―オリーブの葉と、守られた夜―
幕間 オリーブの葉と、守られた夜
その紹介状は、エルミラの遠縁にあたる元伯爵夫人の手で認められたものだった。
上質な紙の上を走る達筆は、書き手の誠実な人柄をそのまま綴っているかのようだった。仕事にひたむきで物腰は穏やか、幼い子どもの教育や所作の指導にも通じていること。すでに身寄りがなく、今よりも実入りのよい奉公先を探していること――そう記された文面に、疑うべき隙は見当たらない。
「エルミラの遠縁の方の紹介なら、間違いはないでしょう」
書簡を読み終えたヴェルナルドが頷き、傍らに控えていたセバルトも、異を唱えることはなかった。
やがて屋敷を訪ねてきた女性は、マルティナと名乗った。
窓を背にした立ち姿は優美で、声は耳に心地よい。言葉の端に添えられる微笑みには角がなかった。屋敷の誰もが「まあ、良い方が来てくださったこと」と胸を撫で下ろしたほどである。
側付きとして館に上がったマルティナは、まもなく幼いお嬢様に、読み書きと貴族としての基本の礼儀作法を教える役目を任された。
「マルティナがね、今日はお花の名前をたくさん教えてくれたの」
五歳になったばかりのアーシェは、その日あったことを、若葉色を秘めた琥珀の瞳を輝かせて両親に話して聞かせる子どもだった。マルティナが来てからは、弾むような声が館のあちこちで聞こえるようになった。
その声を見守りながら、セバルトもはじめは、ただ素直に好ましく思っていたのだ。
* * *
小さな違和感が澱のように胸の底へ落ちたのは、それから二月ほどが過ぎた頃だった。
アーシェの笑い声が、以前よりも減っている。
陽の当たる庭を駆け回る姿は少なくなり、気がつけば、部屋の窓辺にぽつんと立って遠くを眺めている時間が増えていた。
お疲れなのだろうか。それとも、季節の変わり目の気分の揺らぎか。幼い心身には、大人には測れない小さな波がある。そう自分に言い聞かせることもできた。だからセバルトはすぐには動かず、いつも通りに執務をこなしながら、ただ目だけを向けることにした。
アーシェが誰と過ごし、どんな時に微笑み、どんな時に言葉を飲み込んで黙るのか。以前と比べて、何が変わったのか。
その答えの端に触れたのは、ある午後の廊下だった。
薄暗い廊下を進むセバルトの視界を、すれ違いざま、マルティナの胸元で小さな光が掠めた。淡い緑石をあしらった、繊細なブローチである。
屋敷の調度も一族の品も、すべて頭に入っているセバルトの記憶に、違いはなかった。アーシェが四歳の誕生日に両親から贈られた品だ。
セバルトは立ち止まり、静かに声をかけた。
「見事な細工でございますね」
足を止めて告げたセバルトに、マルティナは動じる色もなく、うっすらと微笑んで首を傾げた。
「あら、お恥ずかしい。私の見立ても、悪くなかったようですね」
返ってきた言葉だけを拾えば、何の不自然もない。似た意匠の品をたまたま買い求めていた、それだけのことなら、奇妙な偶然で片づけられただろう。
けれど、あれは似ているという程度のものではなかった。石のカットも、縁を縫い取る細い金の曲線も、小さな意匠のひとつひとつまで、まったく同じなのだ。
セバルトは視線をブローチから外し、軽く一礼を返した。
その場では、それ以上を問わない。確かな証拠もないまま相手を詰問して波風を立てる真似は、長年このハイセル家に仕えてきた家令のすることではなかった。
数日後、若いメイドが困惑を顔に浮かべて、セバルトのもとへ報告に上がった。
「お嬢様が、鋏が欲しいとおっしゃるんです。……ご自身の髪を、切りたいのだと」
その一言で、散らばっていた不穏な点が、冷たい一本の線につながった。
◇ ◇ ◇
セバルトはその日のうちに、ヴェルナルドの執務室を訪ねた。
「しばらく、私が直接お嬢様のお側を預からせてください」
「理由は」
書類から顔を上げたヴェルナルドに、セバルトは感情を交えず答える。
「今は、まだ申し上げられません。……確かめてからで、よろしいでしょうか」
長年背中を預けてきた家令の目を見つめ、ヴェルナルドはそれ以上を問わなかった。
「任せる」
短い一言で、足りた。
それからのセバルトは、茶の支度や部屋の手入れを装い、さりげない佇まいのままアーシェの側についた。マルティナとアーシェが二人きりになる隙は作らない。ときにはあえて距離を置き、物陰から言動と視線を見定めた。
焦れば勘づかれて逃げられる。急げば、狡猾な証拠は闇に消える。待つと決めた家令の集中は、研いだ刃のように静かだった。
その間も、アーシェの小さな変化から目を逸らさなかった。
心から笑えているか。何かに怯えてはいないか。胸の中に言えない恐ろしさを抱え、一人で飲み込もうとしてはいないか。
そして、セバルトが側に控えている時だけ、こわばった頬がほんの少し緩むことにも、彼は気づいていた。
* * *
ヴェルナルドとエルミラが公務のために王都へ発った、その夜のことである。
廊下を駆けてきた青ざめたメイドの報せを受けて、セバルトは足音を立てずにアーシェの寝所へ向かった。
戸口で、一度だけ足を止める。
部屋の隅で、幼い身体を折りたたむようにして座り込んだアーシェが、小刻みに震えていた。小さな両手には、裁縫箱から持ち出したらしい鋏が握られている。幼い指にはあまりに重く、冷たい鉄の光だった。
不用意に踏み込めば、張り詰めた心をさらに追い詰めかねない。
セバルトは壁の油灯の芯を絞り、部屋の明かりを和らげてから、声を落とした。
「お嬢様」
弾かれたように顔を上げたアーシェの瞳は、縁まで赤く腫れていた。頬には幾筋もの涙の痕が、白く乾いている。
「セバルト……」
「大丈夫です。ゆっくりで構いません」
床に膝をつき、幼い少女の目の高さに視線を合わせる。握られた鋏へ手を伸ばすことはしない。この子が自分の意思で、その刃を手放せるように。
「何があったのか、教えていただけますか」
「……お母様が、かわいそうなの」
その一言が落ちた瞬間、セバルトの眉間に、刃物の跡のような深い皺が刻まれた。胸の奥で、冷たい怒りが静かに燃え上がる。それでも声も表情も、荒らげはしなかった。怒りをぶつけるべき相手は、この部屋にはいない。ここにいるのは、悪意に心を傷つけられて震える、五歳の子どもだった。
伸ばした手は、そっと幼い手に重ねられた。
「その鋏を、私にお預けいただけますか」
アーシェは握りしめたまま、しばらく動かなかった。壁の油灯が小さく鳴り、揺れた炎が二人の影を壁に伸ばす。
やがて、セバルトの静かな眼差しに見つめられるうち、指先からふっと力が抜けた。冷たい鋏がセバルトの掌へ渡る。彼はそれをアーシェの目に入らない床の脇へ置き、両腕を広げて、震える身体を抱き寄せた。
「よく、教えてくださいました」
胸に伝わる体温に触れて、堪えていたものが堰を切った。
「……髪が、きたないの」
セバルトの胸に顔を埋めたまま、掠れた声が途切れ途切れにこぼれる。
「魔力も、ないから……。王都でも、エルミラ様の娘は、魔力もない、きたない髪だって……言われてるって」
セバルトは何も挟まず、ただ耳を傾ける。
「こわかったの。でも、切らなきゃって……そうしないと、お母様が」
嗚咽に途切れる言葉の欠片を、セバルトは遮ることなく、小さな背を大きな掌でゆるやかに撫で続けた。開け放たれた窓の外で、夜風が庭木をさわさわと揺らしている。
「もう、大丈夫です」
やがて嗚咽が間遠になり、荒かった呼吸が少しずつ静まった。セバルトは抱擁をそっとほどき、幼い手を引いて月明かりの差す窓辺へ導いた。庭の向こうに、銀の紗をまとったようなオリーブ畑が広がっている。
「お嬢様。あの葉を、ご覧になれますか」
涙の残る瞳が、おずおずと夜の景色へ向けられる。
「あの緑は、この島の恵みの色です。潮風と地の力を受けて、ああして輝きます。島の者は皆、あの色を美しいと思っております」
「……オリーブ」
小さな呟きを聞き留めて、セバルトの視線が、しっとりと波打つアーシェの深緑の髪へ移った。
「お嬢様の御髪も、あの葉によく似た色をしています」
アーシェの指先が、胸元に垂れた髪先に触れる。
「誰が何と言おうと、旦那様も奥様も、この館の者も皆、美しいと思っております」
言葉を重ねすぎることは、しなかった。
「髪は綺麗です、と今お伝えしても、傷ついたお心にはすぐに届かないでしょう」
アーシェは唇を噛んで、小さく頷いた。
「ですから、今夜はこれだけ。あの葉を、お嬢様ご自身の目で美しいと思われる日が来るまで、何度でもお話しします」
アーシェは長いあいだ、涙の滲む目で窓の外の深い緑を見つめていた。月光を受けた葉が、風にひるがえるたび、銀と緑を細かく入れ替える。
やがて、消え入りそうな声が落ちた。
「……きれい」
その一言に、セバルトの眉間の皺が、ようやくほどけた。詰めていた息を、深く、長く吐き出す。
* * *
数日後の、穏やかな朝だった。
朝露の降りた庭に出たアーシェが、大きなオリーブの木の前で足を止めた。やわらかな光を浴びて、風に揺れる一枚一枚の葉が、銀の糸で縁取られたように輝いている。
アーシェは自分の髪を一房つまみ、本物の葉と、じっと見比べた。
「……オリーブの葉と、にてる」
少し離れた日陰から見守っていたセバルトは、足音もなく歩み寄った。
「はい」
それだけだった。余計な言葉は挟まず、幼い少女の隣に立つ。
アーシェはしばらく、朝光に透ける緑を見つめていた。それから、ためらいがちに顔を上げる。
「じゃあ……この髪も、きれい?」
「とても」
迷いのない答えだった。けれどアーシェの目はもう、自分の髪を離れて、風にそよぐ木の葉へ戻っている。
島を渡る風が、さらさらと枝を鳴らした。葉の表と裏で色が入れ替わり、こぼれ落ちる光の粒が、小さな肩の上で踊る。アーシェはその光と風の戯れを、吸い込まれるように長く見ていた。
「……うん」
風の音にさらわれそうな、小さな声だった。
「きれい」
それは、誰かに差し出された慰めの言葉ではない。アーシェが自分の目で見つけ、自分の心で感じ取った、ほんものの「きれい」だった。
* * *
マルティナの姿が館から消えたのは、あの夜が明けて間もなくのことだった。ハイセル領の騎士隊の手に引き渡され、その身柄はのちに王都へ送られたのだと、セバルトは聞いている。
彼女の荷からは、淡い緑石のブローチが見つかった。セバルトはそれを丁寧に磨き、小さな布に包んで、持ち主のもとへ返した。アーシェは掌に載せた緑の光をしばらく見つめ、それから、胸にきゅっと抱きしめた。
「……ありがとう、セバルト」
セバルトは黙って、深く一礼した。
のちにセバルトが密かに進めた調べにより、マルティナが何者かから多額の対価と指示を受け、ハイセル家へ潜り込んでいたことが明らかになった。紹介状を書いた元伯爵夫人もまた、借金を盾に裏から脅されていたのだという。
だが、糸を引いていた者が誰なのか――その全貌は、セバルトの手腕をもってしても、ついに見えなかった。慎重に裏を探り、辿り着いたのは「エルミラ様に、古い執着を持つ者がいるらしい」という、噂の域を出ない一片の話だけである。真偽も、闇の奥の真実も、深い霧に包まれたままだった。
セバルトはその報告をヴェルナルドにのみ伝え、誰の耳にも入れぬよう、固く口を閉ざした。
事件が収まっても、アーシェの心が受けた傷は、すぐには元通りにならなかった。
昼の庭では笑う日もあった。小さな寝台で眠るフィルの顔を覗き込み、やわらかな指にそっと触れて「フィル、ちいさいね」と笑みをこぼす姿を、セバルトも見守った。
けれど同じ日の夜、アーシェは悲鳴を上げて跳ね起きる。
呼ばれれば、セバルトは夜がどれほど更けていても、すぐに寝所へ向かった。駆けつけたヴェルナルドとエルミラの傍らで膝をつき、アーシェが落ち着くまで座り続ける。セバルトの姿を目にすると、途切れがちだった少女の呼吸が、少しずつ戻っていった。
暖炉の薪がぱちりと爆ぜる部屋で、セバルトは深く頭を下げた。
「私の目が行き届かなかったせいでございます」
ヴェルナルドもエルミラも、己の不覚を責めるように、重い沈黙の中にいた。
けれど、悔やんで立ち止まることは、家令にも、ハイセル家にも許されない。
「私は、これまで通り家令の務めを果たさせていただきます」
セバルトは二人をまっすぐに見て、言葉を重ねた。
「今度こそ、お嬢様を脅かす影を、決して見逃しません」
ヴェルナルドとエルミラが、頷いて応える。その夜を境に、館はただひたむきに、幼いアーシェへ愛情を注ぎはじめた。エルミラは寝かしつけの時間を増やして子守唄を歌い、ヴェルナルドは公務の合間を縫って、庭を共に歩いた。
そしてセバルトは、夜の呼び声があれば、いつでも変わらぬ佇まいで応えた。
* * *
それからしばらくして、ある夜のことである。
ようやく眠りについたアーシェの部屋の前で、セバルトは背筋を伸ばし、椅子に控えていた。
薄暗い廊下の向こうから、寝巻きに薄い上着を羽織ったエルミラが、静かな足取りで歩み寄ってくる。
「セバルト」
「奥様」
「もう、お休みになって。今夜は、私が付き添いますから」
セバルトは立ち上がり、深く一礼した。
「お気遣い、感謝いたします。ですが今夜は、ここに控えさせてください」
押し問答もしなければ、大仰な理由も並べない。何があってもこの場を動かないという意志だけを、一礼に込めた。
エルミラはしばらくその横顔を見つめ、やがて小さく微笑んで頭を下げた。
「……よろしくお願いしますね」
それ以来、セバルトにはアーシェの部屋のすぐ近くに一室が与えられ、夜をそこで過ごすことが決まりとなった。闇の中で悲鳴が上がれば、すぐに駆けつけられるように。
特別な日の献身ではない。それはいつしか、ハイセルの領主館の、当たり前の日常になっていった。
* * *
それから、いくつもの季節が巡った。
アーシェは、また心から笑うようになった。木苺を摘んで赤い果実蜜を煮詰め、困り顔の料理長ガストンを見つけては、くすりと笑う。弟のフィルの手を引き、ベルトの回りくどい観察結果に楽しげに相槌を打ち、セリアと並んで、温かな紅茶の入った木のカップを両手で包んでは目を細めた。
誰もが、目には見えない傷を抱えている。セリアも。エルトも。そして、アーシェも。
それでも人は、傷を抱えたまま、前を向いて歩いていける。幼かった少女の背を見守りながら、セバルトはそう思っていた。
今でも、ごくまれに、忘れた頃に夜の悲鳴が聞こえることがある。
そのたびにセバルトは、変わらぬ動作で扉を開けるのだ。
「ここに居ります。もう、大丈夫です」
いつもと同じ、静かな声を添えて。
* * *
湖畔からの帰り道、島を渡る風が、アーシェの髪をふわりと巻き上げた。
オリーブの葉によく似た、しっとりと艶やかな深緑の巻き毛。降り注ぐ日の光を受けて、生きているもののように揺れる。襟元では、淡い緑石のブローチが、同じ光をちいさく弾いていた。
「アーシェ、髪に葉っぱがついているわ」
歩み寄ったセリアが、微笑んで手を伸ばした。
「あら、ほんと」
アーシェは気にした様子もなく、楽しそうに笑って、それを払い落とした。
その様子を、セバルトは少し離れた樹の陰から見つめていた。
島を渡る風がもう一度しゃらりと音を立て、優雅な巻き毛を大きく揺らす。光の中でほどける深いオリーブの緑を、この館の者も、この島に生きる者も、誰もが当たり前のように愛している。
幼い少女がもう二度と己の髪を気に病むことはないのだと、セバルトは胸の奥で静かに確かめていた。




