第七話 ―湖畔の、陽だまりのような一日―
朝の光が、レースの窓布の隙間から寝台の白へ細く差し込んでいた。
まどろみから覚めたアーシェは、枕に肘をついたまま、しばらく天井の木目を見上げる。胸に引っかかっているのは、このところのセリアの姿だった。館の皆の前では穏やかに笑っているのに、その瞳の奥には、ぴんと張りつめた糸のような影が残っている。
――大きなことは、できなくても。少し外の風に当たるくらいなら、きっと。
励ましの言葉も、大袈裟な気遣いもいらない。見晴らしのいい湖のそばで、陽だまりに包まれながら、一緒にお弁当を食べる。それだけで、セリアの肩の力は少しずつほどけていくはずだ。
「フィル、今日は湖へ行きましょう」
朝食の食卓でそっと声をかけると、隣のフィルがぱっと瞳を輝かせた。
「湖? お弁当を持って?」
「そうよ。セリアも一緒に」
「わあい!」
木の椅子の上で、小さな足がぱたぱたと揺れる。言葉より先に、全身で喜んでしまう子だ。
食後、セリアの部屋を訪ねて話を切り出すと、最初は「わたしは……大丈夫ですから」と視線を落とし、首を振りかけた。アーシェは窓の光がちょうど口元に当たる位置へ回り込み、正面に立って、ゆっくりと大きく言葉を重ねる。
「フィルがね、セリアと一緒に湖へ行きたいんですって」
セリアが顔を上げ、アーシェの口元を追った。言葉の意味が届くにつれ、困ったように眉が下がり、恥ずかしそうな笑みが浮かぶ。
「……はい。行きます」
控えめな返事だったが、その瞳にははっきりと意志が宿っていた。
◇ ◇ ◇
出発の前に厨房へ寄ると、ガストンは大きな木籠の前で待っていた。
「ガストン、お弁当はできているかしら」
「……こちらに」
木蓋が開く。香ばしく焼けたパンに、薄切りの塩ハムと採れたての葉野菜を挟んだサンドイッチが、籠の中に整然と並んでいた。脇には旬の果実と、小袋に包まれた焼き菓子。果実蜜の甘い香りが、ふわりと立ちのぼる。
「わあ……! おいしそうな匂い!」
籠の縁へ身を乗り出すフィルの鼻先で、蜜の香りがくすぐるように揺れた。
「日陰で」
ガストンは短く言い、蓋を結わえる麻ひもを一度だけ引いて確かめた。
「飲み物は、月冷石で冷やしてあります」
「ありがとう、ガストン」
「……お気をつけて」
頭を下げるガストンの横顔に、いつもよりほんの少しだけ柔らかな影が落ちていた。
◇ ◇ ◇
領主館から湖畔までは馬車に揺られ、木立の手前からは緩やかな緑の小道を歩いた。足もとで草がさくさくと鳴り、青い葉の匂いが濃くなっていく。
木立を抜けた途端、視界がひらけた。陽をいっぱいに浴びた湖面が、砕けた琥珀を撒いたようにきらりと揺れている。さざ波は岸へ寄せるたび、白い泡になってほどけていった。
「お水の上で、お日さまがぴかぴかお昼寝してるみたい」
フィルが声をひそめて言い、アーシェは小さく頷いた。
岸辺の木々が風に鳴り、葉擦れがしゃらりと水音に重なる。アーシェが選んだのは、大木が深い木陰を落とす、水辺を見渡せる草地だった。
同行のメイドたちが手織りの敷布を広げ、木籠とオリーブ材の杯を並べていく。少し離れた木陰には護衛の騎士たちが控え、周囲に目を配りながらも、子どもたちの時間を邪魔しないよう気配を消していた。
「ありがとう」
アーシェが腰を下ろすと、セリアもその隣へそっと座る。敷布越しに、日向を吸った草の温もりが伝わってきた。
しばらくのあいだ、誰も話さなかった。ただ、湖面で揺れる光の粒を眺める。
やがてセリアが、アーシェのほうへ顔を向けた。
「……ここは、風がやさしいですね」
頬を撫でていく風に、目を細めている。
「ここではね、何もしなくていいの」
アーシェが向き合って、ゆっくりと言う。セリアは頷き、湖へ視線を戻した。強張っていた口元が、ほんの少しだけほどける。
木籠の蓋が開くと、フィルが待ちかねて身を乗り出した。
「これ、食べていい?」
「どうぞ」
フィルが真っ先に持ち上げたのは、ずっしりとしたサンドイッチだった。両手で包み込み、大きな口でぱくり。
「んー……!」
目を細めたまま、間を置かずにもう一口。
「おいしい!」
「ふふ、そんなに急がなくても、まだたくさんあるのよ」
「だって、おいしいんだもん」
頬をふくらませて言うフィルの口元に、パン屑がついている。アーシェは刺繍入りの麻の手拭きで、そっと拭ってやった。当の本人は何のことかとぱちぱち瞬きをして、もうサンドイッチへ戻っている。
次に手を伸ばしたのは、小袋の焼き菓子だった。小さな指でつまんで口へ運ぶなり、まあるい瞳がさらに丸くなる。
「あまい……!」
口の中でゆっくり味わい、何かを真剣に考えてから、フィルはとびきり晴れやかな顔になった。
「お日さまの匂いがする!」
「お日さま?」
「うん!」
大真面目に頷いて、今度はちいさくちいさく噛みしめる。唇の端に蜜の粒がきらりと光ったかと思うと、フィルは舌先でぺろりと自分でさらってしまった。
「……ふふっ」
アーシェは手拭きを握ったまま、吹き出しそうになって肩を揺らした。
セリアは最初、籠の小さなサンドイッチを指先でつまんだまま、じっと見つめているだけだった。けれど、フィルの「おいしいねえ」が何度も弾み、アーシェも楽しげに味わううちに、硬かった表情が少しずつ解けていく。
一口。それから、もう一口。
「……美味しい、です」
二人の顔を見ながら、セリアが小さく声をこぼした。
「でしょう?」
目を合わせて微笑むと、セリアの笑みからも、ぎこちなさが消えていた。
杯を取れば、月冷石で冷やされた飲み物が掌にひんやりと染みる。ほのかな果実の甘みと清涼感が喉を抜け、続けて口にした焼き菓子は、ほろりと崩れた。熟した果実蜜の甘さの奥に、爽やかな余韻が残る。
「……こんなに甘いもの、久しぶりです」
「たくさんあるから、遠慮しないでね」
「はい」
返事の響きは、屋敷を出た朝よりずっと明るかった。
そのとき、フィルが自分の前の焼き菓子をひとつ取り、油紙の上へそっと載せた。両手で捧げ持って立ち上がり、とことことセリアの正面へ回り込む。ちゃんと顔が見える場所で、ゆっくり、はっきりと。
「セリア姉さま。これ、あげる。セリア姉さまの分」
セリアは目を丸くして、差し出された小さな手と、誇らしげな顔を見比べた。
「……ありがとう。大切に、いただきますね」
「うん!」
満足そうに何度も頷いて、フィルは自分の席へ戻っていく。
湖面を滑った風が、木々をさやさやと渡った。木漏れ日が敷布の上で、黄金色の模様を揺らしている。三人はしばらく言葉も忘れて、ただ味わい、笑い合った。
「……こういう時間も、いいですね」
セリアが湖の青を見つめたまま、ぽつりと言った。
「肩の力が、抜けるみたいです」
「たまには、こういう日があってもいいと思うの」
「はい」
その横顔から、朝の固さは見違えるほど消えている。
◇ ◇ ◇
食後の腹ごなしに、三人は湖畔の小道をゆっくり歩いた。
「あそこ、お魚がいる!」
フィルの指さす先、澄んだ水底近くを、小さな銀色の魚影がすいすいと泳いでいる。
「触りたい」
「危ないから、見るだけよ」
「はあい」
素直に返事をして、フィルはその場にちょこんと屈み込んだ。魚が動けば目だけで追い、岩陰に隠れれば首を傾げる。
「どこいったの?」
「もう少し待っていたら、また出てくるかもしれないわ」
「ほんと?」
「きっとね」
水線を見つめるフィルの真剣な横顔に微笑みながら、アーシェはふと道端の木陰に目を向けた。細い蔓性の植物が、木漏れ日の中でひっそりと伸びている。枝先には、見慣れない小さな赤い実が、房になって垂れ下がっていた。
そっと身をかがめ、香りを確かめる。甘酸っぱく爽やかな匂いが、鼻先をくすぐった。
――これ、お菓子に使えるかもしれない。
「セリア、これを見て」
呼ばれて寄ってきたセリアが、アーシェの顔をまっすぐ見る。
「なんですか?」
「名前はわからないの。でも、いい香りがするでしょう?」
蔓を傷つけないよう、実をひとつだけ丁寧に摘み取った。掌の上で愛おしそうに見つめていると、セリアがくすりと笑う。
「アーシェは、お菓子のことになると、目が輝きますね」
「そうかしら」
「はい」
照れくさくなって、アーシェは頬を緩めた。
「姉さまー!」
振り返れば、フィルが布を胸にぎゅっと押し当てて、タタタと駆けてくる。
「見て! まんまるがいっぱい!」
地面に屈んで布を広げると、ころころとした丸い木の実が、いくつも顔を出した。フィルはその中から一番大きくてきれいな一粒を選び、セリアの掌にちょこんと載せる。セリアも身をかがめ、フィルの口元が見える高さで受け取った。
「ありがとう」
「どういたしまして!」
胸を張ったフィルの顔に、これ以上ないほど得意げな笑顔が弾ける。セリアは丸い木の実を両手で包み、しばらく見つめてから、ふふ、と小さく笑った。その笑い声が、湖を渡る風にほどけていく。
◇ ◇ ◇
陽が西へ傾き始めると、メイドたちが敷布を畳み、木籠や杯を片付け始めた。
アーシェは手拭きに包んだ赤い実を、懐へそっとしまう。
――この実のこと、早くベルトに見てもらいたい。
「セリア、疲れていない?」
顔を上げたセリアの頬には、朝にはなかった血色が戻っていた。
「大丈夫です。……なんだか、身体が軽くなったみたいです」
夕暮れ前の金色の光が、湖面を淡く染めている。セリアはそれを振り返り、少しためらってから口を開いた。
「また、来てもいいですか?」
「もちろんよ」
横でフィルが両手を空へ伸ばし、ふわあと伸びをした。
「たのしかったねえ。おなかのなか、まだお日さまがいるみたい」
「またお弁当、食べたい!」と続けるのを聞いて、アーシェとセリアは顔を見合わせ、思わず声を弾ませて笑った。
木籠を提げたメイドのそばに寄り添って、三人は緑の小道を歩き出す。夕陽を受けたセリアの横顔に、寝台の上でアーシェが見つめた朝の影は、もうどこにもなかった。
籠の蓋の隙間から、果実蜜の甘い香りがひと筋こぼれて、帰り道をいつまでも追いかけてくる。




