第五話 ―パンケーキと、届けたい笑顔―
朝の澄んだ光は、オリーブの葉を透かして格子窓から厨房へ流れ込み、ひんやりとした空気には、薪の爆ぜる音と大竈の熱が少しずつ混じり始めていた。
「明日は、みんなで焼きたてを食べましょうね」
前の晩にアーシェがそう声をかけたことを、小さな弟は片時も忘れていなかった。誰よりも早く目を覚まして厨房へ駆けてくると、ガストンの作業台の脇、いつもの踏み台の上にちょこんと収まっている。
「フィル、転ばないように気をつけてね」
「うん! ぼく、だいじょうぶ!」
大竈に掛けた厚手の鉄板が十分に熱せられると、ガストンは木柄杓でとろりとした生地をすくい、丸く落とした。じゅわり、と軽やかな音。溶けたバターの香ばしさに星花の甘い香りが重なって、白い湯気とともに弾ける。
「フィル、そんなに近くで見ていて、飽きないの?」
アーシェがくすりと笑って隣に並んでも、フィルは鉄板から目を離さなかった。瞬きさえ惜しむように、じっと生地を見つめている。
「あきない。だって……」
灰緑色の瞳を輝かせ、小さな指が鉄板を指した。縁からぷつ、ぷつと気泡がはじけ、生地が上へ上へと押し上がっていく。生まれては消える泡の下から、また新しい泡がふっくらと持ち上がった。
「生地が、大きくなりたいよーって、背伸びしてるね」
「ふふ、そうね」
「美味しくなって、みんなをニッコリさせたいんだね」
「みんなの笑顔が見たくて、一生懸命大きくなっているのね」
ガストンが木べらでひょいと返す。湯気の向こうから、むらのない美しいきつね色が現れた。縁は香ばしく引き締まり、厚みはふっくらと空気を抱いたまま。
フィルは両手を口元に当て、「わあ……」と声を漏らした。
その時、厨房の厚い扉が勢いよく開いた。
「ガストン! 腹が減っ――」
大股で入ってきたのは、ハイセル領騎士隊隊長のルーヴィリースだった。言葉の途中で足が止まり、高く上げた鼻先が厨房の空気を大きく吸い込む。甘い匂いと、焼けたバターの匂い。
「……なんだ、この匂いは」
そのまま踏み込もうとした背中を、鉄板の前から低い声が止めた。
「ルーヴィリース様」
「あ?」
ガストンの低い視線が、外套の肩にうっすらと白く残る土埃に落ちている。
「……外套を」
「……ああ、悪い」
ルーヴィリースは太い眉をひそめ、素直に外套を脱いだ。扉脇の掛け釘へ丁寧に掛ける手つきに、無骨な佇まいとは裏腹な、領主家の育ちが覗く。
あらためて作業台へ近づくと、大柄な身体をかがめて、木皿に積まれた焼き立ての山を見下ろした。
「これは、パンか?」
「でも、甘いよ?」
踏み台の上から、フィルがきょとんと見上げる。
「……甘いパンも、探せばあるにはあるが」
「そっかぁ」
素直にうなずいて、フィルは小さく首をかしげた。しばらく考えてから、ぱっと顔を上げる。
「じゃあ、パンのおかし、なのかな?」
真理を突いた一言に、ルーヴィリースはぐうの音も出ない様子で腕を組み、「ふん」と鼻を鳴らすのが精一杯だった。アーシェは隣の踏み台から、そのやり取りに目を細めた。
ガストンは焼き上がりの中でも一番厚みのある一枚をオリーブ材の木皿へ載せ、黙ってルーヴィリースの前に置いた。熱とともに、琥珀糖晶のまろやかな甘い香りが立ちのぼる。
「……いただこう」
大きな両手で皿を受け取り、木柄のナイフを入れる。ふかり、と刃が沈む柔らかさに、ルーヴィリースがわずかに目を見開いた。切り分けた一口を、豪快に口へ運ぶ。
厨房が、束の間しんと静まった。
香ばしい表面のすぐ裏から、驚くほど軽い口当たり。噛むたびに雪乳獣の乳と卵のコクがほどけ、琥珀糖晶のまろやかな甘みが追いかけ、星花の香りが鼻へ抜けていく。
ルーヴィリースは一言も発さず、もう一口、さらにもう一口とフォークを動かした。大きな手が止まらない。
「……腹が減る」
皿を空にして、ぽつりと零れた一言に、フィルが首を傾げた。
「え? たべたのに?」
「美味いものは食欲を煽る。胃袋が目を覚まして、もっと食わせろと騒ぎ出すんだ」
真顔で言い切る叔父の理屈に、アーシェは思わず「ふふっ」と吹き出した。
「おじさま、お顔はすごく強そうなのに……」
フィルがルーヴィリースの頑丈そうなお腹を、じっと見つめる。
「お腹が、ぐーって泣いてるよ? 寂しがってるの?」
その瞬間、ぐう、と正直な音が厨房に響いた。日に焼けた顔が、みるみる赤く染まる。
「……くっ、気のせいだ」
「気のせいじゃないよ。お腹さん、もっと食べたがってるよ?」
無邪気に言い張るフィルを、ルーヴィリースは大げさな咳払いひとつでごまかした。
フィルも、切り分けてもらったひと口をフォークですくい、小さな口でもぐもぐと頬張った。一生懸命に動いていた口がふと止まり、目がだんだん丸くなる。味を確かめるように首をほんの少しかしげてから、顔いっぱいに笑みがほどけた。
「姉さま」
「どうしたの、フィル?」
「お口の中で、ふわふわが飛んでいっちゃった」
まあるい頬を両手で包んで、フィルは続ける。
「でもね、しあわせだけ、残ってるの」
「美味しい?」
「うん! お日さまを食べてるみたい。お腹の中から、ぽかぽか元気が湧いてくるの」
アーシェも自分の分をフォークの端で小さく切り、口へ運んだ。表面はほんのり香ばしく、中は驚くほど柔らかい。素朴な甘みが、舌の上でじんわりほどけていく。
――ちゃんと、ふくらんでる。
大竈の前では、ガストンが焼き上がりの一枚を割っていた。断面に並ぶ細かな気泡を見つめ、親指の腹で端をそっと押して、火の通りを確かめる。
「……これでいい」
滅多に表へ出さない満足が、その短い一言と、次の一枚を落とす手の軽さに滲んでいた。アーシェは、嬉しくなって目を細めた。
皿が空になる頃、フィルは卓に残った数枚を、真剣な顔で見比べ始めた。
「フィル、何を選んでいるの?」
「いちばん、おいしそうなの」
小さな指が選んだのは、一番厚く膨らんで、むらなくきれいなきつね色に焼けた一枚だった。
「これ、セリア姉さまにあげるの」
アーシェは、はっと瞬きをした。
「セリアに?」
「うん。セリア姉さま、まだ食べてないから。一番おいしいのを食べてほしいの」
そのやり取りを聞いていた側付きのメイドが、布巾と小皿を手に歩み寄る。
「フィル様、お皿に載せて、温かいうちにお包みいたしますね」
「ありがとう!」
メイドは木べらを滑らせてパンケーキを小皿へ移し、清潔な布で丁寧に包んで手渡した。受け取った包みを、フィルは両手でぎゅっと抱える。布越しの温もりに、ぽっと頬が緩んだ。
ここにいない人まで、当たり前のように家族の数に入っている。小さな包みから、アーシェはしばらく目を離せなかった。
「そうね。一緒にお部屋へ持っていってあげましょう」
「うん!」
空の皿に残ったかけらまでフォークで集めて口へ運ぶと、ルーヴィリースは腕を組んだ。視線は、鉄板に残る余熱の上から動かない。やがて、真顔でアーシェに向き直った。
「アーシェ」
「はい、叔父様?」
「これを、行軍の遠征食にできないか」
「えっ……?」
思いがけない提案に、アーシェは丸い目をぱちくりさせた。
「見回りや行軍の間、まともな食事にありつけないことも多い。手軽に持ち運べて、しっかり腹を満たせる美味いものがあればと、前から思っていた」
腕を組んだまま、ルーヴィリースは鉄板を見つめ続ける。
「これほどの味なら、過酷な現場でも騎士たちの士気が上がるだろう」
――持ち運べて、日持ちする遠征食……!
前世の知識と、目の前の課題が、頭の中で静かに重なった。
「すぐには難しいかもしれないけれど……日持ちして、持ち運べる作り方、考えてみるわ」
「頼む」
短く頷き、もう一度だけ鉄板の余韻に目をやる。
「……遠征先でも、これが食べたい」
本音の混じった一言を残し、ルーヴィリースは掛け釘の外套をひっつかんで踵を返した。
「兄上に、話してくる」
大股の足音が、廊下の向こうへ遠ざかっていく。その背には、いつもの豪快さとは少し違う、騎士隊長としてのまっすぐな決意があった。
扉が閉まると、厨房にはバターの香りと、ガストンが落とす次の一枚の、じゅ、という音が戻ってきた。フィルは布包みを抱えたまま、窓の外の澄んだ空を見上げる。
「セリア姉さま、よろこんでくれるかな」
「きっと、とびきりの笑顔で喜んでくれるわ」
アーシェが差し出した手に、フィルは空いた片手を預けた。メイドが開けてくれた扉をくぐり、二人は並んで厨房を後にする。
小さな包みはまだ温かく、布の隙間から、甘い香りが優しく立ちのぼっていた。




