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アーシェリルリア ― 月がはぐくむ 蜜の夢 ―  作者: noyu
第四章 ―恵みを重ねて、花は咲く―

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第五話 ―パンケーキと、届けたい笑顔―

朝の澄んだ光は、オリーブの葉を透かして格子窓から厨房へ流れ込み、ひんやりとした空気には、薪の爆ぜる音と大竈の熱が少しずつ混じり始めていた。


「明日は、みんなで焼きたてを食べましょうね」


 前の晩にアーシェがそう声をかけたことを、小さな弟は片時も忘れていなかった。誰よりも早く目を覚まして厨房へ駆けてくると、ガストンの作業台の脇、いつもの踏み台の上にちょこんと収まっている。


「フィル、転ばないように気をつけてね」


「うん! ぼく、だいじょうぶ!」


 大竈に掛けた厚手の鉄板が十分に熱せられると、ガストンは木柄杓でとろりとした生地をすくい、丸く落とした。じゅわり、と軽やかな音。溶けたバターの香ばしさに星花の甘い香りが重なって、白い湯気とともに弾ける。


「フィル、そんなに近くで見ていて、飽きないの?」


 アーシェがくすりと笑って隣に並んでも、フィルは鉄板から目を離さなかった。瞬きさえ惜しむように、じっと生地を見つめている。


「あきない。だって……」


 灰緑色の瞳を輝かせ、小さな指が鉄板を指した。縁からぷつ、ぷつと気泡がはじけ、生地が上へ上へと押し上がっていく。生まれては消える泡の下から、また新しい泡がふっくらと持ち上がった。


「生地が、大きくなりたいよーって、背伸びしてるね」


「ふふ、そうね」


「美味しくなって、みんなをニッコリさせたいんだね」


「みんなの笑顔が見たくて、一生懸命大きくなっているのね」


 ガストンが木べらでひょいと返す。湯気の向こうから、むらのない美しいきつね色が現れた。縁は香ばしく引き締まり、厚みはふっくらと空気を抱いたまま。


 フィルは両手を口元に当て、「わあ……」と声を漏らした。


 その時、厨房の厚い扉が勢いよく開いた。


「ガストン! 腹が減っ――」


 大股で入ってきたのは、ハイセル領騎士隊隊長のルーヴィリースだった。言葉の途中で足が止まり、高く上げた鼻先が厨房の空気を大きく吸い込む。甘い匂いと、焼けたバターの匂い。


「……なんだ、この匂いは」


 そのまま踏み込もうとした背中を、鉄板の前から低い声が止めた。


「ルーヴィリース様」


「あ?」


 ガストンの低い視線が、外套の肩にうっすらと白く残る土埃に落ちている。


「……外套を」


「……ああ、悪い」


 ルーヴィリースは太い眉をひそめ、素直に外套を脱いだ。扉脇の掛け釘へ丁寧に掛ける手つきに、無骨な佇まいとは裏腹な、領主家の育ちが覗く。


 あらためて作業台へ近づくと、大柄な身体をかがめて、木皿に積まれた焼き立ての山を見下ろした。


「これは、パンか?」


「でも、甘いよ?」


 踏み台の上から、フィルがきょとんと見上げる。


「……甘いパンも、探せばあるにはあるが」


「そっかぁ」


 素直にうなずいて、フィルは小さく首をかしげた。しばらく考えてから、ぱっと顔を上げる。


「じゃあ、パンのおかし、なのかな?」


 真理を突いた一言に、ルーヴィリースはぐうの音も出ない様子で腕を組み、「ふん」と鼻を鳴らすのが精一杯だった。アーシェは隣の踏み台から、そのやり取りに目を細めた。


 ガストンは焼き上がりの中でも一番厚みのある一枚をオリーブ材の木皿へ載せ、黙ってルーヴィリースの前に置いた。熱とともに、琥珀糖晶のまろやかな甘い香りが立ちのぼる。


「……いただこう」


 大きな両手で皿を受け取り、木柄のナイフを入れる。ふかり、と刃が沈む柔らかさに、ルーヴィリースがわずかに目を見開いた。切り分けた一口を、豪快に口へ運ぶ。


 厨房が、束の間しんと静まった。


 香ばしい表面のすぐ裏から、驚くほど軽い口当たり。噛むたびに雪乳獣の乳と卵のコクがほどけ、琥珀糖晶のまろやかな甘みが追いかけ、星花の香りが鼻へ抜けていく。


 ルーヴィリースは一言も発さず、もう一口、さらにもう一口とフォークを動かした。大きな手が止まらない。


「……腹が減る」


 皿を空にして、ぽつりと零れた一言に、フィルが首を傾げた。


「え? たべたのに?」


「美味いものは食欲を煽る。胃袋が目を覚まして、もっと食わせろと騒ぎ出すんだ」


 真顔で言い切る叔父の理屈に、アーシェは思わず「ふふっ」と吹き出した。


「おじさま、お顔はすごく強そうなのに……」


 フィルがルーヴィリースの頑丈そうなお腹を、じっと見つめる。


「お腹が、ぐーって泣いてるよ? 寂しがってるの?」


 その瞬間、ぐう、と正直な音が厨房に響いた。日に焼けた顔が、みるみる赤く染まる。


「……くっ、気のせいだ」


「気のせいじゃないよ。お腹さん、もっと食べたがってるよ?」


 無邪気に言い張るフィルを、ルーヴィリースは大げさな咳払いひとつでごまかした。


 フィルも、切り分けてもらったひと口をフォークですくい、小さな口でもぐもぐと頬張った。一生懸命に動いていた口がふと止まり、目がだんだん丸くなる。味を確かめるように首をほんの少しかしげてから、顔いっぱいに笑みがほどけた。


「姉さま」


「どうしたの、フィル?」


「お口の中で、ふわふわが飛んでいっちゃった」


 まあるい頬を両手で包んで、フィルは続ける。


「でもね、しあわせだけ、残ってるの」


「美味しい?」


「うん! お日さまを食べてるみたい。お腹の中から、ぽかぽか元気が湧いてくるの」


 アーシェも自分の分をフォークの端で小さく切り、口へ運んだ。表面はほんのり香ばしく、中は驚くほど柔らかい。素朴な甘みが、舌の上でじんわりほどけていく。


 ――ちゃんと、ふくらんでる。


 大竈の前では、ガストンが焼き上がりの一枚を割っていた。断面に並ぶ細かな気泡を見つめ、親指の腹で端をそっと押して、火の通りを確かめる。


「……これでいい」


 滅多に表へ出さない満足が、その短い一言と、次の一枚を落とす手の軽さに滲んでいた。アーシェは、嬉しくなって目を細めた。


 皿が空になる頃、フィルは卓に残った数枚を、真剣な顔で見比べ始めた。


「フィル、何を選んでいるの?」


「いちばん、おいしそうなの」


 小さな指が選んだのは、一番厚く膨らんで、むらなくきれいなきつね色に焼けた一枚だった。


「これ、セリア姉さまにあげるの」


 アーシェは、はっと瞬きをした。


「セリアに?」


「うん。セリア姉さま、まだ食べてないから。一番おいしいのを食べてほしいの」


 そのやり取りを聞いていた側付きのメイドが、布巾と小皿を手に歩み寄る。


「フィル様、お皿に載せて、温かいうちにお包みいたしますね」


「ありがとう!」


 メイドは木べらを滑らせてパンケーキを小皿へ移し、清潔な布で丁寧に包んで手渡した。受け取った包みを、フィルは両手でぎゅっと抱える。布越しの温もりに、ぽっと頬が緩んだ。


 ここにいない人まで、当たり前のように家族の数に入っている。小さな包みから、アーシェはしばらく目を離せなかった。


「そうね。一緒にお部屋へ持っていってあげましょう」


「うん!」


 空の皿に残ったかけらまでフォークで集めて口へ運ぶと、ルーヴィリースは腕を組んだ。視線は、鉄板に残る余熱の上から動かない。やがて、真顔でアーシェに向き直った。


「アーシェ」


「はい、叔父様?」


「これを、行軍の遠征食にできないか」


「えっ……?」


 思いがけない提案に、アーシェは丸い目をぱちくりさせた。


「見回りや行軍の間、まともな食事にありつけないことも多い。手軽に持ち運べて、しっかり腹を満たせる美味いものがあればと、前から思っていた」


 腕を組んだまま、ルーヴィリースは鉄板を見つめ続ける。


「これほどの味なら、過酷な現場でも騎士たちの士気が上がるだろう」


 ――持ち運べて、日持ちする遠征食……!


 前世の知識と、目の前の課題が、頭の中で静かに重なった。


「すぐには難しいかもしれないけれど……日持ちして、持ち運べる作り方、考えてみるわ」


「頼む」


 短く頷き、もう一度だけ鉄板の余韻に目をやる。


「……遠征先でも、これが食べたい」


 本音の混じった一言を残し、ルーヴィリースは掛け釘の外套をひっつかんで踵を返した。


「兄上に、話してくる」


 大股の足音が、廊下の向こうへ遠ざかっていく。その背には、いつもの豪快さとは少し違う、騎士隊長としてのまっすぐな決意があった。


 扉が閉まると、厨房にはバターの香りと、ガストンが落とす次の一枚の、じゅ、という音が戻ってきた。フィルは布包みを抱えたまま、窓の外の澄んだ空を見上げる。


「セリア姉さま、よろこんでくれるかな」


「きっと、とびきりの笑顔で喜んでくれるわ」


 アーシェが差し出した手に、フィルは空いた片手を預けた。メイドが開けてくれた扉をくぐり、二人は並んで厨房を後にする。


 小さな包みはまだ温かく、布の隙間から、甘い香りが優しく立ちのぼっていた。

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