええ、たくさん焼きましょう」
身を乗り出して、頭をくしゃくしゃと撫でられる。
「えらいえらい。今日もよく頑張ったわね」
「頑張ったよ」
「うん、うん」
頭を撫でていた手が頬へ滑り、指先で、つん、と鼻先をつついた。フィルは目を細める。
「姉さま、くすぐったいよ」
「ふふ、可愛いから、つい」
小さな手が、そっと握られる。握り返すと、姉さまは嬉しそうに笑った。
「今日も、手を繋いでいてあげる」
「うん……ありがとう」
重ねた手のひらから、ぽかぽかが伝わってくる。ほどなく姉さまは、空いた片手で膝の本を開いた。
ページをめくる音が、ひとつ。また、ひとつ。
やがて、その音もしなくなった。
そっと目を開けると、姉さまは本に手を添えたまま、椅子にもたれて眠っていた。満月の光が、小さな寝顔を白く照らしている。
「……もっと……甘く……」
寝言だった。夢の中でお菓子の生地でもこねているのか、指先がひくひくと動く。
フィルは両手で口を押さえて、くすくす笑った。また、先に眠ってしまった。けれど、ちっとも嫌じゃない。あの夜と同じぽかぽかが、お腹のあたりに灯っている。
◇ ◇ ◇
フィルは、窓の向こうの満月を見上げた。ムーンルームの隅々まで、白い光が満ちている。姉さまの寝息と、自分の呼吸だけが、静けさの中に溶けていた。
姉さまは、いつもそうだ。苦しくて不安な夜には、必ず来てくれる。手を繋いで、頭を撫でて、ぎゅっとしてくれる。それなのに、いつも決まって、自分より先に眠ってしまう。
今はまだ、守ってもらうばかりだ。母さまの手も、姉さまの手も、いつもフィルを包んでくれる。
けれど、いつか。
姉さまが悲しい夜には、今度はぼくが、その手を握り返してあげたい。母さまが疲れた夜には、ぼくが「大丈夫だよ」と笑って、抱きしめてあげたい。
それに、椅子で眠ってしまった姉さまには、ぼくが毛布を掛けてあげられるようになりたい。
小さな手を、ぎゅっと握ってみる。今はまだ、誰かに握ってもらうことしかできない手だけれど。
――もっと、大きくなりたい。
言葉にはせず、心の中でだけ、そっと誓った。
姉さまの手を、今度はぼくから、しっかり握れるように。そのあとは、父さまも母さまも、みんなを守れるくらいに。
フィルは寝台の毛布の端をつまんで、うんと腕をのばした。姉さまの膝には、まだ届かない。それでも、つまんだ端を、ほんの少しだけそちらへ寄せてみる。
窓の外では、月が変わらぬ白銀の光をたたえていた。椅子で眠る姉と、寝台で目を閉じる弟を、静かに照らし続けている。




