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アーシェリルリア ― 月がはぐくむ 蜜の夢 ―  作者: noyu
第四章 ―恵みを重ねて、花は咲く―

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第一話 ―階段の記憶と、離さなかった手―

 ランフォード男爵邸の吹き抜けに面した大階段には、朝晩の冷えが居座っていた。重厚なオークの踏み板には、底冷えを和らげる深紅の織物が敷き連ねられている。


「――だから、私は行きません」


 セリアの声は、かすかに震えていたけれど、芯を残してまっすぐに響いた。読唇のために少しだけ上げた顎と、見つめ返す水色の瞳。段の上に立つ兄は、妹の拒絶に眉を吊り上げ、高みから見下ろした。


「お前に選ぶ権利があるとでも思っているのか」


「お父様がお決めになった縁談です。私の気持ちなど、誰も……誰も聞いてくださいません」


「贅沢を言うな。母親の血筋も怪しいお前のようなものを、あの家が拾ってくださるだけでもありがたいと思え」


 兄の怒声は吹き抜けの石壁に跳ね返って大きく反響し、遠くで給仕していた使用人たちが、怯えたように足を止める気配がした。


「せめて――話だけでも、お父様に――」


 すがるように差し出した言葉は、最後まで形にならなかった。苛立ちを募らせた兄の手が、セリアの華奢な肩を荒々しく突く。突き飛ばすつもりまではなかったのかもしれない。けれど、一歩退こうとした細い踵は絨毯の端を滑り、あっけなく均衡を崩した。


「セリア――!」


 兄の喉から、途切れ途切れの叫びが上がった。自分の声なのか、階下の使用人たちの悲鳴なのか、混乱した頭では判別がつかなかった。


 踏み板に、手すりに、身体を打ちつける鈍い音が、一段、また一段と、静まり返った館内に響いていく。やがて石敷きの広間まで転がり落ち、男爵家が自慢にしていた厚手の羊毛絨毯の上で、セリアは動かなくなった。淡いミルクティー色の髪が、力なく絨毯に広がる。


 ざわめきが、波のように屋敷じゅうへ広がった。悲鳴を上げて駆け寄る者、右往左往する者、ただ立ち尽くす者。その中で兄だけが、階段の途中で血の気を失ったまま、震えて動けずにいた。


 ◇ ◇ ◇


「息はある! 急ぎ馬車を出せ! ハイセル領主館へ向かうのだ!」


 錯乱する屋敷の中で、ようやく正気を取り戻した執事が鋭く叫んだ。毛布にくるまれたセリアの身体は、血の気を失い、冷えていく人形のようにぐったりと弛んでいる。


 石畳を叩く蹄の音が、冷たい風の渡る街道を、なりふり構わず駆け抜けていった。


 領主館の正面扉が荒々しく開かれ、着衣を乱した執事が、セリアを抱いたまま滑り込むように膝をつく。


「エルミラ様……! どうか、どうかセリア様をお救いください……!」


 悲鳴を聞きつけて廊下へ駆けつけたアーシェは、執事の腕の中でぐったりと横たわるセリアの姿に息を詰めた。紙のように白い顔、力なく垂れた小さな手。浅く、途切れてしまいそうな呼吸。


「お母様……!」


 震える声で見上げた先で、エルミラは取り乱した気配をかけらも見せなかった。静かに、けれど迷いなく使用人たちへ指示を出し、セリアを客舎の寝台へ運ばせる。


 ◇ ◇ ◇


 診察を終えたエルミラの表情は、静かだったが、いつもより硬かった。


「命に別状はありません。ただ――右腕の骨と、頭の傷。これは長く見ていく必要があります」


「長く、とは」


 ヴェルナルドが、静かに問い返した。


「一度の治療では終わりません。数日おきに、何度も」


 部屋の隅では、遅れて駆けつけたセリアの父――ランフォード男爵が、腕を組んだまま、娘の寝顔よりも先に別のことを口にした。


「……それで、費用はいかほどに」


 エルミラは、金額を淡々と告げた。決して法外な額ではない。この国の治療師として、正当な対価だった。


「娘の、友人なのでしょう。もう少し、融通が利くのではないか」


「治療費は、身分や関係で変わるものではありません」


 男爵は、舌打ちに近い息を吐いた。


「治療費を払えと言うのか」


 声が、わずかに尖る。


「その上、これほどの傷を負っては、子爵家との縁談も駄目になってしまう」


 握った拳が、椅子の肘掛けを打った。


「せっかく後添いの話がまとまりかけていたのに」


 抑えた声のまま、言葉だけが少しずつ重く濁っていく。


「嫁入りの支度にも、金をかけていたというのに」


 男爵は、苦々しげに顔を歪めた。


「これでは何もかも無駄だ」


「どれだけの損になると思っている」


 最後の一言だけは、抑えが利かなかったように、部屋に低く響いた。


 空気が変わった。エルミラは、男爵をまっすぐに見据えた。声は荒らげない。それでも、その静けさは怒鳴り声よりもよほど重く、部屋に沈んだ。


「傷ついた娘さんを前にして、最初に口になさるのが、お金のお話なのですね」


 わずかな沈黙が落ちた。


「この子は、売り物ではありません……値段を付けられる存在でもありません」


 ヴェルナルドが、わずかに目を伏せる。


「ここにいるのは、一人の傷ついた少女です。私は治療師として、その命を守ります」


 男爵は気圧されたように一歩下がったが、すぐに苛立たしげに口を開いた。


「綺麗事は結構。払えぬと言ったら、どうする」


 エルミラは、ほんの少しの沈黙のあと、静かに答えた。


「お支払いが難しいのであれば、ご安心ください。治療は最後まで責任を持って行います」


「……では、治療費は」


「借財として記録いたします」


「……借財?」


「セリアさんには、ハイセル家で行儀見習いとして過ごしていただき、その中で少しずつ返していただければ結構です」


 それは、値切りへの譲歩ではなかった。誰にも搾取されない形で、セリアの尊厳を守るための、静かな提案だった。男爵はしばらくエルミラを睨みつけていたが、やがて吐き捨てるように言った。


「……好きにしろ。どうせ本人に払わせればいいだけの話だ」


 それだけ言い残し、振り返りもせずに部屋を出ていく。扉の閉まる音が、やけに大きく響いた。


 ◇ ◇ ◇


 静まり返った客舎で、本格的な治療が始まった。


 エルミラが重ねた手のひらから、淡い月色の光が溢れ、セリアの額へ、痛々しい右腕へと注がれていく。細い眉根を寄せ、時折小さく息を詰めながら、乱れきった魔力の流れを一筋ずつ、丁寧にほどいていった。暖炉の薪が、ぱちりと小さく爆ぜる。


 苦しげに眉を寄せるセリアの傍らで、アーシェは椅子に深く腰掛け、冷たく細い手を両手で包み込んでいた。


――セリア……


 アーシェは何も言わなかった。ただ手を握り、時折そっと額の汗を拭い、片時も傍を離れない。包んだ指先に、ひんやりとした冷たさが沁みてくる。


 窓の外では、風が木々を揺らしている。ヴェルナルドは戸口の近くに立ち、言葉を挟まずに見守っていた。その揺るぎない姿が、この部屋の誰にとっても確かな支えになっていた。


「……もう少しです」


 エルミラが小さく呟いた。声には疲れが滲み、それでも意志は揺らがない。どれほどの刻が流れただろう。やがてエルミラの手が、ゆっくりと下ろされた。


「……今日のところは、ここまでです。あとは、身体の回復を待つしかありません」


 セリアの呼吸は、運び込まれたときよりずっと穏やかになっていた。それでも、まぶたは閉じたまま、意識は戻らない。


 ヴェルナルドの視線が、男爵の去った廊下の先へ、ほんの一瞬だけ向けられた。


 アーシェは何も言わず、小さな手を包んだまま離さなかった。いつの間にか、指先に、かすかな温もりが戻りはじめている。部屋の隅の燭台の灯りが、眠り続けるセリアの頬の上で、やわらかく揺れていた。

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