第四話 ―白い粉と、はじめてのふくらみ―
セリアのことで屋敷中が慌ただしく過ぎた日々が、ようやく少しだけ落ち着いた朝だった。
離れの棚で握りしめた、あの灰白色の石の重み。指先に移った白い粉の感触。アーシェはそのどれも、一日たりとも忘れてはいなかった。試すなら今日、と思えたのは、厨房にいつもの湯気と包丁の音が戻っていたからかもしれない。
「ガストン、お願いがあるの」
竈の前で鍋をかき混ぜていたガストンが、手を止めて振り向いた。
「白泡石をひとかけと、月柑をひとつ。汁も、少しだけ絞ってもらえるかしら。……あと、ちょっとだけ、内緒にしてほしいの」
「……内緒、ですか」
黒い眉が、わずかに動く。ガストンは何も訊かずに、棚の隅から灰白色の塊を取り、月柑を包丁で半分に割った。果汁を小皿へ絞る手つきに、迷いはない。黙って従うその横顔を見上げ、アーシェはすり鉢へ塊を入れた。
その間に、アーシェはすり鉢へ塊を入れ、両手で擂り棒を回す。ごり、ごり、と鈍い音を立てて、石は見た目よりずっと脆く崩れ、灰色の粗い粉になった。そのひとさじを、別の小皿へ移す。
「見ていてね」
木匙の先に月柑の汁をすくい、粉の上へ、ひとしずく。
しゅわ。
かすかな音がして、灰色の粉の表面に、白い泡がぷくりと湧いた。ひとつ、またひとつ。細かな泡が連なって立ちのぼり、ぱちぱちと小さくはぜる。
ガストンの手が、止まった。
「……泡が」
「もうひとしずく、落としてみるわね」
しゅわわ、と先ほどより勢いよく泡が増える。ガストンは小皿に顔を寄せ、黒い目をまじまじと見開いた。
「毎日、鍋の脇に両方置いているが」
低い声が、ぽつりと続く。
「……合わせたことは、一度もない」
アーシェは、こらえきれずに小さく笑った。
――やっぱり。重曹と、同じ動き。
胸のうちで確かめて、ガストンへ向き直る。
「石と酸っぱいものがぶつかったら、泡が出るんじゃないかって、思ったの」
「……お嬢様には、驚かされる」
「この泡を、生地の中で立てたいの。パンケーキが、ふっくらすると思って」
ガストンは短く息を吐き、作業台の上へ小麦粉、琥珀糖晶、卵、雪乳獣の乳を並べた。小さな木鉢で混ぜた生地へ、灰色の粉と月柑の汁を少し。ガストンが熱した鉄板へ落とすと、じゅっ、と音が弾け、生地がゆっくり持ち上がっていく。
焼き上がった一枚は、たしかに、ほんのりと厚みを持っていた。けれど淡い茶色の肌には、灰色の粒がぽつぽつと混じっている。ひと口かじると、舌に砂のようなざらりとした感触。続いて鼻へ抜ける、苦いえぐみ。
「……だめだわ」
「膨らむには、膨らみましたが」
「石のままだと、ざらざらと、にがいのが残ってしまうのね」
アーシェは皿を見つめ、それからガストンを見上げた。
「もっと、きれいな粉にしたいの。どうしたらいいかしら」
ガストンは少し考えてから、短く答えた。
「……石のことなら、ベルト殿が詳しいかと」
◇ ◇ ◇
離れの扉を叩くと、返事より先に、紙の束が崩れる音が響いた。
「――どうぞ! アーシェ様、お待ちしておりました! 残りの二十七種類のご用でしょうか!」
勢いよく開いた扉の向こうで、くしゃくしゃの薄茶の髪が揺れる。ずり落ちかけた丸眼鏡を押し上げるベルトは、すでに満面の笑みだった。
「ごめんなさい、今日はそれじゃないの。白泡石のことで、見てほしいものがあって」
「白泡石、ですか。掃除の石の」
アーシェは持参した小皿を机に置いた。灰色の粉をひとさじ。ガストンが小さな壺に絞って持たせてくれた月柑の汁を、匙の先に取り、ひとしずく垂らす。
しゅわ。
白い泡が、ぷくりと湧いた。
ベルトの丸眼鏡が、ずるりと鼻先まで滑り落ちた。
「いま、いま何を」
「もう一度、落とすわね」
滴が落ちるたび、しゅわわ、と白い泡が盛り上がる。ベルトは鼻先が触れそうな距離まで顔を寄せ、三度目には眼鏡を外して袖で拭き、かけ直して凝視した。
「水ではこうなりません。……酸っぱいものにだけ、応えるのか。熱は? 他の酸っぱい実では?」
早口の呟きが、止まらない。
「アーシェ様、なぜ、これを思いつかれたのですか」
「なんとなく、なの。お鍋の上で、石と月柑の汁が出会ったらどうなるかしらって」
「……なんとなく、で」
ベルトは眼鏡の奥で目を細め、しばし黙った。それから、ふうっと息をつく。
「観察眼、と呼んでおきましょう」
アーシェは胸をなで下ろし、本題を切り出した。生地に混ぜると泡は立つけれど、苦くて、ざらざらすること。灰色の粒が残ってしまうこと。
「不純物ですね。承知しました。……これは、根気のいる仕事になります」
ベルトは棚から小ぶりの乳鉢を出し、残りの塊を細かく砕いて、深鉢の水へ移した。木匙でかき混ぜると、灰色の濁りがゆらりと広がる。しばらく置くと、鉢の底に、砂や土のような細かなものが沈んでいった。
「底に、何か溜まってる」
「不純物です。石そのものではありません」
ベルトは目の詰まった濾し布を、別の深鉢の口へ幾重にも張った。傾けた鉢から、濁り水がとろりと布を通り抜けていく。落ちてきた水は、まだ白く濁っていた。
「もう一度」
布を替え、水を注ぎ、濾す。水の色は少しずつ、確かに薄れていった。三度目を終えたところで、アーシェは鉢を覗き込む。
「――見て、ベルト。だいぶ、きれいになったわ」
「まだです」
ベルトは鉢を窓の光にかざし、片目をすがめて首を振った。
「わずかでも残れば、仕上がりに響きます。ここで手を抜くと、あとで必ず後悔します」
――こういうところ、前世の職人さんたちと同じね。目立たない工程ほど、ひとつひとつ丁寧にする人。
「あと何回くらい?」
「水が透けて、鉢の底の木目が見えるまで。おそらく、あと五回です」
「ご、五回」
大真面目に頷くベルトの隣で、アーシェは布を握り直した。
きっかり五回。鉢の水は、ほとんど透明に澄んだ。
「ここからは火にかけます」
部屋の隅の小さな竈に小鍋をかけ、澄んだ水を注ぐ。火のそばは危ないからと、アーシェは少し離れた椅子で見守る役を言い渡された。
「沸騰させてはいけません。弱火で、水分だけをじっくり飛ばします。熱しすぎると、質が変わりますので」
ぱち、と薪が小さく爆ぜる。湯気が立ち、水嵩が減っていく。やがて鍋底に、雪のような白い結晶が薄く浮かび上がった。ベルトが手早く鍋を下ろし、清潔な石板に広げて乾かす。乾いたものを乳鉢へ戻し、きめ細かくすり潰していくと、初雪のようにさらさらとした白い粉が出来上がった。
アーシェはひとつまみ、指先ですくってみる。ひんやりと乾いた、絹のような手触り。窓の光にかざすと、粒のひとつひとつが、きらり、と小さく輝いた。
「――雪みたい」
ぽつりと声がこぼれた。最初に見せてもらった、あの無骨な灰色の塊が嘘のようだ。
「確かめてみましょう」
ベルトが小皿に白い粉をのせ、壺の月柑の汁を一滴、落とす。
しゅわわ。
先ほどより白く、きめ細かな泡が、盛り上がるように立ちのぼった。灰色の濁りは、もうどこにもない。
「……いい出来です」
大げさな言葉ではない。けれど眼鏡を直す指先が、ほんの少しだけ、嬉しそうだった。
「ベルト、これを厨房へ持っていってもいいかしら」
「もちろんです。使い道は、アーシェ様の方がご存知でしょう」
◇ ◇ ◇
厨房の作業台に布包みを置くと、白い粉が、こんもりと顔を出した。ガストンが身をかがめ、しげしげと覗き込む。
「……あの磨き石が、こうなりますか」
まずは、石と月柑の釣り合いだけを確かめる。生地の材料は、小麦粉、琥珀糖晶、卵、雪乳獣の乳。
一回目は、白い粉も月柑の汁も、ごく控えめにした。焼き上がったのは、ほんの少し膨らんだだけの、平べったい一枚だった。
「……足りませんね」
「石も月柑の汁も、少なすぎたのね」
二回目は、白い粉を増やす。今度は、はっきりと厚みが出た。けれど、ひと口かじったアーシェは、うっと顔をしかめる。
「……にがい」
舌にひろがる強いえぐみ。粉が余ってしまったのだ。
「石が、月柑の汁より多かったのね」
三回目は、反対に月柑の汁を増やしてみた。苦さは消えたものの、今度は酸っぱさが舌の先に立つ。膨らみも、そのわりには伸びてくれない。
「……すっぱいわ」
「……どちらも、少しずつ、ですか」
「そうみたい」
アーシェは腕を組み、鉄板の上の生地を睨んだ。
――石は控えめに、月柑はほんの数滴。黄金の塩梅を探る感触は、指先に残っている。それなら、あとは。
「ガストン、星花の鞘を一本、分けてもらえるかしら。乳に、香りを移したいの」
ガストンは棚の小壺から、乾燥させた星花の鞘を一本、取り出した。黒に近い褐色で、細く、ところどころに皺が寄っている。受け取ったアーシェが鼻先へ寄せると、乾いた皮の奥から、深く甘い香りが、すうっと立ちのぼった。
「……いい匂い」
ガストンが包丁の先を鞘にあてがい、縦に、すっと裂いた。ぷつり、と小さな音がして、細かな黒い粒が、びっしりと詰まった中身がのぞく。刃の背でこそげ取ると、粒は小皿の上に、しっとりと黒い小山をつくった。
「わあ……」
思わず漏れた声に、ガストンの口の端が、ほんのわずか動く。
手鍋に雪乳獣の乳を注ぎ、竈にかける。アーシェは少し離れた場所から、背伸びをして見守った。乳がほんのりと温まる頃合いに、ガストンが黒い粒と裂いた鞘を、鍋へ沈める。
真っ白な乳の中で、黒い粒がほどけた。雪原にこぼれた星の種のように、ゆっくりと渦を描いて散っていく。湯気とともに、甘く丸い香りが厨房へひろがる。沸かさないうちに、ガストンが鍋を火から下ろし、蓋をした。
* * *
待つ間、アーシェは何度も蓋の下が気になって、そのたびにガストンの黙った視線に止められた。
人肌ほどに冷めたところで蓋を取る。鞘を引き上げると、乳はわずかに色を深め、黒い粒を小さな星のように抱いていた。
「混ぜたら、すぐ焼いてほしいの。泡が、逃げてしまうから」
「……承知しました」
ガストンが鉄板を熱して構える。アーシェは小麦粉と琥珀糖晶、卵に星花の乳、白い粉を合わせ、仕上げにガストンが絞ってくれた月柑の汁を、ほんの数滴。多すぎれば酸っぱくなる。ごく少しでいい。花響木で、さっくりと数回だけ混ぜた。混ぜすぎてはいけない。持ち上げた花響木から、生地がとろりと落ちる。黒い粒が、淡い黄色の中に、ぽつぽつと散っていた。
「……お願い」
ガストンが鉄板へ生地を流し入れる。
じゅわり、と軽やかな音がひろがった。表面に、ぷつ、ぷつ、と小さな泡が次々に浮かぶ。今までの三回とは、音も、手応えも違う。泡が弾けるたびに、生地がゆっくりと盛り上がり、縁がふつふつと色づいていく。湯気に乗って星花の甘い香りが立ちのぼり、熱を得て花ひらくように、厨房へ満ちていった。
アーシェとガストンは、思わず顔を見合わせた。
「……膨らんでる」
「これは……」
ガストンの声に、隠しきれない驚きが滲んでいる。
泡の勢いが落ち着いた頃合いを見計らい、ガストンが木べらを差し込んだ。返すと、下になっていた面は、均一なきつね色に焼けている。
「……いい焼き色ね」
もう一度返して、待つ。生地は厚みを保ったまま、しっかりと焼き上がった。真っ白な小麦粉ではないから、色は淡い茶褐色。田舎風の素朴な焼き色の肌に、星花の黒い粒が、小さく散っている。香ばしさと星花の香りが溶け合って、厨房いっぱいに広がっていった。
「……いい香りですね」
「ふわふわだわ」
二人はしばらく、焼き上がりをただ見つめていた。何度も失敗した末の、小さな成功だった。
「何を添えましょう」
蜂蜜か、果実蜜か。頭に浮かんだいくつかの選択肢を、アーシェは一度、手放した。
「まずは、できたてをそのまま味わってみたいわ」
ガストンは深く頷き、オリーブの木の小さな器に、切り分けて取り分けてくれた。
口に運ぶ。縁はほんのり香ばしく、中はふわりとほどけて、舌の上で、しっとりとした厚みが溶けていく。琥珀糖晶のやさしい甘みのあとから、星花の甘い香りが鼻へ抜け、ときおり黒い粒が、ぷつりと小さく香った。粉っぽさも、えぐみも、もうどこにもない。
――できた。この世界でも、ちゃんと、パンケーキが焼けた。
前世では何百回と焼いたはずの一枚が、こんなにも遠くて、こんなにも尊い。器を持つ掌に、焼きたての熱がじんわりと沁みていた。
「……うまい」
ガストンが、ぽつりと呟いた。
アーシェは湯気の立つ器を見つめて、微笑んだ。焼きたての甘い香りが、厨房にいつまでも漂っている。
――冷めないうちに、誰かに食べてもらえたら。
器の中に残ったふっくらとした一切れから、最後の湯気がひとすじ、ゆらりと立ちのぼった。




