第六話 ―花麦糖菓、生まれる日―
朝の澄んだ光が客舎の静けさを照らす窓辺で、アーシェは小さく頬杖をついていた。耳の奥に残っているのは、昨日、逞しい肩を揺らして笑っていた叔父――ルーヴィリースの言葉だ。
「遠征の糧食に――か」
提案そのものは、決して悪くない。けれど昨日焼き上げたあのパンケーキを、そのまま騎士たちの腰袋へ持たせるのは、どう考えても難しかった。
たっぷり水分を含んだ生地は、焼き立てなら甘い湯気を立てて口の中でほどけるのに、時が経てば自らの湿気でしんなりと重くなってしまう。長い行軍の荷物の中で揉まれれば、あっという間に潰れて形も留めないだろう。
それに、遠征の先々へ重い鉄板を運び込み、薪を割って火を熾し、一枚ずつ焼き上げるなど、刻一刻と状況の変わる行軍や演習の場では、現実からかけ離れている。
――美味しいものと、持ち運べるものは、まったく別のことなのね。
膝の上で小さな両手を組み、考えを巡らせる。すると、胸の奥に眠っていた前世の記憶が、するりと手繰り寄せられてきた。
――持ち運びやすくて、日持ちのする食べ物……登山や長い旅の合間に口へ運んでいた、あの行動食。
押し麦や香ばしい木の実、乾かした果実を甘いシロップで固めたものだ。荷物の中で崩れにくく、火も道具も使わずに齧るだけで力になる。
――これなら、騎士の皆さんの力になれるわ。
アーシェは小さな椅子から、ぴょんと飛び降りた。
◇ ◇ ◇
足音を弾ませて厨房を訪ねると、朝の仕込みを終えた料理長ガストンが、大鍋を磨き上げたところだった。
「ガストン、少し相談があるの」
声をかけると、ガストンは振り返り、厳つい目を細めた。
「……何なりと」
「押し麦と、香ばしく炒った陽実と、小さく乾かした果実。それを琥珀糖晶のシロップで、きゅっとひとつに固めてみたいの」
「……甘い菓子、ですか」
「今まで焼いてきたお菓子とは、少し違うのよ。遠征に持っていける、頑丈で崩れないものにしたくて」
「……割合は。蜜で固めるなら、仕上がりの硬さはそこで決まります」
「押し麦と陽実と果実を合わせて四なら、シロップは一で足りるわ。粉や木の実をぎっしり詰めて、シロップはそれを繋ぐだけでいいの」
ガストンは片方の眉をわずかに押し上げ、手元の木鉢と小鍋へ目を落とした。
「……四に対して一。手際を誤れば、一息に砕けますぞ」
「だから大急ぎで混ぜて、熱いうちに押し固めるの。手伝ってくれる?」
厳つい口元が、ほんの少しだけ緩んだ。
「……承知」
「つなぎの油はラードにしましょう。日持ちがして、扱いやすいはずよ。それから、熟成させた星花の鞘も、ほんの少しだけ加えてほしいの」
「かしこまりました」
ガストンが竈の小鍋へ琥珀糖晶の粉を注ぎ、ごく少量の水を滑らせる。焦げつかせぬよう火加減を見極めながら木べらで混ぜていくと、さらさらとした淡い蜜色の粒が水に溶けて透明感を増し、やがてとろりと深い琥珀色の艶を帯びた。ぷつ、ぷつ、と小さな泡の弾けるかすかな音が、静かな厨房に響く。甘く香ばしい湯気が立ちのぼり、アーシェの鼻先をくすぐった。
アーシェは木製の踏み台へ登り、両手で抱えるほど大きな木鉢の中で、押し麦と炒りたての陽実、細かく刻んだ乾燥果実を木べらで混ぜ合わせる。木べらが擦れるたび、かさかさと乾いた音が立った。陽実の芳ばしい香りと果実の甘酸っぱい匂いが、鍋から立つ濃いシロップの香りに重なっていく。
「ガストン、火を弱めて。これから木の実と麦を合わせるのに、強い火のままだとシロップが焦げて、苦くなってしまうわ」
ガストンが竈の薪を押し引きして火を落とすと、煮立っていたシロップの荒い泡がすっと鎮まり、穏やかな艶だけが残った。
「――今よ」
踏み台の上から木鉢に手を添えて合図を送ると、ガストンは太い腕で木鉢を軽々と引き取り、鍋へ一気に注ぎ入れた。
「大急ぎでお願い。冷めると、すぐ固まってしまうの」
「承知」
木べらが休みなく鍋の中を巡る。熱いシロップが押し麦と陽実、乾燥果実のひと粒ひと粒に絡みつき、全体が艶やかな飴色に染まっていった。アーシェは踏み台の上で息を詰め、その手元を見つめる。鍋肌を擦る、とん、とん、という規則正しい音が頼もしい。
ばらばらだった素材がねっとりとひとつにまとまったところで、ガストンの手が止まった。
「これで良いかと」
鍋の中身は湯気を立てながら、琥珀色の光をまとった大きな塊になっている。
「用意しておいた板へ、広げてもらえるかしら」
「はい」
ラードを薄く引き伸ばしてあった平らな石板へ、ガストンが鍋の中身を勢いよく広げていく。アーシェも踏み台から降り、反対側から木の板を添えて、上から体重をかけて押し固めた。
「もう少し、ぎゅっと。隙間がなくなるまで押してね」
「このくらいでしょうか」
「ええ、その厚みで」
押し麦や陽実の間に潜んでいた隙間がみっちりと埋まり、全体が厚みのある一枚の頑丈な板になっていく。しばらく押さえ続けたのち、ガストンが板を離した。余熱はまだ残っている。けれど冷めきってしまえば、綺麗には切れなくなる。
「今のうちですね」
「そうね」
ガストンが大ぶりの包丁を手に取り、四角い格子に手早く切り分けていく。刃が入るたび、断面から香ばしい湯気が立ち上った。覗き込めば、押し麦の粒と陽実の欠片、宝石のような乾燥果実が、透き通った飴色の中にぎゅっと閉じ込められている。どれも、騎士の手のひらにすっぽり収まる大きさだ。
粗熱の取れた一切れを、アーシェは指先で持ち上げてみた。しっとりと固まっているのに、表面に残ったシロップが指にべたりと貼りつく。
――これでは、布の袋の中で、袋にも他の一切れにもくっついてしまうわ。
「ガストン、でんぷん粉を少し分けてもらえるかしら」
小皿の白い粉を指先で掬い、一切れずつ表面へ軽くまぶしていく。吸い付くようだった粘り気が引き、指にさらりとした感触が戻った。
包み方にも工夫を凝らした。ひとつずつ縛る手間を省くため、目の詰まった丈夫な麻の巾着袋へまとめて収める。これなら馬上に揺られながらでも、片手で手早く取り出せるはずだ。
並べた艶やかな四角い菓子を、アーシェはしばらく見つめた。麦の風味と、香ばしい木の実と、爽やかな果実。それらを包む、星花の濃やかな香り。
「……花麦糖菓」
思いついた名が、唇からこぼれた。
「花麦糖菓、ですか」
「熟成させた星花の香りと、香ばしい押し麦。それに、身体を元気にしてくれるお菓子だから、糖菓。『花麦糖菓』よ」
口の中でその音を確かめるように繰り返してみる。響きも、込めた意味も、よく馴染んでいた。
試しにひとつ、小さな口へ運ぶ。押し麦の素朴な歯触りが先に広がり、炒った陽実のコク、乾燥果実の甘酸っぱさが続いて重なった。星花の香りが鼻へ抜け、硬すぎず脆くもない食感のまま、噛むごとに腹の底へ確かな満足が落ちていく。
「……悪くない響きです」
ガストンが無骨な表情をわずかに緩め、短く言った。
◇ ◇ ◇
その日の午後、アーシェは館の廊下を進み、家令セバルトを訪ねた。
「セバルト、お父様とルーヴィ叔父様に、少しお時間をいただきたいの」
セバルトは姿勢を正し、静かに頷く。
「かしこまりました。お二人にお伝えいたします」
その言葉通り、夕刻には、茜色の光の差す執務室へ招かれた。
ヴェルナルドは広げていた書類を脇へ寄せ、穏やかな笑みでアーシェを迎える。傍らには、ルーヴィリースがすでに控えていた。
アーシェが小さな麻袋を両手で差し出すと、大柄なルーヴィリースが身を乗り出し、中を覗き込んだ。
「これが、昨日話していた遠征の糧食か」
「ルーヴィ叔父様、パンケーキとは少し違う形になってしまったのだけれど」
麻袋の口をゆるめ、出来立ての一切れを、ルーヴィリースの大きな手のひらへ載せる。
「押し麦と炒った陽実と、小さく乾かした果実を、煮詰めたシロップで固めてみたの。材料はどれも、領内で安く手に入るものよ。日持ちもするし、ぎゅっと固めてあるから崩れにくくて、持ち運びに向いていると思うわ」
「一口でしっかりお腹に溜まるようにしたの」
ルーヴィリースは小さな飴色の塊をしばらく物珍しげに眺め、そのまま口へ放り込んだ。
重厚な執務室が、一瞬しんと静まる。麦と陽実の香ばしさ、乾燥果実のきゅっとした酸味、琥珀糖晶の深い甘み。鼻奥を、星花の香りが通り抜けていく。
豪快な目が、驚きにわずかに見開かれた。
「……美味い」
短い一言に、飾りはなかった。
「てっきり、あのパンケーキのようなものを想像していたのだが」
「あの柔らかさのままでは、遠征の荷物に入れて運べなくて……ごめんなさい」
「謝るな。糧食としては、こちらのほうが遥かに勝っている」
ルーヴィリースは麻袋からもう一つを取り出し、大きな指でぐっとつまんでみせた。形は崩れず、薄くまぶしたでんぷん粉のおかげで、指も汚れない。
「これなら、馬上に揺られていても片手で放り込める」
ヴェルナルドも一切れを口に含み、味を確かめてから頷いた。
「……なるほど。実に良いものを考えたな」
「兄上、これを騎士隊の遠征で試してみたい」
ルーヴィリースが身を乗り出す。
「次の遠征演習で、まず何人かに持たせてみよう。使い心地や感想を集めて、またアーシェと相談させてくれ」
「もちろんよ」
アーシェは何度も頷き、それから手の中の麻袋へ目を落として、少しだけ眉を寄せた。
「ただ、琥珀糖晶を使っているでしょう? 騎士隊の皆さん全員に配るとなったら、今よりずっとたくさん必要になってしまうわ。領内でもまだ貴重なものだから、使いすぎるのは難しいと思っていたの」
ヴェルナルドが、穏やかな声で笑った。
「そのことなら心配はいらないよ、アーシェ。少し前から、琥珀糖晶の生産量を増やす準備を、静かに進めているんだ」
「そうなの……?」
「誰もが潤沢に使えるほど、とはまだ言えない。それでも以前よりずっと多く、安定して作れる見込みが立っている」
「私、知らなかったわ……」
自分が厨房で頭を悩ませている裏で、父たちもまた、領地と騎士たちのために手を打っていたのだ。アーシェは麻袋の端を指先で弄り、少し考えてから顔を上げた。
「それでも、できるだけ少ない量で作れるほうがいいと思うの。限られた材料で無駄なく、ひとりでも多くの人へ届けられるほうが、きっと嬉しいもの」
ヴェルナルドは、そんな娘を穏やかに見つめた。
「……お前らしいな」
ルーヴィリースも大きく頷き、手の中の花麦糖菓をぽんと投げ上げた。
「材料の無駄もなく腹も満たせるなら、騎士隊を預かる身にはこれ以上ない」
アーシェは抱えた麻袋の重みに、そっと安堵の息をついた。
◇ ◇ ◇
執務室を辞し、静かな廊下を歩く。抱えた麻袋が、歩みに合わせてかさり、かさりと乾いた音を立てた。
高い格子窓の向こうでは、西へ傾いた夕光が、庭のオリーブの木々を黄金色に染めている。渡る風が葉先を揺らし、しゃらり、しゃらと音を立てた。
――届くといい。ここから遠く離れた、うんと遠くの空の下で、頑張っている誰かの手まで。
廊下の先で、袋の中の花麦糖菓が、もう一度かさりと鳴った。




