第一話 ―階段の記憶と、離さなかった手―
ランフォード男爵邸の吹き抜けに面した大階段には、朝晩の冷えが居座っていた。重厚なオークの踏み板には、底冷えを和らげる深紅の織物が敷き連ねられている。
「――だから、私は行きません」
セリアの声は、かすかに震えていたけれど、芯を残してまっすぐに響いた。読唇のために少しだけ上げた顎と、見つめ返す水色の瞳。段の上に立つ兄は、妹の拒絶に眉を吊り上げ、高みから見下ろした。
「お前に選ぶ権利があるとでも思っているのか」
「お父様がお決めになった縁談です。私の気持ちなど、誰も……誰も聞いてくださいません」
「贅沢を言うな。母親の血筋も怪しいお前のようなものを、あの家が拾ってくださるだけでもありがたいと思え」
兄の怒声は吹き抜けの石壁に跳ね返って大きく反響し、遠くで給仕していた使用人たちが、怯えたように足を止める気配がした。
「せめて――話だけでも、お父様に――」
すがるように差し出した言葉は、最後まで形にならなかった。苛立ちを募らせた兄の手が、セリアの華奢な肩を荒々しく突く。突き飛ばすつもりまではなかったのかもしれない。けれど、一歩退こうとした細い踵は絨毯の端を滑り、あっけなく均衡を崩した。
「セリア――!」
兄の喉から、途切れ途切れの叫びが上がった。自分の声なのか、階下の使用人たちの悲鳴なのか、混乱した頭では判別がつかなかった。
踏み板に、手すりに、身体を打ちつける鈍い音が、一段、また一段と、静まり返った館内に響いていく。やがて石敷きの広間まで転がり落ち、男爵家が自慢にしていた厚手の羊毛絨毯の上で、セリアは動かなくなった。淡いミルクティー色の髪が、力なく絨毯に広がる。
ざわめきが、波のように屋敷じゅうへ広がった。悲鳴を上げて駆け寄る者、右往左往する者、ただ立ち尽くす者。その中で兄だけが、階段の途中で血の気を失ったまま、震えて動けずにいた。
◇ ◇ ◇
「息はある! 急ぎ馬車を出せ! ハイセル領主館へ向かうのだ!」
錯乱する屋敷の中で、ようやく正気を取り戻した執事が鋭く叫んだ。毛布にくるまれたセリアの身体は、血の気を失い、冷えていく人形のようにぐったりと弛んでいる。
石畳を叩く蹄の音が、冷たい風の渡る街道を、なりふり構わず駆け抜けていった。
領主館の正面扉が荒々しく開かれ、着衣を乱した執事が、セリアを抱いたまま滑り込むように膝をつく。
「エルミラ様……! どうか、どうかセリア様をお救いください……!」
悲鳴を聞きつけて廊下へ駆けつけたアーシェは、執事の腕の中でぐったりと横たわるセリアの姿に息を詰めた。紙のように白い顔、力なく垂れた小さな手。浅く、途切れてしまいそうな呼吸。
「お母様……!」
震える声で見上げた先で、エルミラは取り乱した気配をかけらも見せなかった。静かに、けれど迷いなく使用人たちへ指示を出し、セリアを客舎の寝台へ運ばせる。
◇ ◇ ◇
診察を終えたエルミラの表情は、静かだったが、いつもより硬かった。
「命に別状はありません。ただ――右腕の骨と、頭の傷。これは長く見ていく必要があります」
「長く、とは」
ヴェルナルドが、静かに問い返した。
「一度の治療では終わりません。数日おきに、何度も」
部屋の隅では、遅れて駆けつけたセリアの父――ランフォード男爵が、腕を組んだまま、娘の寝顔よりも先に別のことを口にした。
「……それで、費用はいかほどに」
エルミラは、金額を淡々と告げた。決して法外な額ではない。この国の治療師として、正当な対価だった。
「娘の、友人なのでしょう。もう少し、融通が利くのではないか」
「治療費は、身分や関係で変わるものではありません」
男爵は、舌打ちに近い息を吐いた。
「治療費を払えと言うのか」
声が、わずかに尖る。
「その上、これほどの傷を負っては、子爵家との縁談も駄目になってしまう」
握った拳が、椅子の肘掛けを打った。
「せっかく後添いの話がまとまりかけていたのに」
抑えた声のまま、言葉だけが少しずつ重く濁っていく。
「嫁入りの支度にも、金をかけていたというのに」
男爵は、苦々しげに顔を歪めた。
「これでは何もかも無駄だ」
「どれだけの損になると思っている」
最後の一言だけは、抑えが利かなかったように、部屋に低く響いた。
空気が変わった。エルミラは、男爵をまっすぐに見据えた。声は荒らげない。それでも、その静けさは怒鳴り声よりもよほど重く、部屋に沈んだ。
「傷ついた娘さんを前にして、最初に口になさるのが、お金のお話なのですね」
わずかな沈黙が落ちた。
「この子は、売り物ではありません……値段を付けられる存在でもありません」
ヴェルナルドが、わずかに目を伏せる。
「ここにいるのは、一人の傷ついた少女です。私は治療師として、その命を守ります」
男爵は気圧されたように一歩下がったが、すぐに苛立たしげに口を開いた。
「綺麗事は結構。払えぬと言ったら、どうする」
エルミラは、ほんの少しの沈黙のあと、静かに答えた。
「お支払いが難しいのであれば、ご安心ください。治療は最後まで責任を持って行います」
「……では、治療費は」
「借財として記録いたします」
「……借財?」
「セリアさんには、ハイセル家で行儀見習いとして過ごしていただき、その中で少しずつ返していただければ結構です」
それは、値切りへの譲歩ではなかった。誰にも搾取されない形で、セリアの尊厳を守るための、静かな提案だった。男爵はしばらくエルミラを睨みつけていたが、やがて吐き捨てるように言った。
「……好きにしろ。どうせ本人に払わせればいいだけの話だ」
それだけ言い残し、振り返りもせずに部屋を出ていく。扉の閉まる音が、やけに大きく響いた。
◇ ◇ ◇
静まり返った客舎で、本格的な治療が始まった。
エルミラが重ねた手のひらから、淡い月色の光が溢れ、セリアの額へ、痛々しい右腕へと注がれていく。細い眉根を寄せ、時折小さく息を詰めながら、乱れきった魔力の流れを一筋ずつ、丁寧にほどいていった。暖炉の薪が、ぱちりと小さく爆ぜる。
苦しげに眉を寄せるセリアの傍らで、アーシェは椅子に深く腰掛け、冷たく細い手を両手で包み込んでいた。
――セリア……
アーシェは何も言わなかった。ただ手を握り、時折そっと額の汗を拭い、片時も傍を離れない。包んだ指先に、ひんやりとした冷たさが沁みてくる。
窓の外では、風が木々を揺らしている。ヴェルナルドは戸口の近くに立ち、言葉を挟まずに見守っていた。その揺るぎない姿が、この部屋の誰にとっても確かな支えになっていた。
「……もう少しです」
エルミラが小さく呟いた。声には疲れが滲み、それでも意志は揺らがない。どれほどの刻が流れただろう。やがてエルミラの手が、ゆっくりと下ろされた。
「……今日のところは、ここまでです。あとは、身体の回復を待つしかありません」
セリアの呼吸は、運び込まれたときよりずっと穏やかになっていた。それでも、まぶたは閉じたまま、意識は戻らない。
ヴェルナルドの視線が、男爵の去った廊下の先へ、ほんの一瞬だけ向けられた。
アーシェは何も言わず、小さな手を包んだまま離さなかった。いつの間にか、指先に、かすかな温もりが戻りはじめている。部屋の隅の燭台の灯りが、眠り続けるセリアの頬の上で、やわらかく揺れていた。




