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アーシェリルリア ― 月がはぐくむ 蜜の夢 ―  作者: noyu
第四章 ―恵みを重ねて、花は咲く―

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第九話 ―月と、太陽と、ひとつのタルト

第四章⑨ 月と、太陽と、ひとつのタルト


「フィル、今日は一緒にお菓子を作りましょう」


 朝の光が厨房の窓辺をやわらかく温めるなか、アーシェが声をかけると、フィルの瞳がぱっと輝いた。


「うん!何を作るの?」


「湖畔で見つけた赤い実を使うの。覚えてる?お池のそばにあった実よ」


「おぼえてる!赤くて、まるいのだよね!」


「そう、その実よ。お昼にはお父様にも持っていく約束をしているの。だから、とびきり美味しくしましょうね」


「うん!父さまにも、ぼくたちのお菓子!」


 ふたりは並んで、厨房の奥の貯蔵庫へ向かった。月冷庫の重い木蓋を持ち上げると、月冷石の冷気がふわりと頬を撫でる。


 石棚の木籠には、昨日、使用人に頼んで摘んできてもらった赤鈴実が収まっていた。小さな赤い粒は朝露を纏ったように潤み、差し込む光を受けて、紅玉の欠片のようにきらりと光る。


――採れたてのうちにしまっておいて、よかった。


「わあ、つやつやしてる!」


 フィルが木籠を覗き込み、目を細めた。


「そうね。昨日のうちに月冷庫へ入れておいて、正解だったわ」


 アーシェは木籠を両手で抱え、貯蔵庫をあとにした。


 厨房では、竈の前でガストンがすでに朝の仕込みを進めていた。石窯の前にはエルトがしゃがみ、窯口に顔を寄せて、薪の火と窯の熱を確かめている。ぱち、と薪が爆ぜた。


「ガストン、エルト、おはよう」


「おはようございます、アーシェ様、フィル様」


「……おはようございます」


 エルトは窯口から顔を上げ、短く一礼した。出会った頃の張り詰めた気配はもう薄く、向けられた眼差しは落ち着いている。


「今日はね、この実でタルトを作るの」


 調理台に木籠を置くと、ガストンが赤い実を一粒つまみ、光にかざした。


「……良い実です」


 それだけ言って、小さく頷く。


 生地作りは、アーシェの受け持ちだった。


 木鉢にふるった小麦粉と塩をひとつまみ入れ、オリーブオイルを細く回しかける。指先で粉と油をすり合わせていくと、さらりとした粉が、しっとりとしたそぼろに変わっていった。指の腹に伝わる手触りの変化を確かめながら、アーシェは手を止めない。


「フィル、お水を少しずつ加えてくれるかしら」


「うん!」


 フィルは木匙を両手で握り、真剣な顔で水をすくった。そろそろと木鉢へ傾けると、ぽたり、ぽたりと落ちる雫が、粉の中へ吸われていく。


 最後のひと匙を入れ終えて身を乗り出した拍子に、袖が調理台の脇の絹ハリ草の篩に触れた。篩に残っていた粉がふわりと舞い上がり、フィルの鼻先にちょこんと白く止まる。


「あ」


 フィルはパチパチと瞬きをして、自分の鼻に触れた。


「……粉さん、ぼくのお鼻にお引越ししたの?」


 アーシェは思わず、くすりと笑った。


「そうかもしれないわね。フィルのお鼻が可愛いから、遊びに来たのよ」


「粉さんも、あったかいところが好きなのかなあ」


 真剣な顔で鼻先を見つめるフィルの頬へ、アーシェはそっと指を伸ばし、白い粉を払ってやった。


 水を加えながら、生地をひとつにまとめていく。捏ねすぎて固くしないよう、手早く、けれど丁寧に。前世の厨房で数えきれないほど繰り返した手の動きは、小さな身体になっても迷わなかった。


 まとまった生地を、清潔な白い布で包む。


「これで、少し休ませるの」


 フィルが、はっと顔を上げた。


「あ!この子も、またねんねするの?」


 スコーンやクッキーを作った日のことを、ちゃんと覚えていたのだ。


「そうよ。よく覚えていたわね」


「えっへん!」


 誇らしげに胸を張るフィルに、アーシェは目を細めた。


「美味しくなるまで、ゆっくり休んでもらいましょうね」


 休ませた生地を、麺棒で薄く伸ばしていく。木の棒が生地の上を滑るたび、円がゆっくりと広がった。


「フィルも、いっしょにやってみる?」


「やる!」


 アーシェが上から手を添えて麺棒を握らせると、フィルはおそるおそる体重をかけた。生地がふにゃりと厚みを変える。


「わあ、まるくなってく!」


「上手よ」


 薄く伸ばした生地を、素焼きのタルト皿へ敷き込んでいく。皿には先に油を塗って軽く焼き、しっかり馴染ませてあった。指先で縁を押さえて皿の丸みに沿わせると、素焼きの肌は、以前のざらつきが消えて指へなめらかに吸いつく。


 底には、木柄のフォークの先でぽつぽつと穴をあけた。


「ねえ、これはなに?」


「焼いているうちに、底が膨らみすぎないようにするおまじないよ」


「へえ……ふしぎ!」


 並んだ小さな穴を、フィルは目を輝かせて見つめていた。


 皿を、竈の前のガストンへ差し出す。


「ガストン、一度目の空焼きをお願いできるかしら」


「かしこまりました」


 皿を受け取るガストンの傍らで、エルトが窯口の火をもう一度確かめた。


「……火加減、ちょうどいいです」


「そうか。助かる」


 短いやり取りに、師と弟子らしい信頼がにじむ。ガストンは皿を窯口から奥へ、静かに差し入れた。


 空焼きのあいだに、アーシェは赤鈴実の下ごしらえに取りかかった。蔓から外した実を、木鉢の水で一粒ずつ洗っていく。冷たい水の中で赤い粒が転がり、水滴を弾いて朝の光にきらめいた。


 フィルが一粒つまみ上げる。


「これ、たべていい?」


「そのままだと、とっても酸っぱいわよ」


「だいじょうぶ!」


 止める間もなく、フィルは赤鈴実をぽんと口へ放り込んだ。


「――んっ!?」


 まあるい顔が、きゅっと真ん中にすぼまる。


「す、すっぱい……!お顔が、きゅーって、小さくなっちゃう……!」


 両手で頬を押さえるフィルに、アーシェはたまらず声を上げて笑った。


「ふふっ、言ったでしょう?今はまだ、そのままの酸っぱさだからよ。ガストンと一緒に、美味しく変身させてあげましょうね」


「ほんと?」


「本当よ」


 アーシェはガストンへ向き直った。


「ガストン、お鍋で煮詰めるのをお願いしてもいいかしら」


「かしこまりました」


 ガストンは小鍋に赤鈴実と琥珀糖晶の粉を入れ、小さな竈にかけた。やがて、ぷつぷつと細かな泡が立ち、甘い湯気がのぼりはじめる。


「とろ火のまま、焦がさないようにね」


「承知いたしました」


 琥珀糖晶が溶けて透明な蜜になり、赤い実を包んでいく。鮮烈な酸味の香りに、まろやかな甘い香りが重なった。


「いいにおい……お日さまとお花みたい」


 フィルが小さな鼻を鍋へ向け、うっとりと目を細める。


 実が透き通った赤に変わり、蜜がとろりと絡んだところで、ガストンが火から下ろした。木べらですくうと、シロップをまとった赤鈴実が、宝石のように照り返す。


「――うまくいったわ。ガストン、ありがとう」


 まもなく、石窯の窯口から香ばしい匂いが流れてきた。小麦の焼ける香りに、オリーブオイルのほのかな風味が混じる。


「ガストン、そろそろかしら」


「縁に、良い焼き色がついております」


 窯口から取り出された皿の中で、空焼きの生地が淡い黄金色に焼き上がっていた。


「まずは、粗熱をしっかり取りましょう。熱いまま冷たいクリームを入れると、生地が湿気てしまうの」


 ガストンが頷き、風通しのよい調理台の網の上へ皿を置く。皿がゆっくりと熱を逃がし、手で触れられるぬくもりに落ち着くまで、みんなで待った。フィルは網の前で爪先立ちになり、熱を見張るように皿を覗き込んでいる。


「まだ、さわっちゃだめ?」


「もう少しよ。あとちょっとだけ、待っていてね」


 やがて皿が冷めたところで、アーシェとフィルは調理台の前に並んで立った。


「フィル、カスタードクリームを中に入れてくれるかしら。そうっとね」


「うん!」


 早朝に炊き上げ、月冷庫で冷やしておいた星花香のカスタードクリームを、フィルが木匙で少しずつ生地の器へ流し入れる。卵黄の黄色と琥珀糖晶の色を溶かし込んだクリームが、とろりと広がっていった。


 フィルの手が、ぐらりと揺れた。


「あ……」


「大丈夫、ゆっくりでいいの」


 アーシェが手を添えると、フィルはほっとして匙を動かし続けた。


 カスタードを満たした上に、アーシェがシロップ煮の赤鈴実をひとつずつ並べていく。艶やかな赤い粒が、黄金色の上に円を描いた。最後の一粒を真ん中へ置いたところで、フィルが首を傾げる。


「もういちど、お窯に入るの?」


「そうよ。落ち着いた火で、もう一度やさしく温めるの。そうすると、実のシロップとカスタードが馴染んで、お互いの味がひとつになるのよ」


「そっかぁ!」


 アーシェは皿をガストンへ託した。


「ガストン、もう一度焼くのをお願い。窯の熱は、少し落ち着いたかしら」


 ガストンが窯の中の熾火を確かめる。


「強火は収まりました。この熱なら、よろしいかと」


「よかった。それなら、お願いね」


 皿が、窯口から静かに差し入れられた。


 二度目の焼成のあいだ、厨房にはカスタードのやさしい匂いと、赤鈴実の甘酸っぱい香りがゆっくりと満ちていった。窯の傍らで火を見ていたエルトが、ぽつりと言う。


「……すごく、良い匂いです」


 自分から気持ちを口にするのは珍しい。アーシェが微笑みかけると、エルトの薄い唇が、ほんの少しだけほどけた。


「私も、焼き上がりが待ちきれないわ」


 やがて、ガストンが窯口から皿を取り出した。


「アーシェ様。焼き上がりました」


 覗き込んだアーシェとフィルは、同時に息を呑んだ。


 カスタードの表面には薄い膜が張り、ところどころ淡いきつね色に色づいている。熱を帯びたクリームはかすかに震え、甘い湯気を立てていた。赤鈴実は熱を受けてきゅっと引き締まりながらも、透き通ったまま。そこから滲み出た赤いシロップが黄金色のカスタードへ染み込み、赤と金の境目が、淡い雲のようにとけ合っている。


「わあ……」


 フィルが丸い目で、その模様に見入った。


「黄色は、おつきさまみたいにやさしくて……赤は、おひさまのげんきだね!」


――本当に、そう。


 前世の店で焼いていた、木苺やレモンを合わせたカスタードタルトが、ふとよみがえる。けれど目の前にあるのは、ハイセルの恵みと職人の手仕事が生んだ、世界でひとつのタルトだった。


 黄金色のカスタードと、赤鈴実。月と太陽が、ひとつの素焼きの皿の上で寄り添っているようだった。


「どこを食べようかなあ……赤いところも、黄色いところも、どっちも食べたいな」


「切り分ければ、どこを食べても両方の味がするのよ」


「ほんと!?やったあ!」


 ガストンがナイフを手に取り、皿の上で静かに刃を入れた。生地がさくりと軽い音を立てて割れ、カスタードと果汁が重なる断面が現れる。切り分けた一切れを持ち上げると、油を馴染ませておいた皿の底から、すっときれいに離れた。


 フィルは真っ先に、木のフォークで大きくすくって口へ運んだ。もぐもぐと動いていた頬が、ふわりとほどける。


「……おいしい!」


 目がきらきらと輝いた。


「すっぱいのに、あまいの!お口の中で、みんなで手をつないでるみたい!」


「美味しくできたわね」


 エルトにも一切れが渡された。静かにフォークを運び、口の中でじっくりと味わう。やがて、細い肩からふっと力が抜けた。


「……美味しいです。こんなの、初めて食べました」


 短い言葉だったが、アーシェは頷いて受け取った。


 ガストンも自分の分を口に含んだ。さくりとした生地、カスタードのコク、赤鈴実の爽やかな酸味。ゆっくり噛みしめて、飲み込む。


「……うまい」


 この無口な職人の一言を聞くたび、アーシェは、いつも少しだけ背筋が伸びる気がするのだった。


「ありがとう、ガストン」


 アーシェも自分の分を口へ運んだ。生地がさくりとほどけ、卵と琥珀糖晶のカスタードが舌の上へなめらかに広がる。最後に、煮た赤鈴実の甘酸っぱさがきゅっと弾けて、華やかな余韻が鼻へ抜けた。


――前世のわたしが知っていたどのタルトより、ずっと特別な味。


 ハイセルの光を浴びて実った赤鈴実。地脈の恵みから生まれた琥珀糖晶。ギルドの陶工が焼いてくれた素焼きの皿。ガストンとエルトが見守ってくれた火。そして、フィルの小さな手。そのすべてが重なって、今、この一皿になっている。


「姉さま」


 フィルが笑いかけた。


「また、いっしょにつくろうね!」


「ええ。また、みんなで作りましょうね」


 ガストンが皿の縁を布で拭い、残りのタルトを整えて、お盆に載せた。控えていたメイドが、両手でお盆を持ち上げる。


「そろそろ、お父様のところへ行きましょうか」


「うん!父さまにも!」


 ◇ ◇ ◇


「ほう……これが、ギルドに頼んだあの陶器皿で焼いた、新しいタルトか」


 執務机で書類から顔を上げたヴェルナルドが、皿を覗き込んだ。


「そうなの、お父様。今日、フィルと一緒に作ったのよ」


「ぼくもお手伝いしたんだよ!粉さんがお鼻にお引越ししたんだから!」


「……粉さん?」


 首を傾げるヴェルナルドに、アーシェは笑いをこらえた。胸を張るフィルの鼻先を見て、ヴェルナルドの金の瞳が細められる。


「それは大変だったな。フィルが手伝ってくれたのなら、なおさら楽しみだ」


 メイドが小皿へ取り分け、最初の一皿がヴェルナルドの前に置かれた。フォークを入れると、生地がさくりと鳴る。ひと口運び、ゆっくりと味わった。


「……美味いな。甘みと酸味が、よく馴染んでいる」


 短い言葉の奥に、確かな満足が滲んでいた。アーシェの口元がほころぶ。


 それを見たフィルが、脇に控えるセバルトを見上げた。


「セバルトも食べてみて!」


 セバルトの眉間の皺が、ぴくりと動いた。


「私は、執務中ですので……」


「いいから!すっごく美味しいんだよ!」


 フィルにねだられ、セバルトは小さく息を吐いた。


「……では、立ったまま失礼します」


 小皿とフォークを受け取り、一切れを口に含む。ゆっくりと噛みしめるうちに、眉間の皺が少しずつ緩んでいった。


「……理想的です」


 静かに一礼するその声から、いつもの硬さがほどけている。アーシェは、こっそり口元を押さえた。生真面目な家令にとって、それは最上級の賛辞なのだ。


「アーシェ、フィル。よく頑張ったな」


 ヴェルナルドの大きな手が、ふたりの頭を順に撫でた。


「うん!姉さまと一緒につくったんだよ!」


「そうか」


 ヴェルナルドは笑って、窓からの昼下がりの光に照らされた皿へ目を移した。アーシェもその視線を追う。


 皿の上で寄り添う、ふたつの色。やさしい月のようなカスタードと、元気をくれる太陽のような赤鈴実。


 月と、太陽と、そしてみんなの手が、ひとつの皿に収まっていた。


 アーシェは、皿の縁に残った赤いシロップのひとしずくが、光を受けて小さく揺れるのを、いつまでも見つめていた。

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