第八話 ―赤い宝石に、甘い夢―
湖畔で見つけた赤い実のことが、アーシェの頭から離れなかった。みずみずしい赤色と、鼻先をかすめたほのかな甘い香り。あれが何という実なのか、まずは確かめたい。そう思い立って、アーシェは研究棟へ足を向けた。
重い木枠の扉を押し開けると、机いっぱいに植物図鑑を広げたベルトが、丸眼鏡の奥から顔を上げた。紙の匂いに、乾いた薬草の香りが混じっている。
「ベルト、聞いてほしいことがあるの」
「おや、アーシェ様。どうなさいましたか」
「湖畔でね、見慣れない実を見つけたの。細い蔓に、赤い実が房になって垂れ下がっていて……近づいたら、甘い匂いが漂ってきたの」
「赤い実、蔓性、甘い香り……」
ベルトは痩せた顎に指を添え、視線をしばらく宙に泳がせた。頭の中の引き出しをひとつずつ引いていくような間のあと、ぽつりと口を開く。
「もしかすると、赤鈴実かもしれません。私の推測どおりなら、この時期は湖畔の日当たりのよい斜面で見られるはずです。ただ、実物はまだこの目で確かめておりませんので、断言はできませんが」
「赤鈴実……」
「それなら、一緒に見に行ってもらえないかしら。もっと詳しく知りたいの」
「私も、ぜひ拝見したいですね」
◇ ◇ ◇
馬車はごとごとと林道を揺れ、湖畔の手前で止まった。後ろに護衛の騎士とメイドを従えて、ふたりは緑の濃い小道を並んで歩く。朝の澄んだ光が葉の間を濡らし、足元に細かな影を散らしていた。
木々を抜けると、視界がひらける。陽を受けた水面がそよ風に揺れ、砕けた琥珀のようにきらりと光の粒を散らしている。頭上の梢がそっと鳴り、しゃらり、しゃらと軽やかな音が降ってきた。岸辺に近い日当たりのよい斜面へ目を向ければ、記憶のとおりの赤い実が、細い蔓に房となって垂れている。
「あれよ、ベルト」
アーシェが小さく指を差すと、ベルトは丸眼鏡をくいと直し、蔓のもとへ小走りに近づいた。
蔓の前にしゃがみ込み、実の形はもちろん、土の湿り気、葉の付き方、蔓の伸びる向きまで、穴が開くほど見つめる。
「南向きの、日当たりのよい斜面。水はけのよい砂質の土を好むようですね。果皮は非常に薄く、種は実の大きさの割にやや大きい。それから、先ほどの甘い香りですが、これは糖分ではなく強い酸味を伴う芳香成分でして――」
学者の探求心に火がつくと止まらないのが、ベルトだった。説明はいつものようにどこまでも長くなる。アーシェは急かさず、言葉の続きを待った。
「……要するに、とても酸っぱいのね」
ベルトは自分の長話にようやく気づいたのか、照れくさそうに首を縦に振った。
「はい、そのとおりです。この領内には甘い果実や木苺が豊富に実りますから、わざわざ酸味の強い実を摘む者は、まずおりませんでしょう」
「でも、食べられない実ではないのよね?」
「毒性はありません。強いて言えば、酸っぱいものが大好きな、少し変わり者向けの実でしょうか」
「そうなのね」
アーシェは蔓を傷めないよう、小さな指先で一粒を摘み取った。朝の光にかざすと、赤く透き通った実の中で、光がちらちらと揺れる。小さな宝石のようなそれを口へ運んだ途端、舌の奥がきゅっと縮むほどの酸味が弾けて、思わず目をぎゅっと閉じた。隣で、ベルトの口元がわずかにほころぶ。
「かなりの酸味でしょう」
「とっても。でも……」
口の中に、嫌な後味は残らなかった。爽やかな余韻だけが、すうっと引いていく。突き抜けるような酸味ではあるけれど、生き生きとして、まっすぐな味だ。
――あたたかく甘いカスタードと合わせたら、きっと飛び切り美味しいわ。
前世の厨房で何度も焼き上げた、ひとつの菓子の情景が浮かび上がる。サクッと焼けた生地の器に、とろりと淡い黄金色のカスタード。その上に、赤い宝石のように敷き詰められた、甘酸っぱい実。濃やかな甘さの中で弾ける鮮烈な酸味の色が、目の前の湖畔の風景と重なった。アーシェの琥珀色の瞳が、ぱっと光を宿す。
「ベルト、この実、もう少し摘んで帰ってもいいかしら。木が傷んだりしない?」
「一本の株から摘みすぎると翌年の実付きに響きますが、いくつかの株から少しずつであれば問題ありません。……ところで、何にお使いになるのですか」
「内緒」
アーシェは小さな唇に指を当て、いたずらっぽく笑った。教わったとおりにいくつかの株を回って、熟した実を少しずつ摘んでいく。持参した麻の布袋の中で、赤い実がころりころりと重なって、軽やかな音を立てた。
◇ ◇ ◇
屋敷へ戻ると、アーシェは摘んだばかりの実を抱えて、まっすぐ厨房へ向かった。
「ガストン、見てほしいものがあるの」
大きな竈の前に立つガストンは、仕込みの手を止めないまま、鋭い横目を寄越す。
「……何なりと」
アーシェが踏み台に上がって、仕込み台に赤い実を並べると、ガストンの目が一瞬だけ細まった。
「……赤鈴実ですな」
「さすがガストン。すぐに分かるのね」
「山の猟師が、口直しに齧ると聞きまして」
「とっても酸っぱいのよ。だからね、甘いカスタードクリームと合わせたいの」
アーシェは頭の中の形を、ひとつずつ言葉に置いていった。
「丸く薄く伸ばした生地を香ばしく焼いて、そこへたっぷりカスタードを流すの。それから、この赤い実をシロップでやさしく煮て、上にきれいに並べるわ」
ガストンは赤い実を一粒つまみ、厨房の光にかざした。
「……酸味を、甘みで受け止める」
「そう。きっと見た目も華やかで、とびきり美味しいと思うの」
黒髪の短髪をわずかに揺らして、ガストンが短く頷く。
「……楽しみですな」
無口な職人のその一言に、アーシェの表情がぱっと華やいだ。けれど、すぐに手が止まる。
「……あら?」
「どうなさいました」
「焼く型がないわ」
浅く広がり、生地を敷き詰めたまま焼き上げるための器。前世の厨房で当たり前に使っていた金属の焼き型は、この世界にはまだ存在しなかった。
――外して使う型でなくていいんだわ。器ごと焼いて、そのまま食卓へ出せばいい。
「型、とは」
「浅くて広い、お皿のような道具よ。底は平らで、縁だけが低く立ち上がっているの。生地を敷いて、そのまま窯に入れて焼けるものが欲しいの」
ガストンは腕を組み、しばし考え込む。
「鉄でも作れましょうが……」
「鉄は高価だもの」
アーシェはすぐに首を振った。このハイセル領には、鉄よりずっと身近で、職人たちの知恵が活きる素材がある。
「陶器なら、器のまま焼ける浅いお皿が作れるんじゃないかしら」
◇ ◇ ◇
その日のうちにセバルトへ相談すると、案の定、眉間の皺を一段と深くされた。
「陶器で、お菓子の型を……でございますか」
呆れ顔を見せながらも、翌朝には職人ギルドへ話を通す手筈を整えてくれるのが、この家令の優しさだった。
案内されたギルドの二階執務室へ上がると、階下から金槌を打つ音と木を挽く音が、床板を伝って届いてくる。壁一面に木材や金属、石材の見本が並ぶ部屋で、ロドリックがいつもの豪快な声で笑った。
「また面白い依頼だな、お嬢様!」
「浅くて広いお皿が欲しいの。真ん中は平らで、縁だけ少し立ち上げてほしいのよ」
「なるほどな」
ロドリックの呼びかけで、ギルド所属の陶工が部屋へやってきた。日に焼けた太い腕の、実直そうな男だった。
アーシェは小さな両手で、皿の形を宙に描いてみせる。
「このくらいの大きさで、底はできるだけ平らに。縁は、中身がこぼれない程度でいいの」
陶工は腕を組み、職人の目でしばし考え込んだ。
「広くて平らな底だと、ある程度の厚みがなけりゃ、窯の熱で歪みますな。縁は少し外へ向けて立てて、角を丸めておけば、ぶつけても欠けにくい」
「厚みがあっても構わないわ。焼いた時に歪まないほうが、ずっと大切だもの」
「なら、底はしっかり厚くしましょう」
陶工は持参した粘土をひとかけ手のひらに載せ、慣れた手つきで形を作ってみせた。浅い皿の姿が、見る間に立ち上がっていく。アーシェは身を乗り出して、その手元を目で追った。前世で使った金属の型とは違う。けれどこれは、この世界の職人の手から生まれる、新しいお菓子の道具なのだ。
「素焼きなら、すぐ作れます。ただ、使う時にいきなり熱い窯へ入れるのは避けたほうがいい」
「どうして?」
「急な温度の変化に耐えきれず、割れることがあるんで。最初は窯の余熱で、少しずつ温めてやるのが安全です」
「……道具を、ゆっくり熱に慣らしてあげるのね」
「そういうことです」
アーシェは深く頷いた。知らなかった道具の扱いを、またひとつ教わった。ここへ足を運んだ甲斐があったと思う。
* * *
数日後、焼き上がった皿が、陶工の手で厨房へ届けられた。浅く広く、縁がなだらかに立ち上がった素焼きの皿からは、焼けた土の香ばしい匂いがほんのりと立つ。皿を眺める陶工は、どこか誇らしげだった。
「使い始める前に、薄く油を塗って、一度軽く焼いてやってください。土が油を吸って少しずつ馴染んで、使うほど扱いやすい皿になります」
「油を……馴染ませるのね」
アーシェは皿の表面を、小さな指先でそっとなでた。焼き上がったばかりの肌は、わずかにざらりとしている。ここへタルトを敷き詰め、器のまま切り分ける。取り分ける時に生地が底へ張りつかず、すっと離れてくれたなら、どれほどきれいだろう。
――油を馴染ませておけば、きっとそうなるわ。
「ガストン」
「はい」
「このお皿に、薄くオリーブオイルを塗って、一度軽く焼いておいてもらえるかしら」
「承知いたしました。……急に熱せぬよう、窯の余熱で馴染ませておきます」
ガストンは両手で、素焼きの皿を受け取った。
その日の夕刻、アーシェは皿の様子を確かめに厨房へ向かった。ガストンは言葉少なに、皿の縁を布で一度拭ってから差し出す。
「……馴染みました」
両手で受け取った皿は、まだほんのりと温もりを残していた。高い格子窓から差す光にかざすと、素焼きだった表面にはうっすらと艶が生まれ、指でなぞればしっとりとなめらかだ。
「……いいわ。とっても素敵」
サクッと香ばしい生地。濃厚なカスタード。シロップで煮た、甘酸っぱい赤鈴実。頭の中に焼き上がりの情景が広がって、アーシェは出来上がったばかりの皿を、そっと胸元へ抱えた。
――今度こそ、作れるわ。
夕暮れの光が、皿の丸い縁を橙色に染めている。夕餉の仕込みの匂いに、焼けた土とオリーブ油の温かな香りが混じり、厨房にゆっくりと満ちていった。




