第三話 ―剣にも盾にもならなくても―
実月の朝の光が、客舎の白い窓布越しに、淡く差し込んでいた。
身支度は、メイドの手を借りて、すでに整っていた。袖を通した服の布目は肌に軽く、梳いてもらった髪も、背で小さくまとまっている。セリアはベッドの縁に腰かけ、細い足をそろりと床へ下ろしてみた。まだ本調子には遠く、身体の奥には重だるさが居座っている。けれど、ほんの数日前までは、ひとりで身を起こすことさえ叶わなかった。自分の足で床を踏めた。その事実に、目の奥がじわりと熱くなる。
脇で櫛や髪留めを片づけていたメイドが、扉の気配に気づいて手を止め、戸口へ向かった。廊下の人物と短く言葉を交わし、戻ってくると、セリアの正面で口元がよく見えるように顔を寄せる。
「セリア様、セバルト様がお見えになりましたよ」
セリアは足元を確かめながら立ち上がり、扉の近くまで歩いた。開かれた戸口に、セバルトが背筋を伸ばして立っている。
「おはようございます、セリア様。お加減はいかがでしょうか」
「おはようございます、セバルトさん」
「お顔色が、ずいぶん戻られました。……少し、お部屋の外を歩いてみられますか」
「外を……はい、ぜひ」
声が、思わず弾んだ。
廊下へ出ると、深緑の巻き毛を揺らして、アーシェが待っていた。
「わたしも一緒に行くわ」
アーシェはくすりと笑い、セリアの少し前へ回り込む。転びかけても、すぐに手が届く距離だった。振り向いた唇の動きを、セリアは目で追った。
「まだ歩き慣れていないでしょう。危なかったら、いつでも掴まってね」
ごく当たり前のことのように、軽い言い方だった。強張っていたセリアの肩が、ほんの少し下がる。後ろを歩くセバルトの眉間の皺が、ふと浅くなった。
板張りの廊下には絨毯が敷かれ、踏みしめる足裏にやわらかな弾力が返ってくる。セバルトは角や扉の前で立ち止まるたび、振り返ってセリアに口元を向けた。
「こちらが書庫でございます。奥様のお好きな薬草の本も、多く納めております」
「こちらは応接室でございます。他家のお客様をお迎えする際に使います」
大きなアーチ窓の向こうに、中庭が広がっていた。潮風に色とりどりの花々が傾ぎ、秋の光が花弁の縁できらりと跳ねる。
「まあ……」
セリアは足を止めた。
「きれいな中庭ですね」
「奥様が、手ずから育てておられます」
頷いて庭へ目を向けた拍子に、床のわずかな段差を見落とした。足首がかくりと傾く。
「――っ」
倒れかけた身体を、横から伸びたアーシェの手が受け止めた。
「大丈夫?」
「す、すみません……」
「謝らないで。まだ本調子じゃないんだもの、転びそうになるのは当たり前よ」
アーシェは何でもないように笑って、セリアの細い腕に自分の腕を絡めた。
「わたしも小さい頃、庭でよく転んで、お母様に叱られたの。走っちゃだめって、何度も」
「アーシェ様も……?」
「そうよ。だから、寄りかかるくらい平気」
絡んだ腕から、体温がじんわりと伝わってくる。セリアはひとつ、小さく息をついた。
しばらく進んだところで、セリアがぽつりと口を開いた。
「あの……わたし、少しでもお役に立てることがあれば、何でもします。雑用でも、掃除でも」
声に、焦りが滲んでいた。セバルトは足を止め、向き直る。
「そのお気持ちは、ありがたく存じます」
否定はしない。そのうえで、口元をゆっくりと見せて続けた。
「ですが、今はお身体を治すことが先でございます」
「でも……」
「セリア様」
静かな声だった。
「旦那様も奥様も、働き手が足りずにセリア様をお迎えしたわけではございません」
セリアは目を瞬いた。
「では……何のために」
「のちほど、お話しいたします」
それだけ告げて、セバルトは再び歩き出した。眉間の皺が、ほんのわずかに動いた。
◇ ◇ ◇
案内された扉が開くと、空気の色が変わった。
白と淡い青で整えられた壁は、レースの窓布越しの昼の光を受け、月明かりの名残を含んだような色に見える。本棚には絵本や物語の小冊子が背を並べ、隅には小ぶりな寝椅子が置かれていた。窓辺の丸い小机では、白い花を活けたガラスの器が、光をひとつ抱いてきらりと光っている。
「素敵な、お部屋ですね」
「わたしとフィルが、よく過ごす場所なの」
アーシェはレースの窓布に、そっと指先で触れた。
「満月の日は特に大事な日で、ここで静かに過ごすのよ。本を読んだり、フィルのお話を聞いたりして」
言いかけて、ぱっと顔を上げる。
「――そうだ、フィルを呼んでくるわ。きっと、セリアに会いたがってるもの」
言うが早いか、アーシェは足早に部屋を出ていった。小さな背中が、廊下の向こうへ消える。
◇ ◇ ◇
扉が閉じ、部屋にはセバルトとセリアのふたりだけが残った。
セバルトは窓の光がセリアの側から当たる位置に立ち、まっすぐ向き直った。口元が、陰にならない。
「セリア様。ひとつ、お尋ねしてもよろしいでしょうか」
「は、はい」
「アーシェ様のお髪を、どうご覧になりましたか」
思いがけない問いに、セリアは目を見開いた。それでも、答えは胸の中にすでにあった。
「島のオリーブの葉のようで……とても、きれいだと思いました。この島に、深く愛されているようなお色だと」
「魔力をお持ちでないと言われていても。変わりませんか」
「変わりません」
迷いはなかった。
「そんなこと、関係ありません」
セバルトの眉間の皺が、ふっとほどけた。
「……ありがとうございます」
「え……?」
「先ほどのお尋ねの答えに、いちばん近いお言葉です」
口元の動きまで、いつもより穏やかだった。
「旦那様も奥様も、セリア様に、剣となることも盾となることも望んではおられません」
「……え?」
「ただ、アーシェ様のお側で、今お持ちのそのお気持ちを、失わずにいていただきたいのです」
「わたしの……気持ち」
「その優しいお心が、アーシェ様を守っております」
セリアは、はっと息を呑んだ。
庇護されるだけの自分には、何もできない。誰の役にも立てない。ずっとそう思い詰めていた。強さを示さなくても、ただ側にいて優しさを差し出すことが、誰かを支える力になる。そんな考え方に、これまで触れたことがなかった。
「そんな……わたし、何もできていません」
「そのお役目なら」
セバルトは静かに言った。
「すでに、十分に果たしておられます」
視界がにじんだ。慌てて指先で目元をぬぐったが、雫は止まらない。
「……ありがとう、ございます」
深く頭を下げたセリアに、セバルトは少し間を置いて続けた。
「この部屋は、身体だけでなく、心も休めるための場所でございます。今日から、セリア様の居場所のひとつでもございます」
セリアは言葉にならず、何度も、小さく頷いた。
◇ ◇ ◇
扉が開き、メイドたちがお茶の支度を運び入れた。湯気の立つお茶の香りと、オリーブの木の皿に盛られた焼きたてのスコーン。その後ろから、小さな布包みを両手で抱えたフィルが、ひょっこりと顔を覗かせた。
「セリアさま!」
セリアを見つけるなり、フィルは小走りになる。
「フィル、危ないわよ」
あとから入ってきたアーシェの声に、慌てて足を緩めた。それでも丸い頬は、とうに笑みでほどけている。
「これね、セリアさまにあげる!」
卓のそばまで来ると、フィルは布包みを大事そうに開いてみせた。
「ガストンに焼いてもらったの。いちばん、お日さまの色をしてるのを選んだんだよ」
包みの中で、香ばしい狐色のスコーンが艶めいていた。
「わあ……」
セリアは感嘆の声を漏らし、一生懸命に言葉を紡ぐフィルの口元を、見つめ返した。
自分のためだけに、誰かが一番のものを選んでくれた。そんな経験が、これまでにあっただろうか。思い返してみても、ひとつも浮かんではこなかった。
メイドたちが支度を終えて下がり、セバルトも深く一礼する。
「では、失礼いたします」
扉が静かに閉まり、部屋には子どもたち三人だけが残された。
フィルはしばらく、布包みの端を小さな指でもじもじとなぞっていた。それから意を決したように顔を上げ、セリアの瞳を上目遣いに見つめる。
「あの……ぼく」
「はい?」
セリアは、動くフィルの口元へ視線を合わせた。
「セリアさま、じゃなくて――セリア姉さまって、呼んでもいい?」
部屋の空気が、ふっと止まった。
セリア姉さま。小さな口から落ちたその四文字を、セリアは心の中で、そっとなぞった。物心ついてから、姉さまと呼ばれたことは一度もなかった。
目を見開き、それから、こらえきれずに目元がゆるむ。涙の残る瞳で、小さく、けれど強く頷いた。
「――もちろんです」
フィルの顔いっぱいに、大輪の花が咲いたような笑顔が広がった。
「やった!」
飛び跳ねて喜ぶ弟を、アーシェがくすくすと笑いながら見つめ、小さな椅子を引き寄せる。
「じゃあ、みんなで食べましょう。冷めないうちに」
三人は窓辺の丸机を囲んで座った。セリアがスコーンを手に取ると、割れ目がさくりと崩れて、香ばしい匂いがふわりと立つ。両手で包んだカップが、掌にじんわり温かかった。
フィルは頬をいっぱいに膨らませ、足をぶらぶらと揺らしている。
「セリア姉さま、明日もみんなで食べようね。お部屋が、ずうっとお日さまの色のままでいられるように!」
セリアはフィルの口元を見つめ、そっと微笑んだ。
「はい。明日も」
長く待ち望んでいたかのように、自然と口をついて出た言葉だった。明日がある。誰かと交わせる約束の先に、自分の明日が、確かにある。
「じゃあ明日は、中庭まで行ってみましょうか。さっきの花、近くで見たいでしょう」
アーシェの言葉に、セリアは頷いた。
レース越しの光が、卓上の湯気をゆるく透かし、三つの影をひとつに重ねていた。




