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アーシェリルリア ― 月がはぐくむ 蜜の夢 ―  作者: noyu
第四章 ―恵みを重ねて、花は咲く―

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第三話 ―剣にも盾にもならなくても―

 実月の朝の光が、客舎の白い窓布越しに、淡く差し込んでいた。


 身支度は、メイドの手を借りて、すでに整っていた。袖を通した服の布目は肌に軽く、梳いてもらった髪も、背で小さくまとまっている。セリアはベッドの縁に腰かけ、細い足をそろりと床へ下ろしてみた。まだ本調子には遠く、身体の奥には重だるさが居座っている。けれど、ほんの数日前までは、ひとりで身を起こすことさえ叶わなかった。自分の足で床を踏めた。その事実に、目の奥がじわりと熱くなる。


 脇で櫛や髪留めを片づけていたメイドが、扉の気配に気づいて手を止め、戸口へ向かった。廊下の人物と短く言葉を交わし、戻ってくると、セリアの正面で口元がよく見えるように顔を寄せる。


「セリア様、セバルト様がお見えになりましたよ」


 セリアは足元を確かめながら立ち上がり、扉の近くまで歩いた。開かれた戸口に、セバルトが背筋を伸ばして立っている。


「おはようございます、セリア様。お加減はいかがでしょうか」


「おはようございます、セバルトさん」


「お顔色が、ずいぶん戻られました。……少し、お部屋の外を歩いてみられますか」


「外を……はい、ぜひ」


 声が、思わず弾んだ。


 廊下へ出ると、深緑の巻き毛を揺らして、アーシェが待っていた。


「わたしも一緒に行くわ」


 アーシェはくすりと笑い、セリアの少し前へ回り込む。転びかけても、すぐに手が届く距離だった。振り向いた唇の動きを、セリアは目で追った。


「まだ歩き慣れていないでしょう。危なかったら、いつでも掴まってね」


 ごく当たり前のことのように、軽い言い方だった。強張っていたセリアの肩が、ほんの少し下がる。後ろを歩くセバルトの眉間の皺が、ふと浅くなった。


 板張りの廊下には絨毯が敷かれ、踏みしめる足裏にやわらかな弾力が返ってくる。セバルトは角や扉の前で立ち止まるたび、振り返ってセリアに口元を向けた。


「こちらが書庫でございます。奥様のお好きな薬草の本も、多く納めております」


「こちらは応接室でございます。他家のお客様をお迎えする際に使います」


 大きなアーチ窓の向こうに、中庭が広がっていた。潮風に色とりどりの花々が傾ぎ、秋の光が花弁の縁できらりと跳ねる。


「まあ……」


 セリアは足を止めた。


「きれいな中庭ですね」


「奥様が、手ずから育てておられます」


 頷いて庭へ目を向けた拍子に、床のわずかな段差を見落とした。足首がかくりと傾く。


「――っ」


 倒れかけた身体を、横から伸びたアーシェの手が受け止めた。


「大丈夫?」


「す、すみません……」


「謝らないで。まだ本調子じゃないんだもの、転びそうになるのは当たり前よ」


 アーシェは何でもないように笑って、セリアの細い腕に自分の腕を絡めた。


「わたしも小さい頃、庭でよく転んで、お母様に叱られたの。走っちゃだめって、何度も」


「アーシェ様も……?」


「そうよ。だから、寄りかかるくらい平気」


 絡んだ腕から、体温がじんわりと伝わってくる。セリアはひとつ、小さく息をついた。


 しばらく進んだところで、セリアがぽつりと口を開いた。


「あの……わたし、少しでもお役に立てることがあれば、何でもします。雑用でも、掃除でも」


 声に、焦りが滲んでいた。セバルトは足を止め、向き直る。


「そのお気持ちは、ありがたく存じます」


 否定はしない。そのうえで、口元をゆっくりと見せて続けた。


「ですが、今はお身体を治すことが先でございます」


「でも……」


「セリア様」


 静かな声だった。


「旦那様も奥様も、働き手が足りずにセリア様をお迎えしたわけではございません」


 セリアは目を瞬いた。


「では……何のために」


「のちほど、お話しいたします」


 それだけ告げて、セバルトは再び歩き出した。眉間の皺が、ほんのわずかに動いた。


 ◇ ◇ ◇


 案内された扉が開くと、空気の色が変わった。


 白と淡い青で整えられた壁は、レースの窓布越しの昼の光を受け、月明かりの名残を含んだような色に見える。本棚には絵本や物語の小冊子が背を並べ、隅には小ぶりな寝椅子が置かれていた。窓辺の丸い小机では、白い花を活けたガラスの器が、光をひとつ抱いてきらりと光っている。


「素敵な、お部屋ですね」


「わたしとフィルが、よく過ごす場所なの」


 アーシェはレースの窓布に、そっと指先で触れた。


「満月の日は特に大事な日で、ここで静かに過ごすのよ。本を読んだり、フィルのお話を聞いたりして」


 言いかけて、ぱっと顔を上げる。


「――そうだ、フィルを呼んでくるわ。きっと、セリアに会いたがってるもの」


 言うが早いか、アーシェは足早に部屋を出ていった。小さな背中が、廊下の向こうへ消える。


 ◇ ◇ ◇


 扉が閉じ、部屋にはセバルトとセリアのふたりだけが残った。


 セバルトは窓の光がセリアの側から当たる位置に立ち、まっすぐ向き直った。口元が、陰にならない。


「セリア様。ひとつ、お尋ねしてもよろしいでしょうか」


「は、はい」


「アーシェ様のお髪を、どうご覧になりましたか」


 思いがけない問いに、セリアは目を見開いた。それでも、答えは胸の中にすでにあった。


「島のオリーブの葉のようで……とても、きれいだと思いました。この島に、深く愛されているようなお色だと」


「魔力をお持ちでないと言われていても。変わりませんか」


「変わりません」


 迷いはなかった。


「そんなこと、関係ありません」


 セバルトの眉間の皺が、ふっとほどけた。


「……ありがとうございます」


「え……?」


「先ほどのお尋ねの答えに、いちばん近いお言葉です」


 口元の動きまで、いつもより穏やかだった。


「旦那様も奥様も、セリア様に、剣となることも盾となることも望んではおられません」


「……え?」


「ただ、アーシェ様のお側で、今お持ちのそのお気持ちを、失わずにいていただきたいのです」


「わたしの……気持ち」


「その優しいお心が、アーシェ様を守っております」


 セリアは、はっと息を呑んだ。


 庇護されるだけの自分には、何もできない。誰の役にも立てない。ずっとそう思い詰めていた。強さを示さなくても、ただ側にいて優しさを差し出すことが、誰かを支える力になる。そんな考え方に、これまで触れたことがなかった。


「そんな……わたし、何もできていません」


「そのお役目なら」


 セバルトは静かに言った。


「すでに、十分に果たしておられます」


 視界がにじんだ。慌てて指先で目元をぬぐったが、雫は止まらない。


「……ありがとう、ございます」


 深く頭を下げたセリアに、セバルトは少し間を置いて続けた。


「この部屋は、身体だけでなく、心も休めるための場所でございます。今日から、セリア様の居場所のひとつでもございます」


 セリアは言葉にならず、何度も、小さく頷いた。


 ◇ ◇ ◇


 扉が開き、メイドたちがお茶の支度を運び入れた。湯気の立つお茶の香りと、オリーブの木の皿に盛られた焼きたてのスコーン。その後ろから、小さな布包みを両手で抱えたフィルが、ひょっこりと顔を覗かせた。


「セリアさま!」


 セリアを見つけるなり、フィルは小走りになる。


「フィル、危ないわよ」


 あとから入ってきたアーシェの声に、慌てて足を緩めた。それでも丸い頬は、とうに笑みでほどけている。


「これね、セリアさまにあげる!」


 卓のそばまで来ると、フィルは布包みを大事そうに開いてみせた。


「ガストンに焼いてもらったの。いちばん、お日さまの色をしてるのを選んだんだよ」


 包みの中で、香ばしい狐色のスコーンが艶めいていた。


「わあ……」


 セリアは感嘆の声を漏らし、一生懸命に言葉を紡ぐフィルの口元を、見つめ返した。


 自分のためだけに、誰かが一番のものを選んでくれた。そんな経験が、これまでにあっただろうか。思い返してみても、ひとつも浮かんではこなかった。


 メイドたちが支度を終えて下がり、セバルトも深く一礼する。


「では、失礼いたします」


 扉が静かに閉まり、部屋には子どもたち三人だけが残された。


 フィルはしばらく、布包みの端を小さな指でもじもじとなぞっていた。それから意を決したように顔を上げ、セリアの瞳を上目遣いに見つめる。


「あの……ぼく」


「はい?」


 セリアは、動くフィルの口元へ視線を合わせた。


「セリアさま、じゃなくて――セリア姉さまって、呼んでもいい?」


 部屋の空気が、ふっと止まった。


 セリア姉さま。小さな口から落ちたその四文字を、セリアは心の中で、そっとなぞった。物心ついてから、姉さまと呼ばれたことは一度もなかった。


 目を見開き、それから、こらえきれずに目元がゆるむ。涙の残る瞳で、小さく、けれど強く頷いた。


「――もちろんです」


 フィルの顔いっぱいに、大輪の花が咲いたような笑顔が広がった。


「やった!」


 飛び跳ねて喜ぶ弟を、アーシェがくすくすと笑いながら見つめ、小さな椅子を引き寄せる。


「じゃあ、みんなで食べましょう。冷めないうちに」


 三人は窓辺の丸机を囲んで座った。セリアがスコーンを手に取ると、割れ目がさくりと崩れて、香ばしい匂いがふわりと立つ。両手で包んだカップが、掌にじんわり温かかった。


 フィルは頬をいっぱいに膨らませ、足をぶらぶらと揺らしている。


「セリア姉さま、明日もみんなで食べようね。お部屋が、ずうっとお日さまの色のままでいられるように!」


 セリアはフィルの口元を見つめ、そっと微笑んだ。


「はい。明日も」


 長く待ち望んでいたかのように、自然と口をついて出た言葉だった。明日がある。誰かと交わせる約束の先に、自分の明日が、確かにある。


「じゃあ明日は、中庭まで行ってみましょうか。さっきの花、近くで見たいでしょう」


 アーシェの言葉に、セリアは頷いた。


 レース越しの光が、卓上の湯気をゆるく透かし、三つの影をひとつに重ねていた。

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