第二話 ―離さなかった手、その先で ―
瞼の向こうが、ぼんやりと白く明るかった。
セリアはゆっくりと目を開けた。見慣れない天井の木目が、視界いっぱいに広がっている。自分の部屋のものとは違う、ほのかな木の香りが鼻先をかすめた。
ここは、どこだろう。
身を起こそうと力を入れた途端、背中から腰にかけて、重く鈍い痛みが走った。息が詰まる。その身じろぎに気づいたのか、視界の端で小さな影が動いた。
「目が覚めた?」
枕元の椅子に座っていたのは、アーシェだった。膝の上の本を閉じ、セリアが唇を読みやすい高さまで顔を寄せてくる。
「アーシェ、さま……」
掠れた声が出た。喉の奥が、からからに乾いている。
「無理に起きなくて大丈夫よ。まだあまり動かさないほうがいいと、お母様が」
アーシェの唇は、ゆっくり、はっきりと形をつくる。セリアは言葉を一つずつ拾い、強張っていた身体から力を抜いた。上掛けは糊の利いた麻の手触りで、少しひんやりとしている。天蓋から垂れる白いレースが、窓の光を透かして、風にゆらりと揺れていた。
ここはハイセルのお屋敷。わたしは、階段から――。
思い出しかけた途端、胸の奥がすっと冷えた。吹き抜けの向こうで、怒りに歪んだ兄の顔。踏み外した階段の縁。ふわりと身体が浮いて、そのあとに全身を打った衝撃。
「……ご迷惑を、おかけしました」
声が、喉の奥から零れた。乾いているせいだけではなかった。
「大勢の方に、お世話をかけて……その、治療費だって、きっと大変な額に」
「セリア」
アーシェの唇が、その名を呼んだ。咎める色も、哀れむ色もない。
「今は、そんなこと考えなくていいのよ」
それだけ言うと、卓の水差しから水を注ぎ、木匙にすくって、少しずつセリアの唇へ運んでくれた。冷たい水が、乾いた喉をゆっくり下りていく。ようやく、ひと息つけた気がした。
アーシェは、事故のことも、これからのことも、何ひとつ尋ねなかった。匙を置き、また持ち上げる。そのたびに動く小さな手だけが、ここにいてくれることを教えていた。
やがて扉が細く開き、ひょこりと赤い髪が覗いた。
「……起きてる、って聞いた」
エルトだった。いつもながら口数は少ない。銀の瞳に散る赤い星だけが、まっすぐこちらを向いている。
「エルトさん……」
セリアは顔を上げ、その唇を追った。こんな姿を見られたくない恥ずかしさと、来てくれた安堵が一度に押し寄せて、頬が熱くなる。
「その、見苦しいところを……ごめんなさい」
「別に」
エルトは部屋へ入ったものの、寝台から少し離れたところで足を止めた。
「生きてるなら、それでいい」
素っ気ない言葉だった。けれど冷えきっていた胸の底へ、それはじわりと染みていく。
アーシェは何も言わず、口元をほころばせただけだった。窓辺ではオリーブの葉が風に揺れ、光の粒がレースの上をちらちらと渡っていく。
* * *
昼を少し過ぎた頃、アーシェがふと扉のほうへ顔を向けた。
入ってきたのは、領主のヴェルナルドだった。穏やかな佇まいの奥に、めったに見せない硬さがある。後ろに控えていたセバルトは、眉間に深い皺を刻んだまま一礼し、廊下側から扉を閉めた。部屋には、四人だけが残る。
「三人に、話がある」
ヴェルナルドは寝台の傍らに椅子を寄せ、セリアの目に唇が映る位置へ腰を下ろした。子どもたちの顔を順に見て、ゆっくりと、区切るように口を開く。
「エルトの――誘拐の一件について、新しい報告が届いた」
エルトの横顔から、表情が消えた。セリアは息を詰め、ヴェルナルドの唇に目を凝らす。
「長く不明だった黒幕につながる証拠が、ようやく見つかった。取引の記録、金の流れ――そういったものだ」
言葉が、そこで一度途切れた。窓の外で、オリーブの葉がさざめいている。
「調査を進める中で、ランフォード男爵との繋がりを示す証拠も出てきた」
喉が、ひゅっと鳴った。
「まだ正式な裁定の前だ。証拠は王家へ提出している。近いうちに、男爵は王都へ召喚され、身柄を拘束されることになるだろう」
「……お父様、が」
唇が震えた。顔から血の気が引いていくのが、自分でも分かる。上掛けを握る指先が、氷のように冷たい。
「エルトを……さらわせたのは……」
言葉が続かなかった。込み上げてくるものを、必死に飲み込む。
「ごめんなさい……本当に、ごめんなさい。わたし――」
「顔向けできない……わたし、あなたに、合わせる顔なんて」
俯いたセリアの視界は、涙で滲んでいた。見えるのは、握りしめた自分の手元だけ。誰かが何かを言っているのかも、自分へ怒りが向けられているのかも、唇が見えなければ分からない。暗がりの中で、ただ言葉を絞り出すしかなかった。
その手の上に、小さな手が重なった。アーシェの、あたたかな掌。
その温度に、覚えがあった。暗い底にいたあいだも、ずっと離れずにいてくれたもの。
やがて視界に、大きな影がさした。エルトが寝台のすぐ傍まで来ている。窓を背にした姿が、セリアの手元へ影を落とした。顔を上げても、逆光で表情が見えない。唇の動きも、読めなかった。
エルトは、それに気づいたのだろう。何も言わずに半歩、横へずれた。光が横顔に差し、唇の形が、はっきりと浮かび上がる。
「お前が――俺を売ったわけじゃないだろ」
セリアは、はっと息を呑んだ。
「お前が命令したわけじゃない。お前が、俺を捕まえに来たわけでもない」
「でも――」
「俺が怒ってる相手は」
エルトは一拍、間を置いた。逸らさない眼差しが、セリアを捉える。
「お前じゃない」
部屋に、沈黙が落ちた。窓からの光が、三人のあいだを白く照らしている。
セリアの目から、大粒の涙がぽろりとこぼれた。エルトはそれ以上何も言わず、視線も逸らさずに立っていた。許すと言うのでも、裁くのでもない。ただ、同じ側に立つ、という立ち方だった。
その言葉が、すぐ救いになったわけではない。けれど、凍りついていた心の底に、小さな灯がひとつ、確かに点った。
「男爵については」
ヴェルナルドが話を継いだ。セリアは涙を拭い、その唇へ視線を戻す。
「主犯ではない。伯爵位を持つ、さらに上位の貴族から命令を受けて動いていたことが分かっている」
セリアは、言葉もなく頷くことしかできない。
「だが、それで罪が消えるわけではない。男爵自身、我が身を守るために、その上位貴族とのやり取りを示す証拠を差し出してきた」
怒りも同情も混じらない、事実だけを積み上げていく語り口だった。
「爵位は剥奪。財産も没収される。処分が決まり次第、他領か、あるいは国外へ向かうことになるだろう」
セリアは、その宣告をじっと受け止めた。
「命までは、奪わない」
付け加えられた一言に、この領主の正義の輪郭が、見えた気がした。
しばらく、誰も口を開かなかった。ヴェルナルドが、あらためてセリアへ向き直る。
「セリア」
目元を拭い、その唇へまっすぐ視線を合わせた。
「……はい」
「これから、どうしたいかは――あなた自身が、決めていい」
セリアは、目を見開いた。
意味が、すぐには入ってこなかった。誰と会うかも、何を着るかも、誰のもとへ嫁ぐかも、すべては父と兄が決めてきた。自分で選んだことなど、ただの一度もない。
「お前に選ぶ権利があるとでも思っているのか」
頭の奥で、かつて浴びせられた言葉が蘇る。それとは何もかもが違う言葉が、いま目の前の唇から、零れていた。
「わたし……」
声が震える。何を望めばいいのか、それすら分からなかった。
「治療にかかる費用は、借財として記録しておく」
ヴェルナルドは続けた。
「もし望むなら――このハイセル家で、行儀見習いとして過ごしながら、少しずつ返していく、という道もある」
罰ではなかった。眼差しにも、言い回しにも、縛ろうとする色はひとつもない。ただ、ひとりの人間に向けて、選べる道が差し出されているだけだった。
「これは、罰じゃない。あなたが、自分の足で立つための場所を選ぶ――そのための道だ」
涙が、また頬を伝って落ちた。喉が詰まって、息がうまく吸えない。
「……ここで」
震える声のまま、セリアは顔を上げた。
「ここで……お世話に、なりたいです」
滲んだ視界の向こうで、アーシェがほっとしたように微笑んだ。ヴェルナルドは深く頷き、それ以上は何も言わずに立ち上がる。話は終わった、という合図だった。
扉へ向かう背に続いて、エルトも踵を返す。けれど戸口で足を止め、振り返った。セリアの目に唇が映るよう、まっすぐ顔を向けて。
「……また、来る」
短くそう言い残し、二人の姿は廊下へ消えていった。
部屋に、静けさが戻った。先ほどまでの張りつめたものとは違う、肩の力がほどけていくような静けさだった。
アーシェが、重ねていた手を握り直す。
「よかった」
短い一言だった。
午後の光が、レースを透かして、上掛けの上に細かな網目を落としている。握られた手のぬくもりが、指先からゆっくり全身へ広がっていく。セリアはその小さな手を、そっと握り返した。




